第8話 忙しい日
同じ交番に3年も勤務していると一人や二人は鼻につく住民が出て来る。不死川巡査はそうした彼らにはいつも脳裏で天誅を加えていた。そいつが現実に目の前で悪さをしているのを発見すれば、自ずとその度に天誅劇が脳裏を駆け巡る。最近では脳裏の天誅劇が現実に飛び出すようになっていた。
刑法41条の庇護で散々悪さをしていた立花裕翔は、“将来犯罪を犯す
不死川巡査は立花に無言で近付き、警棒で立花の脛を容赦なく叩き付けた。立花はいきなりの衝撃に、声もなくもんどり打った。カツアゲを食らっていた学生は立花の退学になった学校の後輩で、以前にも不死川巡査に救われた生徒だった。
「君、また会ったな。被害は?」
「ありません」
「そう、じゃ帰りなさい」
生徒は急いで走り去った。
「久しぶりだな、立花。約束を忘れたのか?」
不死川巡査は立花の鳩尾を突くと、体が折れて頽れ、息苦しさに悶絶した。
「…何しやがんだよ」
「次にオレの “シマ” で勝手なことをしたら殺すと言ったろ」
立花は鳩尾を抑えながら息苦しそうに反論した。
「おまわりがこんなことしていいのか!」
「どの口がほざいてんだ !?」
不死川巡査は更に強く立花の鳩尾を突いた。
「度重なる公務執行妨害だな」
「オレはあんたには何もしてないだろ」
「オレが警察官だと言う事を蔑ろにしちゃ困るよ。お前は何度もカツアゲ行為で街の規律を乱した。罪状は刑法249条の恐喝罪と公務執行妨害罪なんだよ。刑法95条1項、公務員が職務を執行するに当たり、これに対して暴行または脅迫を加えた者は、3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金に処するとある。オレが殺す前にもう一度だけチャンスを与えよう。お前が今度行くところは鑑別所じゃなく刑務所だ。怖いお兄さんたちにその腐り切ったケツを精々可愛がってもらうんだな」
不死川巡査が手錠を出すと立花は青褪めた。
「逮捕するのか !?」
「お前は犯罪者だからな」
「待ってくれよ!」
「残念だったな」
「オレに恨みでもあんのか!」
「山ほどある」
不死川巡査は立花に手錠を掛けた。
「おまえの友達の川園ひとみとか入江智里がどうなったか知ってるか?」
「・・・!?」
「未だに立ち直れないで、おまえのように未来を棒に振ってるよ。今頃は務所のお姉さんたちの玩具だ。お仲間が同類で安心したろ」
立花は黙った。結局、そのまま留置所に送致された。
不死川巡査はその日の日勤を終えると久し振りに街に出た。巡回で通る道を私服で歩いてみたかった。いつもの停留所の前に辿り着くと後ろから声を掛けられた。洋子の母・達子である。
「不死川さんですよね」
「ええ」
「私服なので見間違えたかと思っちゃった。長谷川です。洋子の母です」
「ああ、洋子さんのお母さんでしたか。その節はご迷惑をお掛けしました」
「いいえ、こちらこそありがとうございます…今日は?」
「散歩です。いつもは巡回で回るコースなんですけど、たまには私服で歩いてみたいなと思って」
「そうでしたか…もしお時間があれば、うちに寄っていただけません? もうすぐ主人も帰ってきますので、その後の洋子のこととかもお話ししたいと思うんですが…」
不死川は達子の要請を受け入れた。長谷川宅にお邪魔して中学時代のいじめ被害の現場から救った日の思い出など話していると、夫の信夫に続いて洋子も帰宅してきた。不死川は思いの他歓迎された。
「洋子が看護大学に通うようになったのは不死川さんのお陰です」
「私など毎日無力を思い知らされていますよ。でも良かった。これで安心しました。実は気になっていつも巡回の時は長谷川さんのお宅の前を通るようにしていたんです」
「知っています。あのバス停の前に佇んで…」
洋子は感極まって目を潤ませて言葉が続かなくなった。
「この子は不死川さんのお陰で立ち直れたんです」
「そう言ってもらうと嬉しいやら恥ずかしいやらで…私は未だに一人前の警察官になれないでいるもんですから…ある意味、私のほうが立ち直れていません」
場が笑いに包まれた時、不死川の携帯が鳴った。
「ちょっとすみません」
電話に出た不死川の表情が変わった。
「折角の非番も打ち切りです。これじゃあ友達失いますよね」
不死川は空しく笑って長谷川家を後にした。
「送って行かなくていいの?」
「いいの」
という洋子は既に靴を履いていた。
「早く行きなさい!」
顔を赤らめた洋子は不死川を追った。バス停前まで行くと不死川は既に遠くを早足に歩いていた。洋子は叫んだ。
「また来てください!」
振り返った不死川は笑顔で手を振って応えた。
不死川巡査が交番に到着すると金城巡査部長が手を合わせて近付いてきた。福留正一・弥栄子夫妻が不死川巡査を呼んでくれと言って聞かなかったようだ。
「君が不死川巡査か」
上目線の岩淵巡査部長の言葉を無視して、不死川は福留夫妻に話し掛けた。
「福留さん、どうかしました?」
「聞いてくださいよ、不死川さん! この人、何なんですか! 人が困って来ているのに話を聞こうともしないで、民事がどうたらと…」
「私から話しますね。岩淵巡査部長、こちら福留さんご夫妻なんですけど、商店街の自宅前で喫煙が絶えなくて、COPDを患っているご主人がその度に発作を起こしているんです」
「不死川さん、この街は路上喫煙全面禁止ですよね」
「そうです」
「それを守らないんで何とかしてくださいとお願いに来てるのに、この方は区役所に行ってくれとか、民事は介入出来ないとか!」
「そういう問題はね。区役所が担当していることなんだよ。警察じゃないんだ」
「岩淵巡査部長、住民が困って交番に相談に来ているんです。交番で出来る対処法があるんじゃないですか? なぜご相談に乗ってやらないんです !?」
「我々はね、民事不介入なんだよ!」
「警察が扱いたくない事件を扱わないための便利な言い訳で大上段に構えてるだけじゃないですか、岩淵巡査部長」
岩淵正二(50歳)。昨日、六地蔵交番勤務の拝命を受けて来たばかりの巡査部長である。長年、本署の交通課に勤務していたが、警察学校同期の親友・及川巡査部長の死に疑念を抱いて自ら六地蔵交番への勤務を申し出て来た男だ。
「これのどこが事件なんだ、不死川くん?」
「自治体で禁止されている路上喫煙で住民の方が命の危険になりかねない発作を起こしているんです。何も対処しないで、もし万が一のことが起きても同じことが言えますか !?」
岩淵巡査部長はうんざり顔で黙り込んだ。
「福留さん、確かに民事不介入の問題はありますが、我々は巡回を密にすることで路上喫煙禁止に協力を仰ぐことは出来ます。喫煙を見掛けたらご面倒でしょうがすぐにお電話いただけますか?」
「不死川さん、あんたみたいに対応してくれたら大きい声を出すこともないんだ。何だね、この役立たずは!」
「役立たずってね、お婆さん!」
岩淵巡査部長は立ち上がった。
「住民を威嚇するんですか、岩淵巡査部長」
清水巡査が喰い付いた。
「福留さん、ごめんなさいね。後で巡回がてら伺いますね」
「お茶用意して待っているよ」
福留夫妻は岩淵巡査部長を睨み付けて去って行った。
帰り掛け、正一は考え事をしていた。
「どうしたんだい、あんた !? 腹の虫が治まらないのかい !?」
「あの男に決めた…」
「何をだい?」
「あの男の面構えは本物だ。あの男なら…オレの目に狂いはねえ」
やつれた体には暮れの風は凍みる。しかし、正一は最期にすべきことを見出して燃えていた。
〈『第9話 難敵二人』に続く〉
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