第一占 虎の尻尾に気をつけて ⑫

 邽の境帝が起臥きがするのは、元寧げんねい殿である。宮城の中央に位置し、周囲にある五つの宮よりも高い位置に作られている。


 かつては、妃の宮でそのまま眠るのも普通のことであった。しかし、ある帝が白仙宮で休み不審な死を遂げるという事件が起こり、それ以降妃の元を訪れる時間を決めて元寧殿へと戻ることになったのだった。


 その元寧殿の寝室にて、当代の邽境の境帝である洪封こうほうは机を前に座っていた。先程胡仙宮で胡仙妃と挟んでいたものよりも、遥かに大きく豪華なものである。


 机の上には、一枚の紙が置かれた。紙には、雄渾ゆうごんな筆致で「履」と書かれている。胡仙宮から、持ち帰ってきたものだ。


「陛下」


 そこに、一人の男性が現れた。欧陽おうようりゅう、字を元雲げんうん門下もんか侍郎じろうの職にある若者だ。


 端麗な面立ちが、目を惹く。涼やかな目元、肩に掛かる長さの髪。秋霜烈日の如き厳しさを纏う帝の美しさと対照的に、どこかひょうきんな親しみやすさがある。


「恐れ多くも、深更に御前に参りましたこと、伏してお詫びいたします」


 龍が言う。伏してどころか突っ立ったままで、拱手一つしていない。


「どうだった」


 龍に目を向け、封は訊ねた。非礼さを咎める色はない。


でん家は勿論ダメ、黄家は逆に裏切るよう誘いを掛けてきました。じょう家やふく家の当主は会ってさえくれませんでしたね」


 にこにこしながら、龍は答える。


「やれやれ。やはりか」


 うんざりした様子も露わに、洪封は言った。


「俺のことが嫌いでも構わん。しかし、俺の話くらいは真面目に聞いてもいいだろう」


 洪封は、素直な感情を撒き散らす。龍を信頼していることが、表れている。


「守旧、ろう、因循、頑愚、頑迷、蒙昧もうまい退嬰たいえい、まあ何と呼んでもいいですが、そのような感じでしたね。耳を貸してくれたのは、ひょう家、げん殿、宿しゅく将軍くらいでしょうか。あ、めいりょう殿――工部尚書も真剣に聞いてくれましたよ」

「後宮に直訴しに来るのだけはやめろと伝えておいてくれ。楊清ようせいは?」

「はぐらかされました。楊家としては、立場を鮮明にしたくないのでしょう」

「まったく」


 封は肩を落とした。


「陛下の仰せはよく道理を察し、また大いに時宜を得たものです。しかし、彼らには『古来より保たれてきた伝統を守らず、新奇なものばかり追う愚かな行い』と見えるようで」


 龍が言い、封は溜め息をつく。


「そういう考え方を持つことを、禁じようとは思わん。『新しくなければならぬ』という狭量さは、『新しくてはならぬ』という偏狭さと同じことだ」

「大変立派なお考えです。しかし、いかがでしょうね」


 龍は、大袈裟に首を傾げてみせる。茶目っ気が、その仕草に弾ける。


「むしろ、立派なものほどまつりごとの場での争いには弱いものです。立派でない手段を用いることができませんし、何か一つでも『立派でない』と受け取られることが身辺に起きれば、一気に周囲の心が離れてしまう」

「元より争いは望まぬ。邽を二つに分かち、繋がりを断つことは避けねばならぬ」


 封の言葉に、力がこもる。龍は、頷いて同意を示した。


「誰よりも邽を思ってのことであるのに、陛下の言葉は中々届かぬようですね」

「まったくだ」


 文字を見ながら、封は溜め息をつく。


「おや、綺麗な文字だ。陛下が百名がかりでもこんな字は書けますまい」


 封の視線の先を見て、龍が感嘆するように眉を上げ下げした。


「百も二百も俺がいてはかえって字が書きづらい。『胡仙宮にいる女』の書いたものだ」

「ほう」


 封の表現が指すところを察したか、龍がにこにこ笑う。


「胡仙宮といえば、大事ですね。著作郎に聞いてみないと分かりませんが、五家の妃として五家の血を一切引かぬ者が納められるのは、邽境始まって以来の不祥事では」


 笑いどころでもないのに笑っているのは、彼の性格による。緊迫した状況やのっぴきならぬ危地を、面白がり楽しむところがあるのだ。


「まったく心配だ。あいつは胡仙が狐妖だということも知らない様子だった」


 封は、正反対に眉間に皺を寄せ考え込んでいた。この沈思黙考ぶりは、彼の性格による。いかなる物事も深刻に受け止め、真正面から検討するところがあるのだ。


「最初なんて、離と名乗ったんですよね? 胡仙の名字はれいなのに」

「そうだ。胡仙宮は、一切事情を教えていないぞ。あいつが自分で探りを入れてきた」


 封が龍を見る。


「お前の言った通り、できるだけ気づかないふりをしつつ遠回しに教えた。しかし本当にこのやり方でいいのか。互いの情報を共有し、協力関係を築き上げるべきではないのか」

「駄目に決まってます」


 龍は、目を見開いて封を見返す。


「五家の関係やそうえいらんのことをいきなり告げられたら、嫌になってしまいますよ。ただでさえ、とあるやんごとなき方の配慮で尚書の地位に大抜擢されてしまって困り果ていることでしょうに」

「言うな。あの時は、それが名案だと考えたのだ」

「いいえ、申し上げます。困り果ててるのは小臣も同様にございます故」


 へりくだった物言いをしつつ、龍は封を見下ろす。言行不一致の新しい切り口だ。


「本来、勅は門下省を通じて出すものです。その門下省の副官たる門下侍郎が、今どれだけ苦労しているかお分かりですか?」

「分かっているつもりだ」

「その上、改革への根回しもしているのですよ?」

「感謝しているつもりだ。その上で頼む。あの女を後宮に残したい。何とかしてくれ」


 封が言う。帝の言葉と考えると、これは懇願に近いだろう。


「ありません。諦めて明世に戻して差し上げましょう」

かく家の寡婦との密通、公にしてもよいのだぞ」


 そう言って、帝は龍を見据える。


「『五家から妃を出す』という仕組みではありますが、そこに『五家の血を引いた者でなければならない』という条件はないはず」


 すらすらと龍は抜け道を提案してみせた。


「まずは律学博士に法文の解釈を行ってもらいます。まとまり次第、改めて言上いたします。時間は相当にかかると思いますので、そこはご容赦下さい」

「善哉」


 封は、満足げに頷いた。


「まったく。得難い優秀な腹心を、そんな醜聞で失うつもりなのですか」


 龍は不満を露わにする。


「失われるのは、お前が大勢のご婦人方からつなぎ止めている信頼だろう」


 封はふっと口元を緩めた。


「おやおや。そんな風に笑う穹慈きゅうじを、随分と久しぶりに見ましたね」


 龍が、封を字で呼んだ。負け惜しみの合間から、互いが育んでいる友情の深さがちらりと顔を見せる。


「朗らかな女と話していたせいかもしれんな。柔な存在に、剛が感化されてしまったか」


 微笑んだまま、洪封は再び文字に目を落としたのだった。

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生贄妃は天命を占う 黒猫と後宮の仙花 尼野ゆたか・佐々木禎子/富士見L文庫 @lbunko

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