第23話 涼 26歳 春 みっつめの前世

 ロウも伊那も、今回も黙って涼が言葉を発するのを待っていた。涼は何から話そうかと思いをめぐらせた。


「僕は砂漠が好きです。砂漠の写真を見ると、なぜか惹きつけられていて。その理由がわかった気がします。砂漠で暮らしていたことがあったのですね」

「そうだな、わけもわからず、なぜか惹きつけられるものには必ず理由がある。素直にそれに従えば、魂が導いているものにたどり着ける」

「あの、もしもロウさんが呼べば、ギイドが現れますか?」

 ロウは、ん?という顔で涼を見てから答えた。

「ああ、それは二つの理由で難しいな。ひとつは、そもそも君の歌だから、私が呼んだとしても、来てくれるかどうかはわからない。もうひとつは、精霊は神界に属するものだから、国境は越えられない」

「えっ、精霊って国境があるんですか?」

「そう、神にも精霊にも国境があるんだよ。もっとも、私たちの国境よりもっと広いがね。この地球の神界は七つのエリアに分かれていて、精霊たちはそのエリアを超えることはできない。ここ日本は、小さな国だがエリアは独立しているのだよ。モロッコとは違うエリアになる。たとえ君が前世とまったく同じ歌でここから呼びかけても彼には聞こえない。もしも君が、サハラ砂漠で彼に向かって歌えば・・・。彼がまだ存在していれば来てくれるだろう」

「精霊も寿命があるんですか」

「あるよ。精霊の種類にもよるが、この精霊は名前と意志を持つようだから、そのレベルだと数千年の寿命になる」


 涼はもう一度、用紙を見た。七世紀・・・前に会ったときから千年は越えているが、もしかしたら、まだ会えるのかもしれないのか。そう思うと不思議な感覚だった。

 涼が、もうひとつの気づきを口にした。

「自分が存在する場所のアイデンティティに悩むところも同じです」

「そうだな。この前世のときは、生命の危機、それから個としてのアイデンティティの危機。かなり追い込まれた状態だったね。でも、この前世から、歌いたい、自由になりたい、アイデンティティを取り戻したいという願いを抱えたままでいまに至っている。本来いるべき場所から引き離された望郷の念が、人の心を打つ歌声になったともいえる。

 自分の苦しみや悲しみを通して、誰かの心をゆさぶることができるなら、誰かの心に灯りをともすことができるなら、その苦しみには実りがある。人生の困難を個人的に受け止めてはいけない。人生には埋め合わせがあり、探せばかならず恩恵があるものだ」


 ロウはそう言いおいてから、ふと腕時計を見た。

「さて、悪いが私はどうしても外せない用事があってね。少し出かけてくるよ」

「えっ?出かけるんですか?」

「せっかく君が来ている日にすまないね。夕食の時間の頃には戻る」

 そう言って、ロウは立ち上がった。伊那がいってらっしゃいと声をかけて、ロウは軽くうなずく。ロウはリビングの入り口付近にかけてあるコートを手に取ると、そのままあっさりと出て行ってしまった。涼はロウの後姿をそのまま見送っていた。伊那が声をかけてきた。


「ふふ、ロウがいないと淋しい?涼さん」

「そういうわけではないですけど、なんとなくロウさんが行く場所が見当つかなくて」

 そう言いつつ、涼は、これではロウが暇人のようではないか、と感じた。勝手にロウのことを隠居しているように感じていたが、実際はそうではないのかもしれない。

「ロウにもいろいろするべきことがあるのよ」

 伊那はそう言い、涼の前世の話を続けた。

「ヨーロッパに魔法を追求する魔女や魔術師がいたことはよく小説に書かれているし、日本では安倍晴明の呪術が有名だけど、アラブの世界にも魔法は根付いているのよ。アラジンの魔法のランプはその典型のお話ね。異世界の人ならぬ存在を呼び出して、こちらの願い事を聞いてもらう、そういったことはあらゆる時代に、世界中で行われているの。どうして世界中でおこなわれているのか、それはその方法に効果があるから、それに尽きるわ。よりよく生きたいのは人間の本能であり、止められないものよ。それが魂の望みであれ、ただの欲望であれ。

 安倍晴明は五芒星を使い、ヨーロッパでは六芒星が使われていたけれど、五と六の間には剥離があるの。エネルギーの断裂よ。それを使えば異世界が呼び出せる。だけど、五のほうが不安定で、六のほうが安定している。五を使って異世界を呼び出すとき、そこには少しだけ魔が宿る。安倍晴明は魔物も使えるし、人の欲望を叶えることもできるでしょう。アラジンの魔法のランプは実話というよりお話だけれど、もしランプの魔人を呼び出すのであれば、五芒星を使う必要があるわ。五のエネルギーは空間をジグザグに進んで、不調和をつかまえることができる・・・


 伊那の声を聞きながら、ふと涼は眠気が生じるのを感じた。そして、リビング中央にある暖炉の火がめらめらと燃える様子に目を止めた。パチパチと樹が爆ぜる音がする。あの音は欅か。

 音の鳴る樹・・・香りのする樹・・・そうだ白樺の香りが好きだった・・・


「兄さま、早く早く、火が消えてしまうよ!」

「あ、ああごめん」

 そう言って、慌てて次の薪を火にくべる。

 弟の輝く金の巻き毛が目に入った。弟はまだあどけない幼い顔でくるりと振り向いた。

「・・・アントワーヌ」

 弟はきょとん、とした顔をした。

「兄さま、どうしたの?普段はその呼び方はなさらないよ」

「あ・・・そうだね。名前はアントワーヌだったかな、と思って」

「変な兄さまだなぁ」

 弟はぱあっと輝くような笑顔で笑った。普段は愛称のトワーヌと呼んでいて、フルネームで呼ぶことなどついぞなかったのだ。

 ルシアンはなんだかぼうっとしていたな、と思った。炎を見つめていると、たまに無心になってしまうことがある。

 二十近くも年が離れた弟は、ルシアンになついている。トワーヌは、父の後妻が生んだ子供だ。母譲りの金色の巻き毛と愛くるしい顔。だが、どこか自分の美貌を誇っているような高慢な母に似ず、無邪気で人懐こい性質だった。ルシアン自身はスペイン王族の血を受け継ぐ父と同じ、褐色の髪と瞳。しかしルシアンは、スペインの血を誇る父親の豪胆さやある種の放埓さは持ち合わせていない。兄弟はどちらも、父の望むような息子ではなかった。そのことで父がいくらか失望していることをルシアンは知っていた。ルシアンは優しすぎ、アントワーヌは甘えん坊すぎた。

 屋敷に古くからいる女中頭のソフィーは「おふたりともおばあ様に似たんですよ」と言っていた。祖母はルシアンが小さい頃に亡くなっており、ルシアンも覚えてはいないが、愛情深い人だったとソフィーは言っている。「私たちにもお優しい方でしたよ」と常々言っていた。

 ルシアンはソフィーが使用人だからといって、命令しようとも、バカにしようとも思わないが、そうした性質は珍しいのだとソフィーは言う。父は使用人には厳然と命令を下し、距離をおいて接しており、自分と同じような振る舞いをしないルシアンに苛立つことが度々あった。


 この頃、スペイン王家とフランス王家は血が近かった。スペイン王家は、そもそも政略結婚により領土を広げた国だったが、他国へも政略結婚を通じて支配権を手に入れようとしていた。フランスとスペインは、一方では政略結婚を通じて緊密な親戚の関係、一方では領土支配をめぐって争う関係だった。フランスとスペインに挟まれる形のイタリアは、左右から領土を奪われる形で勢力を失っていた。


 近親結婚は、病弱な体と薄弱な精神、短命な跡継ぎをつくる。ルシアンのスペイン側の祖先の家は、跡継ぎが途絶えていた。ルシアンかアントワーヌを跡継ぎに、という話が出ているのは知っていた。父からはまだ何も聞いていないが、ルシアンは、きっと義母の差し金で自分が行くことになるだろう、と予想していた。それに自分の容姿のほうが金髪のアントワーヌよりスペインになじむ。父の方針で、兄弟はどちらもスペイン語を習っており、ルシアンもスペイン語の会話には困らなかった。

 だが、自分がいなくなったら、自分以外の誰にもなついていない弟は淋しがるだろう。あまり優しくはない家族の中で成長していかなくてはいけない弟を思うと胸が痛んだ。


 その日は、スペインから客が来ると父に聞いていた。きっと、跡継ぎの話なのだろうとルシアンは察した。その客人が到着したら、自分の運命も変わっていくに違いない。


 ルシアンは二階にある自分の部屋で、客人の到着を待っていた。アントワーヌも一緒にいる。馬のいななく声、バタバタと人々が走り回る音がして、客人が到着したことを告げていた。

 ルシアンは二階から屋敷の入り口前の庭を見下ろしていた。


 その人は、馬から軽い身のこなしで飛び降りた。今まで走ってきた馬の労をねぎらうかのように、馬の首を優しくなでて、何事かささやいている。馬は息を荒く弾ませながらも、うれしそうに鼻を摺り寄せた。

 父に似た広い背中とがっしりした肩。スペイン人が被っている斜めのツバの広い帽子の下に見える濃い髪の色。黒を基調にしたマント。


 ルシアンはくるりと振り向いたその人の瞳を見た瞬間にぎょっとした。

 鋭くこちらを見つめている双眸、輝く黒い瞳はまぎれもなく、あの・・・


「ロウさん!」

 叫んだ瞬間、涼はもとの世界に戻っていた。


 涼はがばっと上半身を起こした。

 ここは・・・いや、ここが本来の世界だ。エリクサだ。

 伊那とロウと一緒にいて、伊那から前世の話を聞いて、それから・・・。


「気がついた?」

 伊那が呼びかけた。涼は伊那のほうを振り向いて、まじまじと伊那の顔を見た。

 そうだ、ロウは用があるといって外出したではないか。

 この人だ。きっと、この人がなにか・・・。

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