第14話 どうして逃げたんですか

奏さんに連れられて走る校内。でもそれは微々たる時間で、奏さんはある教室の前まで来ると、慣れた手つきでドアを開け、教室に入った。


「あの、奏さっ、むぐっ。」

「しー。琴ちゃん。しずかに。」


 私が奏さんに声を掛けようとした途端、奏さんは私の口を片手で覆った。思っていたよりも大きな手は私の口もとをすっぽり包み込む。そして綺麗な宝石のような双眼にじっと見つめられる。私はコクコクと頷くと、奏さん小さく笑った。

 陶器のような白い肌。教室の明るさの問題なのか少し青白くも見え、より一層、儚げに見えた。奏さんは私の口を覆ったまま囁く。


「ここ、私の秘密の場所。」


 それだけ言うと、奏さんは私の口から手を離し、耳を澄ませた。私も真似して耳を澄ます。教室の中も、廊下も物音ひとつもしない。静かだ。聞こえるのは微かに風が通る音だけ。誰もいない、教室には私と奏さん二人きり。そのまま視線を動かし改めて周囲に目を向けた。教室だと思っていたが、それにしては小さいし、机や椅子も数は少なく、コの字に配置されている。黒板だって急遽用意したような簡易性のものだ。どちらかと言えば会議室や部室と言った方がしっくりくる。


「琴ちゃん、もう話して大丈夫だよ。ああ、でも声は小さめでよろしくね。」

「どうして急に逃げたんですか。」

「あー、あの先生に捕まると厄介なんだよね。」

「何かしたんですか。」

「別に何もしてないよ。ただ、ちょっと変わった先生でね。」

「変わった先生?」

「うん。あの先生の趣味は観劇なんだけど、私を見つけるたびに、歌劇団に入るべきだって執拗に声かけてくるんだよね。こっちは断ってるんだけど、諦めが悪い先生なんだよ。」

「歌劇団!?」


 確かに奏さんは顔も整っているし、背丈だって高くてルックスが良い。歌やお芝居は観たことがないから何とも言えないけれど、見た目だけなら歌劇団で主役に抜擢されてもおかしくない。舞台で輝いている姿が何となく想像できてしまう。


「琴ちゃん、今想像してたでしょ?」

「いえ、そんなことは。」

「顔に出てるよ。」


 奏さんは私の額をコツンと小突いた。


「入らないんですか?歌劇団。歌が苦手とか?」

「いや、歌は人並みだとは思うけど。もし私が歌劇団に入ったら、それこそ私を取り巻く可憐な少女たちが今以上に増えてしまうからね。私の取り合いが巻き起こってしまうし、そのせいで女の子の悲しむ顔は見たくないからね。」


 さして重要な理由でもなかったようだ。


「似合いそうですけどね。王子様役とか。」

「見たいの?」


 奏さんはニヤっと笑った。なんだか急に恥ずかしくなってそっぽを向いて答えた。


「別にそんなことないです。」


 奏さんは、ほんとに?なんて言いながら笑っている。


「歌劇団に入ることはないけど、君だけの王子様にはなってあげられるよ。私たち、エスの関係だからね。というわけで、君だけの王子様からの質問。」


 ひんやりとした両手で私の頬を包み込み、目を合わせる。後ろの窓から入る光が逆行になって、奏さんの髪がキラキラと輝く。後光が差して、まるで本物の王子様のようだ。


「昨日、何かあったよね?」


 奏さんから発せられる声は、さっきまでの少しふざけた感じと打って変わって、冷静で真面目な口調だった。目を逸らそうとしたが、駄目だよ、とすかさず阻止されてしまった。行動パターンが読まれている。


「別に…。」

「本当?」

「本当です。」

「そう。」


 私の頬から手を離す。何となく名残惜しい感じがしてしまったのはどうしてだろう。

 奏さんはそのまま教室の窓際まで移動すると、私に背を向けて窓にそっと触れた。顔は見えないから、奏さんがどんな表情をしているのか分からない。ちょっと素っ気ない態度をとりすぎてしまったかな。申し訳ないような気がしてきてしまって、奏さんに声をかけた。


「あの、奏さん。」

「琴ちゃんが話してくれないなら、そうだなぁ…うちの使用人たちに調べさせようかな。もし面倒なことに巻き込まれていたり、いじめられていたりした事実があれば、当事者を片付けちゃえばいいよね。社会的に消しちゃうことも出来るし。うちの使用人、あらゆる面において優秀だから。」

「ちょっと!」


 いくらなんでもそれは。あの使用人が只者では無さそうなのは最初に誘拐された時点から感じている。


「琴ちゃん、しー。」


 奏さんは振り向いて、悪戯そうな笑みを浮かべると、口元に人差し指を置いた。私は慌てて自分の両手で口をふさぐ。奏さんはふっと笑った。


「すみません。」

「んーん。大丈夫。で、話してくれるかな?」

「それは…。」


 もう観念しよう。当事者を片付けたらいいなんて物騒なことも言っているし、実際に行動に移されたら大変だ。


「話しますから、物騒なことはしないでください。」

「はは、琴ちゃんは優しいね。じゃあ、ゆっくり話を聞こうかな。お嬢さん、こちらにどうぞ。」


 そう言って奏さんは椅子を引いた。何の変哲もない教室の木で出来た簡素な椅子なのに、奏さんの仕草のせいか、高級な外国製の椅子のように見えてしまう不思議。私は促されるままに椅子に座った。奏さんはその隣の椅子に腰を下ろした。


 それから私は昨日の一件を話した。寮で虫を退治したこと。そのことが原因で寮会議で謝罪を要求されてしまったこと。


「というわけなので、別に誰が悪いわけでもいじめられているわけでもないので。こう、偶然が重なったと言いますか。って、奏さん、笑ってませんか?」


 こっちは一生懸命正直に話したというのに、奏さんはさっきから窓の方を向いて笑いを堪えている。ちょっとひどくないですか。


「笑って……ないっ、よ。」

「絶対笑ってるじゃないですか!」

「琴ちゃん、静かに。」


 奏さんはやっぱり笑っていた。目尻にうっすらと涙を浮かべるくらいには笑われていた。なんだか急に恥ずかしくなってきた。


「ひどいです。笑うなんて。」

「ごめんごめん。いやー、まさか入寮日早々に新聞紙で派手に虫退治するなんて流石というか、度胸があるというか。ふふっ、ははっ。」

「もうっ。私寮会議で謝罪しろって言われてるんですよ。正直に言ったところで信じてもらえるかも怪しいのに。」

「まあ、信じてもらえないだろうね。この学校に通っているのは皆お嬢様だから、新聞紙で虫を仕留められるような子はいないんじゃないかな。大概は使用人に任せている子ばっかりだろうし。寮だったら寮母さんに任せたりね。」


 奏さんは、細い指先で目尻の涙を掬いながら笑った。私は笑いのネタを話したわけじゃなくて真剣に悩んでいるのにこの人は。深い、それは体中の空気が抜けてしまうんじゃないかってくらい大きなため息が出る。


「そんなに落ち込まないでよ。今回の件は琴ちゃんに落ち度はないと思うよ。」

「なくても謝罪ですよ…。」

「じゃあさ。」


 スッと目を細めて、口角をふっと上げる奏さん。


「このまま寮会議サボっちゃおうか。」


 私の両手をとり、グイッと引き寄せる。そのまま私の耳元で、囁く。


「ねえ、どう?」


 耳に当たる吐息。そして、ふわりと鼻を掠める奏さんの香り。優しい花の香り。ドキドキと胸が高鳴る。高速の心拍数。一生分の心臓を動かしているんじゃないだろうか。


「ふぇっ、えっと、その。」


 変な声がでる。変な返事しか出来ない。泳ぐ目。


「だだだだ駄目ですよ。」

「駄目じゃないよ、いいじゃん。そのまま駆け落ちしちゃおうか。王子様とお嬢さんの愛の逃避行…なんて浪漫があっていいんじゃないかな。」

「ふざけないでください。」

「ふざけてないよ、至って真面目。」


 ね、と言って奏さんは私の両手を強く握った。どうしよう、どうしたらいい、あわあわと口を魚のようにパクパクさせる私。



「昨日の一件は擁護できても、サボりは擁護できないわね。」

「あーあ、見つかっちゃった。」


 ぱっと離される手。振り向くと、そこにいたのは寮長こと、紋さんだった。


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