第21話 涼 26歳 春 ひとつめの前世

「じゃぁ、アジアのほうからいこうか」

 ロウがそう言って立ち上がり、そのままピアノのほうに向かう。

「アジア?」

「そう、ひとつめはアジアの前世ね。私は物語を取ってくるわ」

 伊那がそう言って、いったん厨房の奥に消えた。厨房の奥には伊那の私室がある。

ロウはピアノに向かったが、ピアノの隣に立てかけてある竪琴を持って戻ってきた。

「この竪琴はアジアの竪琴ではないし、音も違うが、ピアノよりは竪琴のほうが少し近いかもしれない」

 そう言って、ロウは竪琴を抱えて座った。

「私は君の前世のメロディーを辿りながら音楽をつないでいくから、君は君で物語を読めばいい」

 ロウはそう言った。伊那が手にプリントアウトされた用紙を持って戻ってきた。その中に涼の前世が書かれているのだ。用紙は二つ綴りになっていたが、それほどの長さはないようだった。


「私が前世を読むときは、だいたいこれくらいの分量なのよ。その人生の中の重要な事件をピックアップする感じなのかしら。はい、こっちがアジアの前世ね」

 伊那は涼にひとつの綴りを手渡した。涼は息を詰めて白いA4の用紙を見つめた。ロウが声をかけた。

「緊張する必要はないよ。前世は、もう終わった物語だ。どんなドラマがあろうとも、それはもはやひとつの物語でしかない。君がいまの人生で抱えている問題のように、立ち向かうことができないかわり、打ち負かされることもない。

 ただ、人にはそれぞれ特徴的な性質があって、それは転生を越えても持ち越される。君が生まれ変わったとき、生まれてくるのはやっぱり君だということだ。別の人生だが、別の人間になれるわけではない。自分の魂に備わっている特徴と、長所と短所をよく知って、長所を伸ばし、短所を克服していけば、今生の自分の人生を最大限に生かすことができる。

 人はこの世界に生まれてきて、愛や幸せ、成功をつかみたいともがき、ある部分には成功し、ある部分には失敗して死んでいく。そしてまたもう一度この世界に戻ってくる。そして何回も何回も繰り返して、やがてはこの繰り返しから解放されるときがくる」

「解放されたらどうなるんですか?」

「星に還るんだよ」

「星に還る?」

「そう、魂がもといた場所にね」

 涼は星のルーツの話だな、と思った。だが、まだ理解できているわけではない。ふと、涼の頭にひらめくものがあった。星、星に還る話。


「星の王子さまみたいなものですか?」

 サン=テグジュペリの星の王子さまは、涼が好きな物語だ。もっとも、最近は読み返したこともなく、本が家においてあるわけでもない。

「サン=テグジュペリは飛行機乗りだが、サハラ砂漠に不時着したとき、人ならぬ存在と出会ったんだよ。四方八方、見渡す限りの砂漠、人の存在がなく、建物も街灯りもなく、昼は太陽だけ、夜は星と月の光だけ。そういう空間にいると、どんな人間でも、普段は使っていない第六感が全開にされてしまうものだ。それがあの小説につながっている。人は星に還るということがね。だけど、サン=テグジュペリは、砂漠から生還して、人としての普通の人生を送っている。星に還るということを知った後も、人生は続いていくし、いまの自分の人生を大切にすることしかできない。星のルーツを知ったなら、星の光を人生に撒いていくことだよ」


 前回エリクサに来たときに聞いた『星』と言われる人間は、星の光を集める、ということに繋がっていくんだな、と思いながら涼は聞いていた。どういうことなのか、具体的な実感はまだない。ただ、いろいろなことをもっと知って、もっと深く、もっと広く、生きてみたいと思うだけだ。


「じゃぁ、はじめようか」

ロウがそう言って竪琴を抱える。

「この竪琴でアジアの音を奏でるのは無理だが・・・東洋とは音階が違うからね。可能な限り、近づけてみたよ」

 ロウは竪琴の弦を二音同時に、まるで琴を奏でているように弾いた。不思議な音階が空間に広がる。たしかに東洋の広がっていく音に似ている。ロウは弦に集中しているようだった。いったいどうやって、前世の音楽を聴くのだろう。しかも、前世を読むのは伊那さんなのに。もしも、ロウ自身がその音楽を聴いたのだとしても、まったく違う楽器で再現するのは難しいだろうに。


そう思いながら、涼は白いA4用紙に視線を落とした。


最初の文章は


高瀬涼様の前世 

時代:14世紀頃 場所:現在の成都のあたり。


 と記入されていた。中国なのか、と思いながら涼は文章を読み進めた。ロウが奏でようとしている音楽は、中国の民族音楽なのかな、と感じながら。涼は最初の一文を読んだ。


 「少年は生まれつき体が不自由だった。知性も感性も優れていたが、立ち上がることができなかった」


 この少年が自分なのか、体が不自由という感覚はわからないけど。


 「生家は商家で、比較的裕福だった。両親は足が不自由な息子のために、二階に遠くまで見渡せるベランダを持った家を建てた。そのベランダのある部屋が息子の部屋だ。二階からはゆったりと流れる河川、錦江が見渡せた。

 少年は家からほとんど出なかったが、その部屋には両親が招いた家庭教師という名前の話し相手たちが入れ替わり立ち代わり現れていた。少年は知らなかったが、両親は医師から、この少年の不具合は足だけではなく、おそらく大人まで生きられないだろうと告げられていた。両親は、足の不自由な子供が、同年代の子供と遊ぶのは残酷だと考え、同年代の子供を近づけなかった。少年の好奇心を満たすために、歴史、詩歌、音楽などの教師が選ばれていた。少年は錦江を見下ろしながら、錦江の詩を口ずさむのが好きだった。



江碧鳥愈白

山青花欲然

今春看又過

何日是帰年


錦江の水は深く澄んだ碧、鳥たちは白、山は青く生い茂り、花は燃えるような赤

今年の春も過ぎていく

いつになったら帰れるのだろう



 少年は、生家に暮らしながら、不思議な郷愁を感じながら口ずさんでいた。

 肉体が思い通りに動けない人生に、魂の故郷を懐かしんだのかもしれない。


 成都は、都市としての隆盛をきわめつつあった。多数の人々が行きかい、景気はよく、ものがよく売れ、子供たちは大人になれば、人生がよりよくなる夢を見ていた。

隆盛を極めつつある都市では、詩歌音曲が流行していた。杜甫の詩も、さまざまな伴奏をつけて歌を歌い、金銭を稼ぐ音楽家たちが増えていた。人々も、音楽を楽しむ余裕があった。


 少年は錦江を見下ろしながら人生を送っていたが、あるときから、錦江のそばで楽器を練習している少女をみかけるようになった。まだ幼く、少年よりさらに年下に見えた。少女はいつも夕暮れ時に現れる。さほど裕福ではなさそうな格好をしているから、日中は家の用事かなにかに追われているのかもしれない。少年は世間の音楽を知っているわけではなかったが、その少女が弾く楽器の音色は特別に美しいような気がした。もしかしたら、大人になったら楽器で身をたてようと夢見ている少女かもしれない。少年はいつしか少女が現れるのを楽しみにするようになっていたが、ある日を境に少女はぱったりと姿をみせなくなった。少年は心配したが、心配してもどうなるものでもない。二階から見下ろしているだけの自分と少女をつなぐものは何もない。少年はがっかりしたが、諦めることにも慣れていた。


 それから三年が過ぎ、少年はすでに病の床にあった。医師がいう「大人になるまで生きられない」という時期がやってきていた。大人の体形を支えるだけの内臓の強靭さがなかったのだ。背が伸び、体重が増えるごとに少年の体は悲鳴を上げた。


 だが、その病の床で、少年はあの少女の楽器の音色を聴いた。少年の病に侵された肉体の中から、生への憧憬があふれんばかりに流れ出し、体中の血管を駆け巡った。少年の胸が躍るように鼓動を打った。どこにそんな力が残っていたのか、少年は床から起き上がり、不自由な足をひきずって窓の外を見た。あの少女だった。楽器の音色は、三年前よりはるかに美しい。そして、少女の服装も美しいものに変わっていた。

「きっと、あの楽器の演奏者になったんだ」

 少年は安堵した。美しい音色に誘われて、人々が集まってくる。少女はひととおり演奏すると、人々の拍手に頭を下げ、あっさりと立ち去ってしまった。


 少年の胸は温かかった。人生最後に、贈り物をもらったような気持ちになっていた。少年は自分がまもなくこの世を去ることをわかっていた。少女の音色を胸に抱いて、少年は死の世界へ旅立った」



 ロウの竪琴の音が続いている。ロウの音楽のおかげが、少女の楽器の音が涼の胸の中に蘇る気がした。胸が温かくなるような、せつなくなるような、不思議な感触を味わっていた。この感覚はいったいなんだろう。


 涼が文章を読み終え、顔を上げたのに気づき、ロウは音楽を終わりに持っていった。ロウも伊那も、優しい目をして、涼が言葉を発するのを待っていた。


「どう言ったらいいのか・・・」

 涼は言葉を選んだ。自分の感じたことをうまく表現できなかった。だが、涼には、この前世の中ではっきりイメージできたところがあった。その楽器の少女はヴァイオリンの先生なのではないか、と感じたのだ。幼い少女、と文章では書いてあるのに、どうしてもその少女にヴァイオリンの先生の面影が重なる。美しい音を奏でる静かな佇まいが蘇ってくる。最初に先生のヴァイオリンを聴いたときの、別世界に誘われるような不思議な感じ。空気が止まったような感覚。胸が温かく、同時にせつなくなる想い。


「僕はこの少女がどうしてもヴァイオリンの先生のような気がします」

 涼はそう言った。

「君のヴァイオリンの先生は女性だったのか。なるほど、この前世が、君のヴァイオリンにつながっているということだ。この楽器は、おそらく二胡に近い楽器だ。二胡もヴァイオリンも、弦楽器の中では、擦弦楽器になる。君と彼女は、前世から擦弦楽器を通じて縁があったということだな」


 涼は今生では二胡にはまったく縁がなく、膝において弾く楽器だな、というくらいの知識しかない。でも、そう思ってイメージを追うと、視線を落として二胡を弾いている先生の顔が二重写しに見えたような気がした。


「どうして最初にこの前世なのかな、と思ったけれど、涼さんの今生の音楽において重要な役割を果たした人だったのね」

 伊那が感慨深そうに言った。

「そしておそらく初恋のね」

 ロウが笑みをたたえた瞳で言った。

「はい、まぁ、そういうことです」

 涼は素直に認めた。ヴァイオリンの先生の、涼やかな美しい瞳と静かな佇まいが蘇った。

「ずいぶん遠い距離の初恋だな。えてして初恋とは、そういうものだが」

「前世では口もきいてないわけですから、だいぶん近づいたとも言えませんか?」

「じゃぁ、来世くらいには、なんとか告白してみるかい?」

 ロウがそう茶化した。

「なんでそんなに長期計画なんですか」

 涼が抗議すると、ロウがははは、と笑った。相変わらず、ロウが笑うと空間が明るくなる。



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