第26話 恋患い・後編 ⑤


「……僕は、瀬川一成です。高校の三年間、奇跡的に同じクラスだったんですよ」


 突き上げていた腕を下ろす彼は、黒目を右に左にキョロキョロさせながら、親指のツメをかんだ。


「瀬川、君? 瀬川……あぁ、瀬川君!? いつも難しそうな厚い本を読んでいた、瀬川君だ! やだ、なつかしい!」


 フフフと笑う彼女は、ねぇ、なつかしいとノブオやサノッチにも言うので、ノブオは本当にねぇ、と適当に相槌を打つ。


 そして、真実子は玄関で言われたことを思い出した。


「そうだ、瀬川君。私に話したいことって?」


「……え、あの、好きです」


「え?」


「だから小林さんのことが、好きです」


 変わらず目をキョロキョロさせ、瀬川はツメをかんでいる。


 口元をおさえた真実子は、再び大きく目を開いて固まった。


 そして、その様子をただ眺めるしかないノブオの頭の中では、こんな感じでよく言えるよな、あの青い汁の力なのかそれとも……といろいろなことが駆け巡る。


「思いが伝えられてよかったですね、瀬川さん」


 ぶ厚い前髪で目元は全くわからないが、サノッチは口角を上げ、ほほ笑んでいた。


「……瀬川君、私のことが好きってこと? 本当に? え、いつから?」


「三十年くらい前から……高一のときから……」


「そんなに前から!? たぶん、しゃべったこと一回もなかったよね?」


「いや、一度だけ……何の本、読んでいるのって聞かれて、哲学書だよって……」


「そうだっけ。やだ私、全然覚えてない。フフッ」


 真実子は嫌な顔をするどころか、まんざらでもない様子で楽しげに笑う。


 つられるように瀬川もへへっと笑った。


「それじゃあ、今度デートに行ってみる? 私ね、行ってみたいお店があって。パスタのランチなんだけど、どうかな?」


「い、い、行きます!!」


 彼は再び、天に向かって両腕を突き上げる。


 その場にいる誰もが、彼の尋常でない喜びを感じ取った。


 その後、瀬川と真実子は連絡先を交換し、仕事があるのでと真実子は部屋を後にした。


 バタンとドアが閉まるのと同時に、瀬川は膝から崩れ落ちる。


「一成さん、大丈夫か!?」


 まさかこのタイミングで命尽きるのか、と心配になるノブオは、慌てて背中をさすってやった。


「はぁはぁ……大丈夫です。すごくすっきりして、なんだか元気になりました」


 確かに、瀬川はまるで憑き物が落ちたように穏やかな顔つきで、険しいところはなく、またひどかった顔色も、ほんのり上気したピンク色で健康そのものだ。


 そうではあるが、まだまだ万全には遠い様子の彼を、ノブオは布団に寝かせる。


 そして、横になった瀬川にサノッチはよびかけた。


「数日は安静にしてくださいね。私の調合した漢方を置いていくので、一日二回、服用してください。先ほどの青いスープは鍋に入っていますから、これも漢方と合わせて一日二回、飲んでください。三日分はありますから……それと、まだ黒いものが出ると思いますので、我慢しないで全部、吐き出すようにしてください」


「どうも、お世話になりました」


 満足げに、自信に満ちた様子の瀬川はにっこりほほ笑む。


 サノッチは前髪の向こうから視線を合わせ、同じくほほ笑むと、うんと頷いた。


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