第1話 手を伸ばせ!
夜の海は不気味だ。黒く塗り潰された波打つ海水は、まるで魔物のようだ。海が青いのは、7色あるとされる太陽の光の内、青い光だけが吸収されず、海底の砂に反射して上がってくるからだけど、夜はただ、闇をそのまま映し出している。
その中に身を投げてしまえば、きっと黒に溶けて無くなる……そう思った。
俺――
現在、夜の十時。いくら四月下旬とはいえ、まだ空気が冷たかった。冬のコートが必要だった。ここまで原付バイクで来たけど、スーツだけだと風を通して体がかじかんでしまった。
目を閉じ、耳を澄ます。波を打つ音と風で木の葉が揺れる音、虫や小動物、鳥の鳴き声が聞こえてくる。人間の声や息遣いは、聞こえない。
観音崎公園は、半世紀以上も前に起こった戦争の記録が残されており、戦没者を弔う慰霊碑や墓が残されている。もう、当時の状況を知る者は、全員いなくなってしまったらしく、推察することしか出来ないが、きっとみんな生きるために必死に戦い、あるいは逃げ続け、今日を生きる俺達現代人に後を託してくれたんだと思う。
そんな偉大なる先人たちの気持ちを踏みにじるような真似を、俺はこれからしようとしていた。
◇◆◇◆
少し、恥ずかしい身の上話をさせていただこう。
ケ・セラ・セラ(なるようになるさ)――それが俺、火野秀平のモットーで、どんな失敗をしてもやり直せると信じて、26年の人生を過ごしてきた。ちなみに、身長は182センチで、体重は78キロ。学生時代はサッカーをしていたからか、少し肌は日に焼けている。自毛の黒髪は、適当に短めに切ってもらっている。こう言うと、体育会系の男子に思われるだろうけど、趣味はインドア派で、ゲームとマンガだ。
学校の成績が悪かったけど、浪人せずに大学には行けた(偏差値低いけど)。就活も早い段階で終わり、23歳になる年には社会人デビューを果たせた。
こうしてみると、順風満帆な人生を送れたように思う。
だけど、過ぎたポジティブシンキングは、時に反省する機会を潰してしまう。
初めてそう思うようになったのは、今月になってからだった。
最初、俺は一般企業に勤めることになったが、すぐに社風が合わないと考え、入社辞退という形で早期辞職。一か月後からは(非常勤のアルバイトだが)地方公務員として働き続けてきた。正規雇用でなくとも、給料に不満は無かったので、このまま定年まで働くのも良いと思っていた。
だけど、2年もしたら、自分にしか出来ないことをしたいと思うようになり、25歳になってから、専門学校で整体師になるための勉強を始めた。
それから2年後、ついに整体師として働くことが決定した。一般企業ではあるが、リラクゼーションの会社に勤めることが出来るようになったのだ。
いろんな人の後押しがあったことは言うまでもないが、やっぱり世間でいう自己実現というか、成功体験というものを味わえたのは、俺の中で大きな手応え……言い換えれば自信に繋がった。
今までは実家暮らしだったから、ここで上手くやれば、一人暮らしをして、彼女でもつくって果てには結婚……なんて浮かれた気持ちもあった。それくらい、良い流れに乗っている――そう思っていた。
だけど、人生には理不尽が付き物だ。
どんなに頑張ってもどうにもならないことはある。
それを、俺は身をもって思い知った。
結論から言うと、俺は入社早々、いじめに遭った。
理由はわからないが、研修を受け持つ講師の――しかも年下の男に、やたら厳しくされていたらしい。「らしい」なんていったのは、これが自分の思い込みではなく、他の研修生から聞いた話だったからだ。なんでも、施術の練習をする時、オレに対してだけは言葉遣いに容赦が無かったり、試験の採点が厳し過ぎる、と周囲には見えていたという。
自分はとにかく、「合格しなければ!」という思いでいっぱいいっぱいだったから、当時はそんな風に思われていたことにすら気付けなかった。
繰り返すが、理由は知らない。恨まれるようなことをした覚えもない。初対面で、特に必要以上の会話もしてないはずだから、好かれないのはわかる気がするけど、それがいじめをしたくなるくらい嫌われる理由に繋がるとは思えなかった。
だが、テストで講師に認めてもらわないことには、店舗配属を見送られてしまうという現実はある。それが俺の心に重くのしかかった。
――専門学校に行っててそれかよ。
実際に言われたわけではないのに、自分とは違って次々とテストを合格していく年下の同期たちの姿を目の当たりにしながら、だけど負けじと施術の練習を繰り返す。覚えなければならないマナーや接客の文言を、必死になって覚える。
初日からこんな感じだったから、入社初日から、今まで8時間は寝れていた俺の睡眠時間は、すぐに3分の1に減った。ご飯3杯は食べられるのが、コンビニとかで売ってるゼリー1つしか口に入らなくなった。
だけど、これが初めての正社員。逃げたくなかった。
でも、試験は通らなかった。
俺だけが。
入社して三週目。俺は壊れた。
その日の朝、普通に出勤しようと思ってベッドから起きた。昨晩は一睡もできなかったけど、体は普段通りに動いていたため、普段通りに洗面台で歯磨きと洗顔をしようとした。
だけど、起きてすぐに吐き気を覚え、眩暈を起こして震えた。すぐにトイレに駆け込み、便器に向かって口を開いた。固形物なんてほとんど口にしていないはずなのに、とにかく胃液がドバドバ流れ出た。
今まで、経験のないことだった。
たまたま遅れて洗面所にやってきた両親は、俺の姿を見た途端、すぐに会社を休むよう強く言い聞かせてきた。その時、俺は初めて、自分の目の下がくぼんでいることに気付いた。ずっと一緒に暮らしてきた両親の目から見ても、明らかにおかしい状態だったという。
不調ならば、もちろん病院に行く。
一応、内科受診をして、発熱は無かったけど、念のためコロナかどうかをPCR検査で確認をした。結果は陰性。ウイルスのせいではなかった。
そうなると、次に頼るべきは心療内科だった。昨今、様々なストレスを抱える患者が増えているということで、予約が取れたのは休み始めてから3日後だった。これでも運が良い方で、最悪の場合は1週間以上も時間がかかることもあるという。
そして迎えた、心療内科の受診日。
俺と同年代ぐらいの若い医者は、俺を「適応障害」と断言した。同時に、今の職場にいても改善の見込みは無いから、距離を取るべきだと言われた。
ここで、俺は暴走した。
まず、仕事を辞めた。
今のままではお互いのためにならないとかそれらしい理由を述べ、辞職を申し出たのだ。相手も慣れた対応なのか、止めることも理由を聞くこともなく、淡々と処理された。
適応障害の原因は排除したが、ここでまた問題が起きた。
今度は、社会人になってから得た恩師を失った。
その人は整体師の先生で、既に結婚して家を出ていた兄が紹介してくれた。整体師を目指していた俺のため、技術や精神面の未熟さやその改善方法をたくさん教えてくれた人だった。
彼は、俺が相談しなかったことを怒っていた。
「なんで相談しなかった!?」
「お前は自分勝手すぎる!」
「お前の中には何もない!」
電話越しに一方的に怒鳴られ、通話を切られた。
俺は、どうしていいかわからなくなった。
家族は自分の理想を押し付けたがるから、頼ると疲れる。だから頼りたくない。
友達に相談しようと思ったけど、今の自分の状況を知られたくなかったから、出来なかった。
急に、自分の世界が崩壊したような気がした。
◇◆◇◆
そして今、俺は海の中に足を踏み入れている。
少しずつ前に進み、海水が腰まで届く。
「何をしに来た?」――自問自答する。
頭がぼんやりして、言葉にすることが出来なかった。
このまま、前に進んで、それからどうなるんだろう……?
試してみたくなった。
その時、何かが海に落ちる音がした。それで我に返ってしまったくらいで、かなり重い物が落ちてきたようだ。
目を凝らして、音がした方向を見る。
そこに、10歳と思われる4人のこどもが浮かんでいるのを見つけた。海面にプカプカ浮かんでおり、だけど今にも沈んでしまいそうだ。
「なんで、こんな時に……!」
より深く、だけど確実に力強く、足を前に出す。胸まで水がついたところで、泳ぎに切り替えた。しかし、風が強く、波も激しいため、距離が縮まっているように見えなかった。
「くそっ……なんで!?」
こんな時に、何もできない自分が恨めしかった。年下の講師が、怒り狂った恩師が、果てには名前も知らないような誰かですら、自分を嘲笑っているような気がした。誰も見ていないはずなのに。
でも、俺はこども達を助けなければならない。理由なんてない。ここで、こどもを助けられないようなら、俺は本当に奴らが思っているような無能な人間であると認めなければならない。
――ふざけやがって!
誰に対してかわからない怒りが、身を焦がしていく。
「うおおおおおおおおおお!!」
心のままに、叫んだ。
その時、何かが割れる音がした――気がした。
一瞬、右目が熱くなった。それはすぐに収まったけど、直後に違和感――というより、不思議な感覚があった。余計にわかりづらい表現だったけど、そうとしか言いようがない、奇妙な感覚が体に残った。
右手に、金色の翼が生えた――気がした。
「そっちに行くな! こっちに来い!」
右手を、こども達に向かって伸ばす。すると、こども達の身体が宙に浮かび上がり、そのまま俺の目の前まで移動し、また落ちた。
「うぅぅわわわっ!?」
急に訳の分からないことになり、気が動転してしまった。
だけど、やるべきことは見失わない。
俺はこども達を海から引っ張り出し、砂浜の上に寝かせつける。幸い、4人とも呼吸は穏やかで、命に別状は無いようだ。水を飲んでいるとしても、少量で済んでいるだろう。
「……日本人じゃないのか?」
暗くてよく見えないが、こども達の髪の色は黒ではなかった。水色、桃色、白、暗めの灰色。どこか、日本人離れした髪質に思えた。
見た目から察するに、3人は確実に女の子。後の1人は男の子に見える。全員が黒いTシャツとスウェットのズボンを履いている。
暫定だからこういう言い方になるけど、美男美女ばかりだ。
「んん……」
水色の髪の女の子が目を覚ました。すみれ色の瞳は、宝石のようだ。
「大丈夫か!? 俺が何言ってるかわかるか?」
水色の髪の女の子の肩を叩きながら、尋ねる。
彼女は、他の子の姿を確認した後、俺に視線を合わせ……涙をこぼした。
「たすけて……」
「えっ?」
そうつぶやき、女の子は再び意識を失った。
「おいおいマジかよ……!」
俺は慌てて、119番通報をし、救急車を呼んだ。
◇◆◇◆
これが、俺と彼女達の出会い。
これまでの人生を一変させる、きっかけとなる出会いだった。
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主人公は、自分の本心に蓋をしたことにすら気付かず、バランス崩して転んぢゃった人ですね。「自分らしく生きる」ということが、単純だけどとても大事なことだということを体現するキャラになってもらいたいものです。
余談ですが、適応障害は2週間程度でも診断されるものだそうです。休職するために必要な診断書を書くための措置らしいですけど、心身に負ったダメージはしっかり残りますので、心当たりがある方は充分注意してくださいね。
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