第一占 虎の尻尾に気をつけて ⑩
「さて、それでは褒美をとらせよう。俺も書いて説明するか」
そう言って、帝は
「何が知りたい。この国の軍備についてか。それとも官制や税制についてか」
そして筆を執った。背筋を伸ばし、空いている手で袖を押さえる。仕草も姿勢も、惚れ惚れするほど格好いい。時折ちりちりという音が混じるが、音の正体は掴めない。
「ああいえ、別にそういう難しそうなのじゃなくて」
仕草や音はさておくとして、月麗は話し始める。
「まずは基本的なところからお願いします。世界が、どういう風になっているのかとか。おさらいの意味で」
「人の暮らす
幽世、明世、境世と帝は字を書いていく。その筆運びは実に生真面目だ。ここで止める、ここではねる、ここで払うとしっかり意識して書いているのが伝わってくる。
「な、なるほど」
そうして書き上げられた字は、何というか、とても下手だった。颯爽たる仕草からはかけ離れた、童子の手習いみたいな
「どうした」
「いえ、別に」
月麗はお茶を濁した。真面目に書いているのが分かるだけに、なおのこと気まずい。
「ここは境世だ。四つある境世――
邽。一般的な字ではないが、圭におおざとと考えれば難しくはない。難しいのは、帝の字を読み解くことだ。個々の部位の大きさがばらばらで、段々別々の字に見えてくる。
「俺は、その邽を治める境帝だ。境世を安寧に保つのが、境帝の務めである。境世に住む妖怪が明世に害をなすのを防いだり、迷い込んでくる人間に『対応』したりと忙しいな」
月麗は息を呑んだ。迷い込んでくる人間への、対応。
「どうした?」
帝が、月麗を見てくる。
「あ! いえ!」
慌てて誤魔化そうとする。「対応」とは、大方骨も残さず喰らってしまうことだろう。もし正体がばれたら、月麗も同じ目に遭うこと必至である。
「確か――明世? でもそういう昔話があるらしいですね。鄻山、だったかな。そこの神様に、生贄の妃を捧げるとか」
「聞いたことがあるな。邽という字が誤って伝わっておかしな字が生まれ、その字に基づいてありもしない伝説が語られるようになったとか」
月麗は帝の書いた字を見る。もしや、それが原因では。歴代の境帝はみんな字が下手で、その書いたものが流出して混乱を招いたとかでは。
「生贄の、妃か」
ふっ、と。帝は笑う。相変わらず美しすぎる笑顔だ。そしてその過剰なほどの美しさは、酷薄さの裏返しであるようにも感じられる。
月麗は真冬の氷水を浴びたような気持ちになった。喰らわれる。これは絶対、喰らわれる。
「そう言えば! お妃はどれだけいるのでしたっけ」
切迫した危険を感じ、月麗は話題を変えた。
「五名だ」
帝は、淡々と答えた。月麗が氷水漬けになっていることには、気づいていないらしい。
「代々、五つの家から妃を取る。それに加えて嬪を迎えた前例もある」
それはさておき、ようやく自分の字が分かった。胡仙妃。しっかり覚えなければ。
「他の家の皆様は、どういう方々でしたっけ」
新たな質問をする。これも知っておきたい。
月麗の想像する後宮とは、妃たちが互いに足を引っ張り合い陥れ合うこの世の地獄だ。逃げ出す前に毒を盛られて死んだりしたら、元も子もない。
「胡仙は
狐、鼬と帝は字を書いていく。鼬など、画数の多さもあり最早黒い塊にしか見えない。
「あの、あの。わたしが書いてもいいですか」
遂に耐えきれなくなって、月麗は割り込んだ。ただでさえ色々新しい情報を覚えないといけないのだ。そこに文字の解読まで入っては、頭から煙を噴いてしまう。
「えーと、自分で書いた方が覚えやすいですし」
失礼のないように、月麗は当たり障りのない理由をでっち上げる。
「なるほど。そうか」
帝は、疑った様子もなく筆を渡してくれた。
「狐、鼬、鉄鼠。鉄鼠って
言葉に出しながら、字を書いていく。
「しかし、胡仙妃は達筆だな」
書き上げたところで、帝がそう褒めてくれた。
「ありがとうございます」
月麗は少し照れる。書は、色々へっぽこな月麗にとって数少ない特技である。
占いをする時にも、随分と役に立っている。月麗たちの使う字には一つ一つ意味があり、占いにもそれは大きく関わっている。なので字を見せながら説明すると分かりやすいし、見応えのある字ならより効果があるのだ。
――とても、貴方らしい字ですね。溌剌としていて力強く、でも優しさがある。
師は、そう褒めてくれたものである。その時の月麗は字を覚え始めで、今の帝と変わらない字を書いていた。それでも、師は良い点を見出してやる気に繋げてくれたのだ。占いだけではなく、上手ではない字の褒め方も教わっておけばよかったと月麗は思う。
「さて、と」
とはいえ、済んだことを言っても始まらない。月麗は、改めて五つの家を眺める。
どの家も妖怪なのだなあという感じだが、何にせよ胡仙が狐なのは納得がいく。本来の胡仙妃や侍女たちからしてそんな雰囲気があるし、頭目は「化かされた」と言っていた。狐といえば化かす動物である。色々不思議な事態が勃発していたことにも、ひとまずの説明がついた。妖怪変化の仕業だったのだ。
しかし、五つあってそれぞれが別の妖怪となると覚えにくい。さて、どうしたものか。
「白仙は故あって辺境に赴いている。柳仙は眠いと言って宮に閉じこもり出てこない。顔を合わせるとしたら、鼬の黄仙か鼠の灰仙の妃だな」
帝が、そう付け足した。妖怪が二つに減ったわけである。これは大分楽になった。
「そういえば、色なんですね」
ふと、月麗はそんなことに気づいた。鼬は毛が黄色がかっているし、鼠といえば灰色だ。これは覚えやすい。黄仙は鼬、灰仙は鼠。
「うむ。鉄鼠は針以外の部分が白いし、柳色といえば緑がかっていて蛇の色だ」
帝が補足する。なるほど、覚えるためのコツが見えてきた。白仙は鉄鼠、柳仙は蛇。
「ふむふむ、確かに。あれ、でも――」
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