第一占 虎の尻尾に気をつけて ②

 あの時、もし素直に答えていたらどうなっただろう。自分はつぶさに観たと。


 省試の会場を。そこに小さな小さな豆本を持ち込み、豆本に書かれた抜き書きを見ながら答案を書く息子の姿を。見回り中の兵士がそれを見つけ、息子の腕をねじり上げ捕らえる場面を。


 どうなっただろう。自分には未来が観えることがあると言っていたら。その未来は努力すれば変えられるが、何もせずにいれば必ず現実のものとして訪れると言っていたら。


 ――余計立場悪くなってたかも。


 身も蓋もないが、そんなところだろう。これまでにも、何度となくあったことだ。


「それじゃあ、我々はここまでだ」


 男性の一人が言う。


「ありがとうございました。――うわ、道悪いですね。最早道なき道というか」

「そうだな。この辺りは鄻山以外にも山が沢山あるが、せいぜい旅の道士くらいしか足を踏み入れることはない。我々も、儀式以外には近づかない」


 もう一人の男性が、そう説明してくれる。


「鄻山の神は虎の体に五つの首を持ち、いずれも人面だと言われている」

「――苦しまないように、祈るよ」


 そう言い残すと、男性たちは車の向きを変え戻っていった。時折振り返ってくるのは心配してくれているのか、それとも生贄感の足りない月麗を不審がっているのか。


 やがて、二人の姿も見えなくなった。月麗はうーんと考え込む。


「ま、いないよね」という感覚なのである。


 ――月麗は、基本的に怪異やら神様やらの話をしない。自分が他人の未来を観たり占ったりするのに何を言っているのだという感じだが、それはまた別の話なのである。


 占いは神の教えではない。未来と向き合うための、その手段の一つに過ぎないのだ。神様仏様の類とは、ある程度の距離感が必要なのである。


「しかし、どうしたもんかなあ」


 そんな呟きが漏れる。さしあたっては、神との距離感をどう適切に保つかよりも、山にどう適応して生き延びるかが問題だ。

 まだ昼間だが、鬱蒼と茂る木々が陽の光を遮り、辺りは薄暗い。気をつけないと、と月麗は思う。


山藪さんそうやまいを蔵す」

――そんな言葉がある。

山中の林には、雑木の茂る藪やそこを流れる小川には、様々な疾病が潜んでいるという意味である。病は姿も見せず忍びより、音も立てずに人の体に忍び込む。山の中とは、危険な場所なのである。


「――ん?」


 不思議な気配が、月麗を包んだ。早速謎の奇病にかかったわけではない。感じたことのない、言葉にするのも難しい、何か。そんなものが、突然訪れたのだ。


 強いて表現するなら、重なったような感じ――だろうか。接すれど繋がらず、隣り合えど交わらぬ。そんなはずのものが、思いがけず混ざってしまったかのようだ。


 月麗は歩き始めた。新しいものには興味があるが、これはちょっと距離を取った方がいいかもしれない。


 ――結論から言うと、月麗の直感は当たっていた。もう、後戻りできないほどに。



「――やっぱりだ」


 どれほど歩いただろう。月麗は、未だ山の中にいた。

 月麗の目の前には、一本の木がある。木には、正の字が四画目まで刻まれていた。全て、月麗によるものだ。


 五本目を足して正の字を完成させると、月麗は腕を組んだ。もう五回、同じ所に戻ってきてしまっている。月麗は方向音痴ではない。山歩きにも慣れている。何か、おかしなことが起こっているようだ。


 月麗は、油断なく辺りの様子を窺う。などというと戦いの玄人のようだが、実際に武術の類を身につけているわけではない。気持ちだけでも頑張るぞーくらいの話である。

 がさり、と。近くの茂みが動く。やたらと分かりやすい前兆だ。


「ごめんなさーい!」


 まさかと思ったら大当たりだった。茂みから人が飛び出してきたのだ。

 声からしておそらく女性。手には何か長い棒を持っている。判別できたのはここまで。


 月麗は速やかに動いた。前触れがあったおかげで、何とか飛び退くことができたのだ。


「ありゃっ?」


 飛び出してきた女性は、かわされて変な声を出した。そして飛び出してきた勢いのまま月麗の横を通り過ぎ、木に顔から激突する。


 かわしたことが申し訳なくなるくらいの、情け容赦ないぶつかり方だった。目を回してしまったのか、女性はぴくりとも動かない。


「――何なの?」


 恐る恐る、月麗は女性を観察してみる。


 髪は長く、艶めいている。顔は木の幹に正面から突っ込んだままで分からないが、この髪だけでもう十二分に美人だ。


 着ている服は、どこかの後宮に奉仕しているのかという程に見事なものだ。赤で統一された色味が美しい。どう考えても、茂みから飛び出したり木に顔からぶつかったりする場面にはふさわしくない装いである。


 それはさておき。続いて、女性が持っていた棒を確認する。木製で、断面は円形。長さは月麗よりもかなり長く、厚みは月麗でも何とか片手で握れるほど。


「え、こんじゃないこれ」


 兵士の武器として用いられる、物々しい武器である。傷痕は多く色も褪せていて、使い込まれていることが分かる。服装とあまりにかけ離れた持ち物だ。


「まったく。あれほど油断するなと言ったのに」


 謎が謎を呼ぶ状況に困惑していると、そんな声が上から降ってきた。ほぼ同時に、何者かが地面に着地する。服装は多分倒れている女性と同じ、手にしているのも同じく棍。


 月麗は咄嗟に鞄を肩から外し、肩紐を持って水平に振り回す。月麗にしては、奇跡に近いほどの反応である。月麗直々に月麗を褒めたい。偉いぞわたし。よく頑張った!


 しかし、そんな余裕はどこにもなかった。相手の動きの方が遥かに速かったのだ。


 地を這うほどに低く身を伏せ、月麗の鞄攻撃をかわし。そして間髪入れず、体を地面と水平に回転させる。手にした棍が旋回し、月麗の足元を襲う。


 かかと辺りに衝撃。痛みはさほどでもない。しかし月麗の両足は地を離れ、体は仰向けに宙を舞った。足を打ち据えるのではなく、すくい上げるようにして転ばせる技らしい。


「――うっ!」

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