序「境帝を占い高官に昇る」④
その時、遠くの方からオオオオという声が響いてきた。声というか絶叫だ。
「ああ! 工部尚書が慟哭されている! 忠義の魂が! 血涙を流している!」
甲高い声が、状況を解説してくれた。
「まったく大袈裟な。仕方がない、さっさと行くとするか」
帝が呟く。月麗は心から感謝する。ありがとう工部尚書さん、あなたはわたしとわたしの肝とわたしの脳味噌の恩人です。
「やれやれ。朝廷の風通しを良くしてみたら、後宮まで吹き付けてくるとはな。俺の独断の結果とはいえ、困ったものだ」
そこまで言って、ふと帝は何かを思いついたような顔をした。
「独断。独断か。よいことを思いついた。傾聴せよ」
帝は、何やらいきなり威儀を正した。つられて、月麗も背筋を伸ばしてしまう。
「朕、綸言を以て占部を設け、汝を占部尚書に任ず。よく妃嬪の深憂を払い、女官の痛心を和らぐべし」
「え?」
背筋を伸ばしたまま、月麗はぽかんとする。
「お前を占い大臣に任命する。後宮専属の占筮者になれ、と言ったのだ」
そう言って、帝は笑った。相変わらず完璧な笑顔だ。そして言っていることも完璧に意味不明だ。妃にされたと思ったら今度は占い大臣らしい。
「それはちょっと。わたくしめにはとてもとても」
もごもご言いながら、月麗は後退る。
――この時。月麗は後退るにあたって重要なことを二つ忘れていた。一つは、床に垂れ引きずるほど長い裙を穿いていること。もう一つは、月麗が大変鈍くさいことだ。
「あっ」
結果、月麗は体勢を崩した。手を振り回すがどうにもならず、そのまま倒れていく。
「気をつけろ。その服は歩きづらかろう」
しかし、びたーんと床に激突することはなかった。帝が、受け止めてくれたのだ。
「この俺を前にして、己の信ずるところを臆さず堂々と述べた。お前は立派な占筮者だ」
頭の後ろと、膝の裏に手を添えるようにして、帝は月麗を軽々と抱え上げる。すらりとした体つきからは意外なほどの――力強さ。
「妃としても認める。美しく、聡明で、強い心を持っている。妃と呼ぶに相応しい」
帝が、月麗の目を覗き込んでくる。
「ち、近いです! 離してください!」
月麗はじたばた暴れた。何やら甘やかなことを囁いているが、信じない。きっと、油断させて喰らうつもりなのだ。そうに決まっているのだ。
「なるほど、確かに言葉を信じてもらえぬな。実によく当たる占いだ」
帝は、眉尻を僅かに下げる。
「ならば、時間をかけて伝えるか。老いぼれ工部尚書の肝脳を犠牲としてでもな」
そして、抱える腕に力を込めてきた。逃げられない。絶体絶命だ――
「ああっ」
「しまった」
そこで、あの甲高い声が聞こえた。続いて、何か丸いものがいくつも部屋にころころと転がり込んでくる。帝に隙が生じ、月麗はどうにかその手から逃れた。
転がってきたものを見やる。大きさは、月麗の一抱えより少し大きいくらい。黄白色の、見るからにふわふわ柔らかそうな毛でもこもこと覆われている。
その丸い体には、ぱちくりしたつぶらな目とぴょいんとした手足がそれぞれ一対ずつ。踢球に使われる球に、手足と目をつけてからふわもこで覆ったような感じだ。
月麗は絶句する。何この突然現れた超可愛い物体。すっごくもふもふしたいんだけど。
「何をしている」
帝が、ふわもこたちに対してそう訊ねた。
「誤解です!」
「決して覗いてなどはおりません!」
「我々はただ帝とお妃様を見守ろうと、じゃなかった安寧をお守りしようと――」
ふわもこたちは口々に弁明する。あんまり言い訳になっていないところが可愛い。
「邪魔をした罪、万死に値する。直ちに自害せよ。肝脳をその場にぶちまけろ」
帝が冷然とした声で命じた。無慈悲この上ない勅命に、ふわもこたちは抱き合って震え上がる。
「やめて! やめてあげてください! 可愛いものをいじめないで!」
「――ふむ。その願い、聞き届けてもよいぞ」
思わず割って入った月麗を、帝が見据えてくる。
「ただし、条件がある。
その瞬間、月麗は慎んで占い大臣を拝命する他なくなったと悟ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます