第22話 涼 26歳 春 ふたつめの前世

「じゃぁ二つ目の前世にいきましょうか」

 伊那がそう声をかけた。

「そうだね。二つ目の前世でも音楽があるのだが、この前世では歌が重要だ。ただ、さすがにまったく知らない国の言葉では歌えないから、歌詞なしのヴォカリーズでいくよ」

 ロウはそう言って、竪琴を抱えなおした。伊那が涼にふたつめの用紙を渡す。


 ロウが竪琴を爪弾く。今度の音楽も、どうやら西洋ではない。不思議な旋律が広がった。涼は視線を用紙に落とした。



高瀬涼様の前世 2

時代:7世紀頃 場所:現在のモロッコのあたり。


 今度は時代を戻るのか、と涼は思った。一方向に進むのではないようだ。



「ベドウィン、と呼ばれる砂漠の民たちは、好戦的なことで知られている。馬やラクダの扱いだけでなく、風や水を読むことに長け、歌を好み、魔術にも深く通じている。部族によってそれぞれに特徴はあるのだが、勇敢なことで知られ、精霊とも交流を持っていたある部族の話」


 涼は砂漠の風景を見るのが好きだった。見渡す限りの砂丘の山。他には何もない。太陽がラクダの影を長く伸ばす。その中を隊商が進んでいく。深い森の緑、透き通った青い海、色とりどりに咲き乱れる花の風景より、単色に近い砂漠の風景になぜか惹かれるのだ。それは前世で砂漠にいたことがあるからか、と思った。


「ベドウィンは基本的に男系を主として構成されている。男系の血がより血が近いものを尊重し、父・祖父・男兄弟、従弟、それらを主として血族の結束に従って暮らしている。定住せず、遊牧しながら暮らす民だが、しばしば敵とみなす部族と戦闘し、戦闘のために自ら移動していくこともある。

 ベドウィンにウマルという名前の若者がいた。生まれつき歌がうまかった。この部族では精霊との交流に歌を使う。族長はウマルを選んで、歌で精霊を呼び出す方法を教えていた。ウマルは地位的には、族長とは遠い血縁ではあったが、族長のお気に入りだった。族長に近しい血族の男子に、精霊を呼べる歌を歌えるものはいなかった。 

 精霊はなによりベドウィンにとって大切な水の場所を教えてくれる者。ときには風、雨、砂嵐の警告もしてくれる。だが、基本的には人間の争いに加担をしない。ごく特別な例外をのぞいては。そのことは部族の皆が知っていた。また、精霊を呼ぶ歌を歌える力は、血族と関係のないこともわかっていた。選ぶのは人ではない、精霊のほうなのだ。

 だからウマルは、精霊を呼べる者として部族の中で大事な位置を占めつつあったし、今後もその地位は確立していると思われた。あまり戦が好きではないウマルにとっては喜ばしいことだった。ベドウィンにとっては、戦が好きではないのは恥ずべきことだったが、歌はウマルの身を保証してくれる安心の材料だった。精霊が呼べれば戦に出なくてもすむ、もし戦に出たとしても、馬やラクダの気持ちを落ち着けることのできるウマルには、戦以外の役割が与えられることが多かった。もちろん、部族の皆もウマルが戦に向かないことなどわかっていた」


 ロウが歌詞のない歌をハミングしはじめた。西洋とも東洋とも違った、不思議な旋律。これはモロッコ的なのだろうか。これが精霊を呼ぶ歌なのか。山の神を呼び、山の王を呼ぶロウには、当然、精霊を呼ぶ歌も歌えるということか。いつものロウの声とはまったく違う、静かな旋律。ひそやかに夜の静寂の中で一方向に向かって伸びていくような声。そうか、その一方向こそが、精霊がいる場所なのか。



「ウマルには精霊の友達がいた。むしろ、この精霊こそが本物の友達だった。精霊の名前はギイドと言い、風の精霊だった。ウマルが歌で呼べばどこでも来てくれる。ウマルが呼んでいないときでも、ふっと現れてふっと消える。精霊には精霊のルールがあり呼べば必ず来てくれるわけではないが、そんなときは『今は行けない』という言葉だけが風に乗ってやってきた。ギイドは、砂漠の民の命を奪う砂嵐の知らせだけでなく、あらゆる気象の変動の知らせを持ってきてくれた。それは気象を読み間違うことがあれば、即、生命の危機につながるべドウィンたちにとっては重要なことだった。

 ある日、ギイドは珍しくウマルに『自分のあとについてこい』と言って、部族のテントから遠くへと連れだした。どこへ行くのかとウマルが尋ねても答えない。ウマルは方向感覚が発達しているからどこへ向かっているかはわかる。しかし、ウマルの知る限り、ギイドが連れていく方向になにかがあった記憶はない。だが、精霊には、精霊だけが知る何かがあるのだろう、そう思ってウマルはついていった。

 ふたり、いや、ひとりと精霊は、長く歩いて、水のある場所までやってきた。ウマルが水を飲むと、ギイドは何も言わずにふっと消えた。ギイドがそんな風に消えることはよくあったが、たいていはすぐ戻ってきた。だが、今回は、どんなに待ってもギイドは戻ってこなかった。さんざん待った後に、ウマルはギイドを歌で呼んでみたが、返事はなかった。『今はいけない』という返事すら、風に乗ってやってこなかった。そんなことは、ウマルがギイドに出会ってから初めてのことだった。ウマルは不安になった。ギイドがいなくては、嵐も竜巻もわからない。ウマルは長い時間悩んだ後で、部族のテントに帰ろうと決めた。ウマルは自分の中にある方向感覚を使い、長い時間歩いてテントのあったところへと帰っていった。


 そこには恐るべき光景が広がっていた。テントはつぶれて風にパタパタと揺られていた。男たちは首を落とされて、胴体だけの姿で横たわっていた。子供たちや老人たちは斬り殺されていた。ベドウィンたちが使う半月刀で斬られた傷だった。女たちはいなかった。おそらく連れ去られたのだ。ウマルは半狂乱になって、あちらのテント、こちらのテントと走り回ったが、生きている人間を発見することはできなかった。

 ウマルは大地の上につっぷして泣いた。泣き疲れたあとで、ふと、ギイドが自分だけを連れだした意味に気づいた。ギイドはおそらく、ウマルをこの虐殺から逃れさせたのだ。だがそれは、ウマルにとってはつらいことだった。

 どうしてギイドは、部族全員を助けてくれなかったのだろう。どうして自分だけを連れだしたのだろう。精霊は人間の世界の争いごとにはかかわらない。そうであれば、自分も部族と一緒の運命にしてくればよかったのに。では自分は、部族の他の男たちと同じように、首なしの死体になったほうがよかったのか? 

 ウマルは自問自答してみたが、答えは出なかった。ウマルにわかったのは、自分には帰る場所がなくなったということだ。厳しい砂漠での生活を生き抜くには、仲間がいないことはほとんど死を意味する。水のある場所はわかる。だが、ウマルひとりではテントも作れず、食べ物も手に入れられない。血族の絆が強いベドウィンでは、ほかの部族に入れてもらうことなど、ほとんど不可能だった。それでもウマルは、水のある場所に向かって歩き始めた。ウマルの気持ちは死んでしまいたかったが、ウマルの生命はまだ生きたいと望んでいた。


 運命は、ウマルの生命が望んだとおりにウマルを生かそうとしていた。ウマルはオアシスで、別のベドウィンの部族と一緒になった。オアシスでは、どの部族も休戦することとなっていた。オアシスを汚せば、すべての生命が死に絶える。たとえ敵の部族と偶然一緒になったとしても、見て見ぬふりをするのが礼儀だった。ところがその部族は、偶然にもウマルのもとの部族ともっとも近しい部族だった。ウマルを可愛がってくれた族長の遠い血族だった。そして、ウマルの部族が絶滅したことを知っていた。

 その部族の中ですみやかに話し合いが行われ、ウマルをその部族へと迎え入れるための準備が整っていった。ウマルにはもちろん異存はなかった。だが、迎えられる途中で、ウマルはその部族の重大な思い違いに気が付いた。ウマルは、ウマル自身ではなく、もとの族長の息子、アルマドとして迎えられようとしていた。たしかにウマルは、その息子とよく似ていた。

 おそらくここの族長は、ウマルの族長の顔をよく知っており、その顔と似たウマルを、族長の息子だと勘違いしたのだろう。ウマルは何度か、違うといわなければ、と思いながら、いや、族長の息子でなければそもそも迎えてくれないかもしれない、という恐れのために言い出せずにいた。族長の息子と、遠縁の自分では扱いは違うだろう。それに、部族のみなは死んでしまった。誰も真相を知る者はいやしない。ウマルはついに、自分はアルマドではない、と言い出す機会のないままでその部族に迎えられてしまった。


 ウマルには、馬やラクダの気持ちを理解する才能とともに、人間の気持ちを理解する才能もあった。もとの部族では、その能力を発揮する必要はなかったが、いま、その能力は必要にせまられて発達していった。ウマルは素早く、新しい部族の中で、自分に望まれていることを読み取った。もちろん、馬やラクダの気持ちを理解することも変わらずにできた。そのために新しい部族の中でも、じょじょに重要な位置を占めるようになっていった。

 ウマルは、もはや前の部族にいたときのように戦いに参加しないわけにはいかなかった。アルマドがそうであったように、戦いのときには勇猛果敢に戦った。動物を癒すかわりに、馬に「走れ、飛べ」と命令を下し、馬と一体となって戦った。馬はウマルの手足のように動き、ときには馬のほうが主となってウマルを助けてくれた。ウマルは自分の望みとは裏腹に、優秀な戦士に変わっていった。

 だが、アルマドとしては決してできないことがあった。精霊を呼ぶことだ。精霊を呼ぶ歌の中には、かならず『ウマル』という名前が入る。ウマルが精霊を呼んでいることを告げるための歌詞だ。アルマドとして生きる道を選んだウマルにとっては、そんな危険はおかしてはならないことだった。それに、ウマルはギイドに複雑な感情を抱いていた。助けてもらった、とは思えなかった。自分に残酷な運命を運んできたこの精霊を、ウマルはまだ許せていなかった。


 ウマルは、アルマドならこう振舞うだろうと想像しながら行動した。勇猛な戦士となり、快活に新しい仲間と打ち解け、部族の中でしっかりと自分の地位を築いていった。ときおり、もともとのウマルらしさが顔を出し、暗い顔で黙っていることがあっても、それは元の部族を失ったショックからだろうと思われていた。それにウマルは、誰かに迷惑がかかるほど長くふさぎこむことはなかった。速やかにアルマドとしての役割に戻っていった。

 ある日ウマルは部族の長に呼ばれ、娘との結婚はどうかと尋ねられた。ウマルは驚かなかった。みなの意識の流れがそう向かいつつあることは予想できていた。ウマルは承諾し、族長の娘と結婚式をあげた。結婚生活はおおむね上手くいっていた。妻は優しい女だった。もとの部族のことを根掘り葉掘り聞くようなことはせず、穏やかでおっとりした気質ながら、ウマルのいろいろな好みをすぐに把握して、居心地よくしてくれた。ウマルはあるときは、妻を本当に愛しているような気がした。だがすぐに『自分はアルマドを演じているに過ぎない』という事実を思い出し、和らいだ気分がいくらか冷えていくのだった。

 そしてそれから、アルマドとして生きるウマルの人生には、大きな事件は起こらなかった。ウマルはアルマドとして生き、アルマドとして死んだ。二度と風と精霊と交流することもなく、自分の本当の名前で呼ばれることもなかった」



 涼は読み終わっても、視線を用紙の上に落としたままだった。ロウのハミングはまだ続いている。精霊を呼ぶ歌、前世の自分が二度と歌えなかった歌。その歌のどこかに『ウマル』という名前が入っていたのだろうか。涼は、ふと、精霊には寿命などないのでは、と思いついた。では、いまこの歌をもう一度歌えば、ギイドが現れたりするのだろうか。違う人生を生きている涼には、ギイドへの恨みなど残っていなかった。ただ、精霊に会えるのであれば会いたい、と思った。


 それに、ルーツとは違う土地で自分のアイデンティティに悩む、なんだか今の自分と似ているな、と涼は感じた。涼は視線をあげた。それを見たロウが音楽を終わらせた。


 ロウも伊那も、今回も黙って涼が言葉を発するのを待っていた。涼は何から話そうかと思いをめぐらせた。

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