第11話 トラブルメーカー

 暦の上では寒の明けというが、曇り空の寒さを押して全員巡回に出払った交番で、岩淵巡査部長と馬淵巡査部長が羽を伸ばして気怠く椅子にのさばっていると、遠くからでもその怒りようが判別の付く老婆が真っすぐ交番目指して近付いて来るのが見えた。

「あの婆さん…」

「我が町が誇るクレーマーだ」

 馬淵巡査部長は舌打ちして構えた。以前にも下らん苦情を垂れに来た福留弥栄子という老婆だ。弥栄子は交番に入って馬淵巡査部長と岩淵巡査部長を見て露骨に嫌な顔をした。

「何だ、役立たずが揃ってるじゃないか。何とかしてもらえませんか! 一向に喫煙をやめてくれませんよ。路上は喫煙所じゃないんですから、ちゃんと取り締まってください!」

「しかし、警察は事件にならないと強制的には…」

「そんなはずはないでしょ。警察はちゃんと “事件の未然防止” を謳ってるじゃないですか!」

「しかしね、お婆ちゃん」

「私はあんたのお婆ちゃんじゃありません、福留弥栄子といいます! しっかり取り締まってください。一番街での路上喫煙は3000円の罰金です」

「警察は民事には…」

「善処するって言ったじゃないの。役立たずですね、あんた」

「おばあ…福留さん、あれは非番の不死川巡査が勝手に言ったことです」

「そうかい…あなた、“割れガラス理論” ってご存じ?」

「何です、それ !?」

「いずれ分かりますよ。そうなってから “あたふた” しても、あたしゃ知りませんからね」

 弥栄子は馬淵巡査部長らに以前にも増して蔑んだ眼差しを残して去って行った。そしてその事がいずれ事件に発展することになるなどとは馬淵巡査部長らに想像出来るはずもなかった。

 上杉所長が本署の防犯決起集会を終えて帰って来た。

「所長、“割れガラス理論” ってご存じですか?」

「何だね、藪から棒に」

「苦情のお婆さんがね、“割れガラス理論” を知っているかって豪い剣幕で帰って行きましたよ」

「どんな苦情?」

「若い連中が毎晩一番街での路上喫煙をやめないんで取り締まってくれって言うんですよ。前にも来たんですがね」

「巡回したのか?」

「いや、まだなんですけどね」

「以前の苦情…報告書には記載したんだろうね」

「小さなことですから特筆することもないだろうと…」

「小さなこと !? …小さなことね…」

 割れガラス理論とは、放置した1枚の割れた窓ガラスが更に割られる窓ガラスを増やして、いずれその建物や街全体が荒廃していくという理論だ。一個の粗大ごみの不法投棄の場所がその後どうなるかは火を見るより明らかだろう。アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリング博士により提唱された環境犯罪学理論で、破れ窓理論、壊れ窓理論、ブロークン・ウィンドウ理論ともいわれている。

 上杉所長には馬淵巡査部長らの横柄な応対が想像付いた。それに福留弥栄子が度重なる苦情を申し出て来たと聞いて、ある懸念を持った。彼女は商店街の役員たちと親しい。馬淵巡査部長の応対は役員の間で問題になるだろう。そこにもし、“バタフライ効果” の如き作用が働いたら深刻な事態になりかねない。バタフライ効果とは些細なことが徐々に大きなうねりとなっていくことを指すが、馬淵巡査部長らのその上目線の応対が福留弥栄子ならずとも多くの交番訪問者の顰蹙を買っている現場を上杉所長ら他の巡査も度々目撃していた。

「…まずい」

「何がまずいんですか、所長」

 上杉所長は呆れた態でまた交番を出て行った。馬淵巡査部長は舌打ちした。

「所長はいいご身分だな」

「ババアの権幕など気にすることはないでしょ。それが警察というものだ」

 岩淵巡査部長は嘯いた。


 言い知れぬ胸騒ぎを覚えた上杉所長は福留宅を訪れていた。

「弥栄子さん、本当に申し訳なかったね」

 上杉所長は馬淵巡査部長らの応対を詫びた。奥で弥栄子の夫・正一の咳込む音がした。

「このところ調子が悪いんだよ、あの人」

「…持病ですか」

「治まっていたんだよ、今まで。でも、このところ、うちの真ん前に屯してタバコを吸う連中が増えて、困っているんだよ。路上喫煙全面禁止なのに守らないんで役所に行ったんだけど、見回りまでは出来ないって」

「…そうですか」

「うちの人、COPDなんだよ。肺の細胞が発作の度に繊維化して行き、しまいには呼吸困難になるっていわれているんだ。ボンベがないと歩けなくなっていたけど、このところのマナーの悪さで発作が度重なってすっかりやつれてしまったんだ」

「そうだったんですか」

「見てくださいよ、ここは喫煙所じゃないんですから」

 表通りでタバコを吸っている連中が増えて来ていた。奥で正一の発作が激しくなり苦しみ始めた。

「あんた!」

「救急車を呼びます!」

 間もなく到着した救急車に収容される最中、近くで見ている喫煙者を睨み付け、彼らの顔を記憶に刻んだ弥栄子は、気丈に夫の搬送に付き添って行った。

 交番への帰途、ふと上杉所長は機嫌よく応対してくれた弥栄子に違和感を覚えた。馬淵巡査部長らの対応の拙さには自分に対しても憤った態度をとってもおかしくないはずだ。それが、何の要望もせずに半ばあきらめて気落ちしている態度にも取れたが、搬送される救急車を見送った時、背筋に寒さが沁みた。あれは季節の寒さというより弥栄子が喫煙者たちに向けた憎悪の表情に対する悪寒だったのかもしれない。上杉所長の胸騒ぎは一向に治まらなかった。


〈『第12話 獄卒』に続く〉

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