沈黙していくモノ


 駆け寄った小鶴瓶こつるべが見た極楽鳥ごくらくちょうの姿は酷いモノだった。


 血涙が流れる目は淀んでいて上手く焦点が合わせられないのかやや虚ろ、目下に出来たクマは深く、いつも優し気なお姉さん然とした表情を台無しにしてしまっている。ぼたぼたと鼻から溢れている血も止めどない様子だし、いつも瑞々しいぽってりとした厚めの唇もすっかりと乾いてカサついてしまっていた。


 大丈夫か大丈夫じゃないかで考えたら、どう見たって大丈夫そうには見えないありさま。


「大丈夫……?」


 それでも、小鶴瓶こつるべはそう問いかけるほかなかった。


 それ以外になんて声をかけたらいいのかが分からなかったのだ。


「……、ダメかも」


 小鶴瓶こつるべの顔を見た極楽鳥ごくらくちょうは緊張の糸が途切れたようで、フッと身体から力が抜けてぐらりと大きくよろけた。


 大慌てでそれを受け止めると、ずっしりと重い身体は熱かった。


「あっつ……!? ちょっとしっかりしなさいっ!?」


 明らかに平常の範囲を逸脱した体温に小鶴瓶こつるべは瞬間パニックに陥る。


「大丈夫ではないけど、大丈夫よー……、意識はまだしっかりある、からぁ……」


 小鶴瓶こつるべに支えられ全体重を預ける極楽鳥ごくらくちょうが耳元でそっと呟く。


 その声色はこの三日間聞いてきた、艶があり自信が乗っていて伸びやかなモノとは随分とかけ離れた、疲れ切って焦燥が滲み出すごわごわとしたモノだった。


「と、とにかく体を休められる場所に行くわよ……」


 明らかに憔悴しきった極楽鳥ごくらくちょうの姿を見て直接触れて感じることは小鶴瓶こつるべに大きすぎるショックを与える。


 でもだからこそ今はこの人を助けないといけないという使命感が湧いてくる。


 正面から受け止めた身体の体勢を手をぐぃっと引っ張るようにして肩に担ぐように移行させ、背中からわきの下を支えるように手を回し、ジャブジャブズルズルと木陰へと何とか運んでいく。


 たった十数メートルを歩くだけだというのに、進めば進むほどに急速に極楽鳥ごくらくちょうの鼓動が弱くなり、体温が失われていく。


「生き残ってみんなを幸せにするんでしょ? もうすぐ身体休められるから、辛抱しなさい」


「うふふ、ありがとうね」


 衣擦れよりも儚い声に小鶴瓶こつるべの心臓が嫌な予感と共にドキリと高鳴る。


「ほら、ココなら身体休めさせられるから……、」


 樹の根元に極楽鳥ごくらくちょうを降ろして、幹に背を預けさせる。


 すると彼女は薄らとほほ笑んでそっと小鶴瓶こつるべの頬に手を伸ばす。


 その時、森が騒めいて、ギャアギャアと激しい鳥の囀りが木霊した。




 加成谷かなりやが飛び散った水跡を追いかけるようにして森の中を進んでいった先に不後取ふしどりみちるはいた。


 あんな勢いで吹き飛ばされたのだから相当なことになっているだろうということは想像出来ていた。


 ただ実際にその場に辿り着いてみると、想像していたより一層取り返しのつかないだろう状態で身身震いが起きる。


 ごろりと地面に倒れ伏す不後取ふしどりの身体のあちこちに低木や小枝に引っかかったと思わしき生傷があり、多くないながらも確かに流血している。


 それだけでも十分に胸につかえる。が、もっとも酷いのはそこではない。


 巨木に背中から激突した衝撃で背部腰部が不自然なほど大きく腫れあがっているのだ。


 近寄らずとも分かるほど大きくハッキリと腫れあがってしまっているし、何より激突の衝撃でいくつかの樹の皮が彼女の肌にしっかりと突き刺さって濁々と血を滴らせている。


「うぅ……、あぁ……」


 そんな様子の不後取ふしどりが僅かに呻いた。


 それは誰かに助けを求めるだとか、痛みに喘ぐだとか、そういう類のモノでは恐らくない。


 確かに言えることとしては、不後取ふしどりみちるはまだ生きている。


 ただそれだけの事実が加成谷かなりや堂佶とうきつの心を安堵させた。


 例え相手が自分たちの命を狙ってきている相手だったとしても、新しくできた友達の命を奪った相手だったとしても、目の前で死なれるのは気分が悪い。生きていてくれるのならばそれに越したことはない。


 それと同時に、「今はまだ生きているけど、迅速な救護活動が望めない以上遅かれ早かれではないのか」という思いも過ぎる。


 見立ては正しい。


 背骨と腰椎の一部が砕けて、肋骨にひびが入っているし、砕けた背骨の一部が内臓を傷つけてしまっている。今の彼女は早々に応急手当をして病院に運んだとしても生き残れるかどうかは運と本人の気力次第といったところだろう。そして、この常夏島という場所にいる以上どれだけ頑張っても海を超えるのに最低でも三時間は船に揺られなければいけない。


 今の彼女の状態でそんな時間、命を保てるはずがない。


 だから今はまだ息が有ったとしても、彼女にはもう生き残る術はない、とそう言って差支えがなかった。


 何をどう行動するのが正解になり得るのか、加成谷かなりやには分からなかった。


 応急手当をした方がいいのか、そっとしておくのが良いのか、それとももう絶対に助けられない以上は今この場で止めを刺してしまった方が却って良いのか……。


「はっ……、はっ……、はぁっ……!! あーアハハハッハハハッハハハハッ!!」


 加成谷かなりやが自身の行動を選びあぐねていると絶対にそんな声量で笑えるわけがないというのにあり得ない声量でぐたりと倒れたままの不後取ふしどりが笑い出した。


「おいっ!! そんなに笑ったら傷が……!?」


 その笑い声に圧倒されつつもそれでも思わず制止の言葉が口から溢れる。


 あまりの痛々しさに止めずにはいられなかった。

 だというのに、不後取ふしどりの笑い声は止まらない。


 それどころか明確に彼女の両腕に力が入り、両手を地面について身体を起こそうとする始末。


「やめっ……!? やめろって……!? 死ぬって!! そんなことしたら、今すぐ死ぬってっ!!」


 もしかするとアドレナリンの過剰分泌によって肉体から生じる痛みを感じ取れていないのかもしれない。


「どうせ死ぬ……っ!! 今だろうが、後だろうが、どうせ死ぬよっ!! アナタたちを今この瞬間に全員殺せなければ結局私は死ぬのっ!!」


 今度は言葉に返事があった。


 ガックンガックンっと全身を痙攣させながら立ち上がろうともがく不後取ふしどりの言葉には鬼気迫るモノがあった。


 彼女の抱えているモノが何なのか、加成谷かなりやは知らない。


 ただ断片的な会話の中で余命が幾ばくも無いということだけが辛うじて分かっているのみ。


 だからその暴力的なまでの生への執着の源泉がなんなのか分からない。


 分からない。が、必死に生きようともがいているということだけは身体の芯に強く強く叩きつけられたように理解出来た。


 これだけ必死に生きようとしている人を押しのけてまで生きる理由が自分にあるのか?


 一瞬、本当に一瞬だけそんなことを考えてしまう程度には……。


 でも、だけれど違う。


 これが加成谷かなりや不後取ふしどり、どちらかが死ねばどちらかが生き残れるという状況であったならば、もしかしたら加成谷かなりやは命を譲ってしまっていたかもしれない。


 しかしそうではない。


 目の前の彼女が生き残るには加成谷かなりやだけではなく、先ほどまで相対してくれていた極楽鳥ごくらくちょうの命も小鶴瓶こつるべの命も尊敬する瑠璃斑るりまだら先輩の命も、その彼女さんの命も、譲らなければいけない。


 自分の責任で自分の命を投げ出すだけだというのならばいざ知らず、他の人たちの命まで一緒になって投げだすなんてことはきっと到底許されることじゃない。


 誰だって死にたくないと思っている。


 もし仮に生きることを望んでいなかったとしても、それはきっと死ぬことを望んでいるわけではない。


 だから人は生きている。

 無為に命は捨ててはいけない。


 粗末にしてはいけない


「あなたがあくまで俺たちを殺すっていうならっ……!! 俺はっ……、俺はぁぁぁっぁっ!!」


 加成谷かなりやが覚悟を決めるようにぎゅぅと拳を握りしめてファイティングポーズを取る。


 相手の傷は相当に深い。


 一発でも本気の拳を叩きつければ恐らくはそれで終いだ。なんてことはない。


 だのに心の深いところまで恐怖が突き刺さっていて抜けやしない。


 ミシミシビキビキと全身から嫌な音を軋ませながら不後取ふしどりの身体がゆっくりと持ち上がっていく。


「ああハハハッッ!! あーハハハッハハッ!! それで良いっ!! 立ちはだかるなら、覚悟を持てっ!! どうせ生き残るのは一人きりなんだしっ!!」


 そして執念は立ち上がった。


 明らかに立てるような傷ではないのに、明らかに立ち続けられるような体調ではないのに。


 生き残るという執念が、負けないという強い思いが、願いをかなえるという無比成る意思が、不後取ふしどりみちるの足を進ませる。


 出鱈目で無茶苦茶、狂っているとしか言いようのない表情を浮かべて不後取ふしどりみちるが歩いてくる。


 自らの生き残りを邪魔するための障害を排除しようと歩いてくる。


 誰がどう見ても虫の息だ。


 だというのに加成谷かなりやは直感的に「殺される」と思ってしまった。


 絶対に無理だ。


 今の不後取ふしどり満には目の前に立つ加成谷かなりや堂佶とうきつを殺すほどの力は間違いなく残っていない。


 冷静に考えればそんなことは一目瞭然だろう。だなのに、加成谷かなりやの身体は心は、恐怖に支配されて動けなかった。


「死にたくないんだろう? それなら、戦えよっ……!! 戦った方が、楽しいっ!! 痛みが、重みが、熱が、命を感じさせてくれるんだっ!! アハハハッハッ!! アーハハハッハッハッ!!」


 その瞬間、カラスたちが一斉に激しく啼き羽ばたく。それにつられるようにして小動物たちも一斉にさぁっと何処かへと散っていく。


 森が騒めいていた。


 加成谷かなりやの真正面に立った不後取ふしどりの表情はいっぺんの曇りもない純粋な笑みだった。


 顔色は悪い。ひたすらに悪いというのに、それを一切感じさせることのない凄絶な笑みがそこにあった。


「うわぁぁっぁぁぁっぁっぁっぁ!!」


 どう考えても後がないのは不後取ふしどりの方だというのに、気圧された加成谷かなりやが絶叫する。


 絶叫して、動かない身体を無理やりに動かす。


 ギシギシと油の切れたブリキのように緩慢な動きで何とか腕を持ち上げてボロボロの不後取ふしどりの顔面に向かって拳を放つ。


 そのとき彼女の身体がぐらりと傾く。


 そのままなんの構えも取らないままでずるりと加成谷かなりやへと倒れかかっていく。


「うわっ!?」


 パンチを打つタイミングが完全にズレてしまった加成谷かなりやはそのまま不後取ふしどりに圧し掛かられるようにして地面に倒れる。


 バタンッ!! と加成谷かなりやは仰向けで、不後取ふしどりは俯せで、音を立てて二人は倒れた。


「なっ!? は? えっ……?」


 状況が理解できない加成谷かなりやはただ茫然と朝焼けに白む空を望む。


 ずっしりと身体に掛かる重さから徐々に熱が失われていくのが伝わってくる。


「ちょっ……!? は……? なんっ……?! ……、まさかっ?!」


 温もりが急速に失われていくことにある予感がしてぐったりと動かない不後取ふしどりの身体を少し強引に下から押し上げ、痛々しい青あざが残る首へと指先を当てる。


 脈はなかった。


 そう加成谷かなりやが拳を放とうとした丁度その時に不後取ふしどりみちるはこと切れた。


「はっ……、はは……、はははは……」


 森の中に加成谷かなりや堂佶とうきつのから笑いだけが木霊する。

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