第25話 夜の広い部屋

「ん……。」


 ゆっくり目を覚ます。薄暗い部屋。私はベッドに寝かされているようだ。顔を横に向けると、額から手ぬぐいが落ちた。ベッドのすぐそばには、小さな木製のお洒落な台がある。その上には水を張ったガラスの器が置かれていた。


 洗濯したてなのか布団からいい香りがする。ああ、これ奏さんの匂いと一緒だ…。そういえばどれくらい寝ていたんだろう。ゆっくり起き上がると、まだ体が少しふらつくが、学校にいた時に比べると大分マシだ。窓に視線を移すと、外は真っ暗。夜であることは確かなようだ。

そのまま辺りを見渡す。丁寧に手入れされている客間。ふとベッドの横の台を見れば、さっきは横になっていたから見えなかったけど、水を張ったガラス容器の隣に小さなメモ書きと呼び鈴が置かれていた。


「目が覚めましたらこれを鳴らしてください…か。」


 呼び鈴には可愛らしい赤いリボンがつけられていた。

 私は呼び鈴を手にとって、鈴を鳴らそうとしたがその手を止めた。廊下から誰かの話し声が聞こえたからだ。

 人様の家で聞き耳を立てるのはあまりいいことではないのは分かっているが、何となく気になって私はついつい耳を澄ませる。


「―――で、お願いするよ。―――の件に関しては―――だから。」


 何の話だろう。良く聞こえない。

 私は呼び鈴を胸ポケットに入れて、ゆっくりドアの前まで移動した。ドアに耳を当てると、さっきよりも良く聞こえた。


「大丈夫、今は落ち着いているから。心配しなくていいよ。」


 誰の事だろう。


「今はその話はやめておいてもらっていいかな。大事な客人もいるからね。」


 この声は、奏さんの声だ。何の話だろう。もう少し耳を当てれば聞こえるかな。

 ドアにへばりつこうと体を寄せた時、胸ポケットに入れていた呼び鈴がドアにぶつかる。


 チリン


 風鈴のような音がわずかに鳴った。でもほんの小さな音だ。きっと誰にも聞こえていないだろう……と思ったのは間違いだった。

 音が鳴ってすぐに、ドアは開かれてしまった。耳を当てていたものだから、私はそのまま廊下になだれ込むように手をついた。今まで薄暗い部屋にいたものだから、廊下の照明が眩しくて思わず目を閉じてしまった。


「琴子さん大丈夫ですか?」


 コルリさんは慌ててしゃがみこんで私を支えた。


「すみません。大丈夫です。」

「すぐにお医者様を及びしますね。」

「いえ、本当に!本当に大丈夫なので!」


 聞き耳を立てていました、なんて言えるはずもない。


「さっきよりも随分気分も体調も良くなりました。ありがとうございます。」


 私は立ち上がり、深く頭を下げた。


「ほら、この通り。」


 それから手を思いっきり伸ばして、元気なことをアピールする。


「それなら良いのですが。もし体調が悪い場合は遠慮なく仰ってください。」

「ありがとうございます。あ、コルリさん。今何時ですか?」

「夜の一時を回ったところですわ。それではお嬢様をお呼びしますね。」


 夜の一時…。学校を出たのは夕方だったはずだから随分長いこと寝てしまっていたようだ。なんだか申し訳ない……ん?今コルリさんお嬢様をお呼びしますって言ったよね。


「コルリさん、待ってください。」

「どうされましたか?」

「今って夜中ですよね?」

「そうですね。」

「奏さん寝ているんじゃないですか?わざわざ呼ばなくても大丈夫です。起こしちゃったら申し訳ないです。」


 コルリさんは慌てる私をみてにこっと笑った。


「大丈夫ですよ。お嬢様は起きています。今部屋で課題に向き合っている最中ですので。」

「そうなんですか。」

「ええ。あら、お呼びしなくてもお嬢様が来てしまいましたね。」


「やあ、琴ちゃん。よく眠れたかい?」


 奏さんはドアの横からひょこっと顔をだした。

 私服姿の奏さん。見るのは誘拐まがいなことをされたあの日以来だろうか。

 品の良さそうなワンピースのような寝間着に身を包んでいる。ああ、やっぱりお人形さんみたいに綺麗な人だな。


「お腹は空いてない?」

「大丈夫です。」


 と答えたはいいものの、私のお腹はタイミングが良いのか悪いのか盛大に大音量を流す。空気を読んでよ私のお腹!慌ててお腹を押さえるが、奏さん…いや、奏さんもコルリさんも聞き逃しはしなかった。


「コルリ。」

「かしこまりました。」


 コルリさんは丁寧にお辞儀をすると、部屋を後にした。


「そういえば、あの日も琴ちゃんお腹の音鳴ってたね。ふふっ。」

「笑わないでください。そして忘れてください。」

「それは無理だなー。」


 笑うことを止めない奏さん。恥ずかしさで顔が真っ赤になる。ああもう、本当に何でいつも私の体は空気を呼んでくれないの。


「ん?琴ちゃん顔が赤いけど。熱かな?」

「分かって聞いてます?」

「いーや。別に?」


 嘘だ。絶対恥ずかしさで顔が赤くなっているのを分かってるはずなのに。


「まあ、琴ちゃん。立ち話もなんだから、座ろう?こっち。」


 奏さんは客間の電気をつけた。一気に明るくなる部屋。さっきは薄暗くて良く見えなかった部屋の装飾や、飾りがはっきりと見える。客間にしては十分すぎるというか、客間にしておくのがもったいないほど手が込んでいて綺麗な部屋だ。

 部屋の隅には、二人掛けのテーブルと椅子があった。奏さんは軽く椅子を引いて、座るように促す。ゆっくり椅子に座ると、奏さんは当然のように向かいの椅子に座った。


「琴ちゃんが眠っている間に、一応医者にも診て貰っているんだ。多分熱は疲労からくるものだろうってさ。寝てれば回復するだろうけど、熱の下がりが悪い時はこの薬を飲んでって解熱剤も出して貰ってるよ。」


 ほら、と奏さんが指さす方向をみれば、棚の上に薬袋と水が置かれていた。


「まあ、目が覚めたら念のため声かけてって言われているんだけどね。というわけで、呼んじゃおうか。ご飯がくるまでもう少し時間があるから。琴ちゃん、呼び鈴持ってる?」


 あ、そういえば呼び鈴を胸ポケットに入れたままだった。私はポケットから呼び鈴を取り出して、奏さんに渡した。

 奏さんは呼び鈴を受け取ると、チリンチリンと鳴らす。それから間もなくして部屋を覗きにきたのはメジロさんだった。


「お呼びですか?」

「うん。メジロ、琴ちゃんの目が覚めたから雪野先生呼んできて。」

「かしこまりました。」


 軽く頭を下げて部屋を後にするメジロさん。


「あの、奏さん。」

「何かな?」

「今って夜中ですよ。私は元気ですし、わざわざお医者様を呼び出さなくても大丈夫では…というかお医者様にご迷惑では。」

「大丈夫大丈夫。雪野先生は割と夜行性だから。」

「そうなんですか。」

「そうそう。夜の方が昼に会うよりイキイキしてる。きっと前世はフクロウだったに違いないよ。」


「誰がフクロウだって?」


 いつの間にか客間の入り口には、白衣で縁の大きな眼鏡が特徴的な女性が立っていた。やや大きいサイズの開襟シャツに、女性にしては珍しいズボン姿。ふわふわとした色素が薄めの髪は、後ろで一本の三つ編みにされていた。


「おや、先生。思ったよりも来るのが早かったね。」

「まあね。」


 雪野先生、と呼ばれた人物は、軽く首だけで会釈をした。上流階級を相手にする医者、というより街角の気だるげな研究者という方が良く似合う、そんな雰囲気が漂っていた。


「どうも。ここで雇われ医者やってる雪野果歩です。よろしくー。」


 気だるげに挨拶をする雪野先生。そのまま雪野先生は私の顔をじーっと見て、それから顔や首筋、手首に触れた。


「顔色はマシになったねー。目のクマは相変わらずひどいけど。ああ、貧血もあると思うからちゃんと食べて寝ないと駄目だよー。うん、脈も正常だし、熱も下がったみたいだね。まあ、大丈夫でしょう。じゃあ、私は帰るわー。」


 それだけ言うと、雪野先生はさっさと部屋を出て行ってしまった。


「良かったね琴ちゃん。大丈夫だって。」

「ええ、まあ、はい。」

「あ、もしかして雪野先生のこと信用してない?」

「そんなことないです。…少し変わった先生だなとは思いましたけど。」

「そうだねー確かに変わった先生であることは否定しないけど、腕は確かだよ。」

「そうなんですか。」

「そう、あれでも名医。」


 廊下からくしゃみが聞こえた。多分雪野先生だ。


 そうこうしている間に、コルリさんが食事を運んできた。胃に優しそうな卵粥。優しい出汁の香が食欲をそそる。


「冷めないうちにどうぞ。あ、食べさせた方が良かったかな?」

「自分で食べられます!」


 私はスプーンを手に取ると、ゆっくりとお粥を口に運んだ。


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