第2話 涼 23歳 俳優を目指す日々

 涼がはじめてペンション・エリクサの噂を聞いたのは、同じように俳優を志していた仲間からだった。俳優を志す若者は無数にいる。そのなかから、本物の俳優になれるのはほんのひとにぎり。そのひとにぎりになるために必要なものは、容姿でもなく、実力でもなく、「運」でしかない、ということにほとんどの仲間が気づいていた。

 抜群の容姿と実力を持っていても、まったく日の目を見ずに業界から去っていく仲間も多い。かと思えば、容姿も実力もそれほどでもないのに、ずっとこの業界で仕事があり、引き立ててくれる人とファンをつかむ仲間もいる。

 「運」をどうやって掴むのか、それはファッションや髪形、演技や歌を磨くことと同様に仲間内では熱く語られていた。霊能者と言われる人のもとに足しげく通う者もいた。各地の神社や寺に熱心に参拝する者もいた。風水であったり、吉方位であったり、改名であったり、誰もが「運」を掴むために何かをしていたといえる。

 そうした「運」を掴む話の中に、ペンション・エリクサの話が出てきた。だが、その情報をもたらした仲間もペンション・エリクサを訪問したわけではなく、知人からのまた聞きであった。

 客を選ぶ女主人の話や、森番の老人の話は興味深かったが、問題点があった。ペンション・エリクサは長野の森の奥にあり、一番近くの駅からも遠く離れている。バスも滅多に来ないそうだ。運よくバスに乗っても、バス停からさらに登山が待っている。つまり、公共交通機関で行くには、まるで陸の孤島のように遠い。車で行くとしても、まだ売れていない俳優仲間たちは、誰も車を持っていない。レンタカーで行くとしても、そもそも車の運転自体できない者も多く、免許を持っていてもペーパードライバーだ。それになにより、誰もがレッスンのかたわら生活費を稼ぐためのアルバイトに忙しかった。そんなわけで、ペンション・エリクサの話はおとぎ話のように語られ、すぐに仲間内からは忘れ去られてしまった。

 だが、涼の胸の中には、まだ見たこともない女主人と森小屋の老人の面影が焼き付いてしまい、仲間に聞いてエリクサの電話番号と住所だけはメモしておいた。それでも、涼もわざわざエリクサまで行くには遠すぎると思っていたし、何事もなければ、いつしかそんなペンションのことなど、忘れてしまっていただろう。


 涼はほとんどの俳優志望の若者がそうであるように、お酒も飲めるちょっとしゃれた飲食店でアルバイトをしていた。その店では、涼が俳優志望であることはみんな知っており、涼目当てのファンのような女性客も来るようになっていた。その中に、ちょっと目立つ勝気そうな顔をした美人の女の子がいた。自分は美人で男受けがいいことをよくわかっていて、男の気を引くように振る舞うタイプの女の子で、名前をカナと言った。

 涼以外の従業員の男性にも親しげに話しかけたり、笑顔を見せたりしていたが、目当ては涼の私生活を聞き出すことだ。涼はカナを美人だとは思ったが、目が大きいのにやたら睫毛をバサバサさせたり、くるくる巻いた髪を指でもてあそぶしぐさがわざとらしいと感じていた。しかし、ここの飲食店の店長はどうやらカナを気に入っているようだった。店長は三十代で東京の繁華街に店を出すというやり手だが、女性の好みはわかりやすく単純だといえる。涼は、このふたりがつきあえばいいのに、と感じてはいたが、距離をおいてどちらにもあたらずさわらず接するようにしていた。


 その頃、涼はレ・ミゼラブルのオーディションの最終選考に残っていた。何度も再上演されている人気のある舞台で、涼が応募した役どころは、舞台後半で登場する主人公の娘の恋人役、マリウスだ。この役に応募するようすすめたのは事務所だったが、自分のキャラクターにあっているとは思った。主人公の娘、コゼットと恋に落ちるシーンにいくつも見せ場があり、この役をきっかけにブレイクした俳優も多い。それにマリウス役の歌は、自分の得意なキーとメロディで、歌いやすく感情移入しやすかった。

 涼は、マリウスを演じている自分をリアルに想像することができた。最終選考は劇中でのマリウスの歌と演技だった。最終オーディションの歌も演技も過去最高の出来だった。審査員にも自分の熱量が映ったかのように、オーディションとは思えない本気の拍手を送られていることがわかった。涼は、いける、と感じていた。


 涼は高揚した気分のままでオーディション結果を待っていたが、届いた結果は不合格だった。そんなはずはないと思ったあとで、もうすっかり合格した気分になっていた自分の思い上がりに自嘲した。

 これでは、自分は才能があると勘違いしているただの大馬鹿野郎だ。

  根拠もないのに勝手に合格した気分になっていたのかと思うと、そもそも俳優を志した自分自身が間違っていたような気がしてきた。この舞台への期待が大きかっただけに反動も大きく、涼は珍しく荒んだ気持ちになっていた。

 アルバイトなどする気分ではなかったが、こんな理由で休むのもおかしいと思い直し、涼はいつものように夕方からアルバイトに出かけた。


 その夜は、週末でもないのにひどく混みあっていた。カナは平凡な感じのする友人と一緒に店にきていたが、涼はいつものようににこやかにできず、カナがやや不機嫌になっていることがわかった。だからといって、とってつけたような笑顔を作ることもできなかった。店はあまりの混雑に注文が錯綜し、間違った注文が届けられたり、いつまでも注文が届かなかったりした。客たちが苛立ち、文句を言うことも多く、従業員も苛立っていた。

 そんな中、料理を下げる皿を持った涼は、狭い通路で厨房に指示を飛ばしながら前を見ず歩いてきた店長とまともにぶつかってしまった。皿の中から残った料理が飛び散り、客と店長に少しずつかかった。「すみません!」涼は慌てて大きな声で謝ったが、客ではなくて店長のほうが激昂した。「お前!何をする!」店長は叫び、涼を睨みつけながら、「お客様の服を汚すなんて、店員失格だ」と続けて涼に罵声を浴びせてきた。他の従業員が飛んできて、割れた皿を片付けたり、客に謝ったり、場を収めようとしたが、店長の怒りは収まらなかった。

 ひたすら下手に出て謝り続けた涼だったが、店長がカナを意識していることに気づいていた。カナもよく光る大きな目でこちらに注目していた。店長は涼より自分のほうが立場は上で、自分が店長だということを誇示するためにこの状況を利用していた。そんなことはよくあることだ。いつもなら、ただ黙ってやりすごしているのだが、なぜかそのときは我慢がきかなかった。

 涼の中でなにかがプチン、とはじけ、とつぜんすっと頭を上げて店長を見た。

 「僕は謝っています。」涼は発声練習で鍛えたよくとおる声で静かに言った。

 店の中は一瞬にして静まり返り、みんなが息を呑み、店長も一瞬、虚をつかれたように無口になった。だが、店長はすぐに「謝ったらそれですむと思っているのか!」とさらに畳みかけてきた。涼は静かに店長を見ていた。客には申し訳ないと思うが、店長に申し訳ないと思う気持ちはなかった。店長はいつも、上から他人を見下す態度を取る。どうしてぺこぺこと卑屈に謝る必要があるんだろうか。そんな風に静かに考えていた。

 ひっこみがつかなくなった店長はさらに怒鳴り続け、ついに「態度が悪い、お前のようなやつはクビだ!」と口にした。涼は黙って頭を下げ、客にもう一度すみませんでした、と言い、そのままロッカーに直行した。素早く着替えると、硬直した空気のままの店内を突っ切って、まっすぐ出口から出て行った。

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