第11話 洗濯物と班長

入寮初日の晩のこと、その事件は起こった。


「キャーッ。」


 廊下から大きな悲鳴が聞こえた。丁度教科書を本棚に並べていた私は、手を止めての慌てて部屋のドアをあけた。廊下には、息を切らして走ってきたであろう寮生の姿。寝間着姿もお嬢様らしくて華やかだな…ってそんなこと考えてる場合じゃないか。


「あの、どうかしましたか?」

「あなたは?」

「えっと、今日から入寮した日野琴子です。」

「そう。」


 私にはあまり興味がないのか素っ気ない返事だ。女学生は荒い息を整えると、私の両手をとった。手が汗でじっとりしている。


「あなた、虫は大丈夫?」

「虫ですか?」

「ええ。洗濯場に出たのよ!もう私怖くて怖くて。洗濯物を残したまま逃げてきてしまったの。」

「どんな虫かによりますけど…。」

「あれよ!黒くて、テカテカしていて、ああもう!思い出しただけでも虫唾が走りますわ!」


 ああ、あれか。良く家庭内で見かけるアレ。女学生たちが住む寮でも出るんだな。


「新聞紙で叩けばいいんじゃないですか?」

「そんなおぞましい!野蛮だわ!飛んでくるかもしれないのよ?」

「ええ、なので飛ぶ前に叩いてしまえば…。」

「任せるわ。」

「え?」

「あなたに任せるって言っているのよ。頼んだわね。その角を曲がった洗濯場よ。ついでに仕留めたら私の洗濯物も持ってきて頂戴。私そこの部屋だから。じゃあ、失礼するわね。」


 手汗でびっしょりの手をブンブンと振ると、彼女は逃げるようにして部屋の中に入って行ってしまった。どうしよう、今は部屋に結衣ちゃんもいないし…。じっとりした手を自分の服にこすりつけてふき取っていると、先ほど部屋に逃げ込んだ女学生がほんの少しだけドアを開けて、隙間から顔をだした。


「早く行ってください。ほら、この紙を使ってくださいまし。もうすぐ点呼の時間ですから早く!」


 ドアの隙間からポンと投げ出されたのは、海外の新聞だった。ちょっとお洒落だな、こんなのをあの虫を退治するのに使っていいのだろうか。とか思いつつ、新聞を拾ってくるくると丸める。そして、角を曲がって洗濯場をゆっくり覗き込んだ。

 今のところ何の変哲もない洗濯場。奥の台の上には洗濯物が積まれている。おそらくさっきの女学生の洗濯物だろう。大体あの虫は足がものすごく速いうえに逃げるのも隠れるのも上手いから、もう既に洗濯場では見つからないかもしれない。その場合はしょうがないけど、洗濯物だけ取って彼女に届けようかな。


 恐る恐る洗濯場に踏み込む。目を凝らしてぐるりと室内を見渡す。物音もしなければ、ヤツの姿も見えない。


「いないのかな?」


 いやいや、油断禁物。こういう時に限ってヤツは足元をすり抜けたりするんだ。ほら、例えばあの角辺りから出てきたりとか。

 まるで丸めた新聞紙を刀のように構えて洗濯カゴが重なっている場所に視線を移す。息を止めて、神経を研ぎ澄ます。


 カサコソ


 小さな音が聞こえ、小さな小さな影が動いた。


「いた!待ちなさい!」


 勢いよく、それはもう床に穴が開くんじゃないかってくらいの勢いで、私は新聞紙を振りかざした。

 パーンッと大きな音を鳴らして、新聞紙はヤツを叩きつけた。恐る恐る新聞紙を上げると、しっかり仕留められている。ふう、と一呼吸おいて、新聞紙を剥いでその場を軽く掃除して、私は彼女の洗濯物をもって廊下に出た。


「あなた、こんな時間に何をしているのかしら。」


 洗濯場をでた瞬間のこと。ばったり鉢合わせたその人は、眉間に皺を寄せて私を睨んだ。


「えっと、洗濯場に出た虫を退治していて…。」

「本当かしら。洗濯場の使用時間が過ぎたことを誤魔化そうとしているだけではなくて?」

「ちっ違います!」

「どうかしらね。名前と部屋番号を教えなさい。規則違反として寮会議で謝罪してもらいます。」

「そんなっ。嘘じゃないです。この洗濯物だって、そこの部屋の子に虫を退治して持ってくるように頼まれただけです。」

「じゃあ確認させてもらうわ。」


 その人はコンコンと音をたてて彼女の部屋をノックした。出てきた彼女は、その人の顔をみて、明らかにばつが悪そうな顔をした。


「わっ、えっと、班長…どうしたんですか。」

「夜分遅くに失礼するわ。そこの寮生が、あなたに『虫を退治して洗濯を持ってくるように』と指示されたと言っているのだけど。本当かしら。」


 当然そうだと頷いてくれると思っていた。私もその子の顔をじっと見つめたが、彼女は私から目を逸らした。


「何のことですか。知りません。」

「えっ。」

「そもそも私、その子と今が初対面です。」

「そんな。」

「勝手な言いがかり辞めてもらえませんか。それでは失礼します。」


 彼女はパタン、と音を立ててドアを閉めてしまった。取り残される私と、『班長』と呼ばれた人物。


「だそうね。」

「違います。本当に違うんです。」

「言い訳は見苦しいわよ。部屋番号と名前、早く教えなさい。私も暇じゃないの。」


 ほら、はやく。と急かされて私は部屋番号と名前を告げた。班長はメモ用紙にそれを書き留めると、次回の寮会議での謝罪を考えておくことね、とだけ告げて行ってしまった。

 ポツンと廊下に取り残される私。両手に抱えた冷たい洗濯物のせいか、それとも私の体温が低いのか、手先がひどく冷たく感じた。


「部屋、戻ろう。」


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