第4話 手練れと潔癖

 本部刑事係からまたひとり六地蔵交番に配属されて来た。及川伸晃巡査部長の名は不死川巡査も天馬巡査も烏丸巡査も知っていた。警察学校時代の教官だったが任期を終えて本部配属となったはいいが、元来の賭け事好きが祟ってこの交番に流されて来たのだ。教官時代も決して尊敬できる人間ではなかった。不死川巡査たちは及川巡査部長によって警察学校時代を黒歴史にされたといっていい。警察組織がいくら上下関係に厳しい体育会系文化だとしても、宴席で自慰を強要するなど人間としての尊厳すら踏みにじる及川巡査部長の無茶ぶりは異常だった。

 上杉所長による及川巡査部長配属の紹介の後、及川巡査部長は “竹馬の後輩”にでも接するかのように懐かしげに話し掛けて来た。三人とも黒歴史の記憶が蘇る不快な空気に包まれた。そんな三人に構わず及川巡査部長は薀蓄を垂れ流し始めた。

「前任者の汚点は交通事故のようなものだ。これだけストレスの溜まる業務はない。いわば職業病のようなものだ。だが安心しろ。警察官の不祥事の処分は “減給” か “本部長訓戒” 程度で、重くても停職数か月だ。停職は天国だぞ。人知れず温泉にでも浸かっていれば結構な保養期間になる。おまえたちは組織に護られているんだ。世間の依願退職待ちのプレッシャーなどすぐに消える。知らんぷりしていれば安泰だ」

 及川巡査部長は勝手に田中巡査長の不祥事の肩を持っていた。三人は黒歴史時の殺意を甦らせながら、及川巡査部長も田中巡査長と同類なのだと思って聞いていた。いつものことだが、上杉所長はいつの間にか消えていた。彼は勤勉地味な男ではあるが、その私生活は誰も知らない、誰も知ろうとも思わない存在だった。気まぐれにどこぞ巡回にでも出たのであろう。上杉所長の不在をいいことに、及川巡査部長のどうでもいい話は続いた。

「彼らの処分…気にならないか?」

 三人は無言で立っていた。

「田中克好巡査長は減給一ヶ月、丘野優樹菜巡査は訓戒。どうだ、大したことはねえだろ。住民に対して腰が引けたら駄目だ。お前らはもっと傲慢でいい。例え誤認逮捕をしたところで警察官はクビになったり処分を受けたりすることはない。庶民だって誤認逮捕をした警察官個人を訴えることは法的に出来ないことになっている。彼らが訴える相手は国になる。誤認逮捕された彼らだって被疑者補償の規定で身体拘束された期間1日につき1,000円以上1万2,500円以下の補償を受けることが出来るんだ」

「あの…」

 不死川巡査が丁重に及川巡査部長に伺いを立てた。

「おお、やっとオレの話に喰い付いたな」

「貴重なお話ではありますが、ふたりはそろそろ巡回の時間であり、私も立ち番を…」

「…そうか」

「管轄内で片山事件があったばかりなので交番態勢はより盤石なものに…」

「そうだな…じゃ、勤務に就きたまえ」

 話し足りなさに苦虫を噛んで椅子に座り込む及川巡査部長を後目に、烏丸巡査と天馬巡査は自転車に飛び乗って交番を離れた。

「この交番の所長でもないのに偉そうに…よりによって…」

 その先の言葉を飲み込む烏丸巡査をみて天馬巡査は笑った。

「これからは巡回ノートは出先で書くことにするか」

「了解!」

 天馬巡査が意を得たりと持ち出して来た巡回ノートを出した。ふたりはそのタイミングの良さに大笑いし、これからは交番に居る時間を出来るだけ減らそうと顔をニヤつかせてそれぞれの方角に散った。

立ち番の及川巡査部長は、交番の中の次に片付けなければならない粗大ごみに目をやった。その顔を初冬の風が小気味よく掠って行った。


 数日後、六地蔵交番に婦人警官が2名派遣されて来た。金城和華巡査部長と清水エリカ巡査だ。ふたりの簡潔な挨拶が終わると、上杉所長を差し置いて及川巡査部長が訓辞を垂れ始めた。

「最近、この交番で女性の不祥事が起こったばかりです。警察組織は縦社会で厳しく警察官の倫理を戒めています。我々の指示に従い、日々、地域の安全を守ってください」

 間髪入れず金城巡査部長が反論した。

「お言葉ですが、男女の不祥事と伺っております。長年警察組織は男性中心の組織でしたが、寧ろ女性警察官には男性警察官よりも倫理観と正義感が強く残っていると統計に出ております。ジェンダーを尊重してご指導願います」

「ジェンダー !?」

「男女差別なくということです」

「分かってる!」

 及川巡査部長は、清水巡査が愛想よく発言したことにムッとして怒鳴った。清水巡査はそこで話を終えなかった。

「及川巡査部長、自分は何故怒鳴られなければならないのでしょうか?」

 清水巡査の想定外の食い下がりに及川巡査部長は言葉を失った。金城巡査部長が畳み掛けた。

「私の記憶では、本部に於ける男性警察官が、有り余る性欲で同僚の女性警察官のバッグに自分の体液をかける不祥事があり、監察室の関与によってやっと器物損壊罪・迷惑防止条例違反に問われました。また、警察署で保護した若い男性をベテラン刑事が全裸にさせる変態行為がありました。更にその警察官は、常態的に留置所の女性を猥褻行為対象にし、特別公務員暴行陵虐罪に問われました。かつてこの管内でも、職務中に地域住民の自宅の住所など個人情報を調べて、女性にナンパ感覚の職質で付き纏った事例があり、ストーカー規制法違反・個人情報保護条例違反で処罰されていますよね。それらの不祥事は全て男性が起こしたものです」

「この交番の女性警察官はキャバクラで働いていたんだ!」

 及川巡査部長の発言が清水巡査の琴線に触れた。

「そこに通っていたのは、この交番の上司の男性ですよね。しかも妻子がありながら」

「もういい!」

「良くありません! ダサい指導はやめてもらえませんか?」

「ダ、ダサい !?」

「私は交通課から配属されてきましたが、交通違反を50件摘発して金一封が300円って何ですか? 警察官同士結婚すると職場が別になるって何ですか? 男性警察官を刺激しないための服装って何ですか? 警察って中坊の集まりですか?」

「君ね !! そんなこと、私に訴えられても困る!」

「さて、ディスカッションも順調に済んだところで、新任の皆さんはそろそろ地域紹介を兼ねて巡回に出てください」

「所長、私の話はまだ終わってないんだ!」

「及川巡査部長、私は彼らに巡回を指示したんです」

 今まで見せたことのない上杉所長のドスの効いた口調に一同は驚いた。及川巡査部長は黙った。不死川巡査の機転で天馬巡査が二人を伴って巡回に、烏丸巡査は立番に立った。及川巡査部長は上杉所長に恐る恐る不平を漏らした。

「最近の女どもは扱い難いですな」

「そうですか? 私は力強い部下が増えて喜んでいます」

 二人の話はそこで途切れた。及川巡査部長の空回りの空気に、立番の烏丸巡査は噴き出しそうになったが堪えた。そこに、またいつもの散歩老人がやって来た。

「旦那さん、今日も散歩ですか?」

 案の定、老人は烏丸巡査の問い掛けには応えず、いつものように交番の奥に目をやった…いや、交番の奥ではない。その視線は及川巡査部長に向いていた。老人はしみじみ呟いた。

「…次はあんたかね」

 老人は及川巡査部長に手を合わせて厚く一礼し、大きな溜息を吐いてから散歩に戻って行った。

「え !?」

 合掌された及川巡査部長はぽかんとして老人を見送った。

「何です、あの老人は? 認知症ですか?」

 上杉所長は及川巡査部長の言葉を鼻で笑って交番を出て行ったので、話しの矛先を不死川巡査に向けようとすると、日報を書き終えて急に立ち上がり、“日勤なんでお先に!” と電光石火で交番を去って行った。及川巡査部長は力なく椅子に腰を下ろしながら、急速に遠くなる不死川巡査を見送って溜息を吐いた。


〈『第5話 烏丸とエリカの巡回』に続く〉

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