流星の庵 Ryusei no iori ~星の歌を継ぐ者~
Naomippon
第1話 序章 ペンション・エリクサ
幾千、幾万の星々の輝きが、白鳥が羽を広げたかのように夜空を覆っている。
この土地では星の輝きが近かった。
ここに住む人々は満点の星空を見上げ、星のかなた、宇宙のかなた、時のかなたに想いを向ける。星が近いこの土地からは、宇宙飛行士も輩出している。
星の光がうっすらと映える山々の稜線から少し下ったところにペンション・エリクサがあった。
このペンションは宣伝を行っておらず、口コミだけで集客している。口コミだけで集客できるのならば、「料理がおいしい」とか「景色が最高」とかいう口コミが普通だろうが、このペンションの口コミはかなり風変りだった。「呼ばれていない者はたどり着けない」という口コミだ。
「呼ばれていない」というのは、具体的にはエリクサの女主人に呼ばれていないとたどり着けない、という意味らしい。女主人は自らの霊感で客を選別するという噂だった。「客を選ぶ」という口コミは、客足を遠ざけそうだが、その噂がかえって、エリクサに宿泊してみたい、という好奇心を煽っていた。
エリクサには他にもたくさんの噂があったが、もっとも人々の好奇心を煽ったのは、運が好転する、という摩訶不思議だ。ただし、それはエリクサに泊まっただけでは好転しないらしい。エリクサは森の中にあるのだが、裏手の森をさらに奥深く入ると小さな森小屋があり、そこにはまるで森番のような大柄な体躯の白髪の老人が住んでいる。見事な白髪なので老境にあるのは間違いないが、眼光は鋭く、肌は血色よく輝いていて、体は大きく屈強である。出会った人の話では、森の山道を歩くスピードは、昨今の軟弱な若者よりよっぽど速く、息切れしているところなど見たことないそうだ。
この老人は、ときどきペンションにふらりと現れる。誰とも話さずに黙って帰っていくこともあるが、ときおり宿泊者の話に耳を傾け、ふと気がむいたときには、白髪に似合わぬ、空間をよく通るハリのあるのびやかな声で語り掛ける。その語りの内容にはたくさんの真理があるが、アドバイスはたいてい突拍子もなく、受け取った側が目を白黒させることがあるらしい。それでも、意を決してそのアドバイスに素直に従えば運が開けていく、と噂されていた。
この老人はエリクサの女主人と懇意な仲のようだが、家族や親族ではなく、どういう縁なのか知る人はいない。昔の恋人ではないか、という邪推もあったが、本当のところを聞かされた人はいない。エリクサの運営上、男性が必要なときにはこの老人がサポートしているようだった。
もしもこの老人に会えなくても、エリクサの女主人にも不思議な力があった。人の心を見透かすような、不思議な目をした女主人には霊感があった。ペンションの経営にたどり着くまでには、都会で占いのような仕事をしていたらしい。そのときの客層がそのままエリクサに引き継がれていたが、この女主人の顧客には政財界の男性が多く、たいていは車を自ら運転してひとりでペンションにやってきて、女主人と何事かを話し込んでまた帰っていく、というのが常だった。そういった客のための特別室がある変わった作りのペンションだった。近くに観光施設もない場所なので、観光目的の客はいなかったが、ペンションの噂を聞きつけた若い大学生が泊まっていくこともあった。つまり、若い大学生が政財界の大物と狭いペンションで同じ夜を過ごすこともあったわけで、そこで現実的な新しい縁が生まれることもある。そういう意味での「運が好転する」ということも起こっていた。
ペンションの外観は木造りらしく落ち着いた茶色で、窓枠や壁の一部は白、それに冬季になると使用される暖炉の煙突が空に伸びていた。庭は天気のいい日には外で食事ができるように、木造りのテーブルと椅子が並べてある。玄関のそばには大きなオリーブの木が植わっており、春には白い花が咲き、秋には緑の実をつける。女主人はオリーブの実を塩漬けやオイル漬けにして保存し、料理に使用していた。裏庭には、ハーブが多く栽培されている。セージ、パセリ、ミント、ローズマリー、バジル、レモングラス・・・女主人は料理に多彩なハーブを盛り込んでいた。ハーブティーの配合も得意だった。
ペンションは二階建てで、一階には広いリビングダイニングと厨房、その奥に女主人の部屋があり、なんとか二人泊まれる小さめの部屋が二つある。二階には天窓がついた部屋と、贅沢なつくりの特別室があり、そのほかに普通の部屋が二つあった。つまり客室は6つ、ペンションとしては小さ目の規模である。贅沢に作られた特別室は、料金は公には表示されていなかった。天窓のついた部屋は、特別室より小さかったが、こちらの料金も表示されていなかった。なぜなら、この部屋は個人の所有だったからだ。
この天窓のついた部屋は、名の知れたある俳優が生涯契約している。女主人の顧客には芸能関係の人間も混じっていたが、この俳優はまだ売れていない若い頃にこのペンションに泊まり、くだんの森番の老人から助言を受けたそうだ。その助言に、この天窓の部屋についての話が含まれていたかどうかはわからない。だが、この俳優はこの部屋をいたく気に入って、それほど売れていないにも関わらずこの部屋を生涯契約してしまった。だが契約後、この俳優は売れっ子俳優となり、いまや生涯契約しているにもかかわらず、ほとんどこのペンションを訪れることはない。たまにこの俳優が訪れるときには女主人が同宿者を選別しており、この部屋の契約者が俳優であることを知る者はほとんどいなかった。
ペンションの玄関を入ってすぐの左手の壁には、聖母子のように見える大きな絵がかけてある。ルネサンス時代の聖母子の作品のように、目を閉じてうっとりと赤子を抱いている母親と、母親を無垢な瞳で見つめている赤子の絵なのだが、母子ともに肌も髪も服も青一色の濃淡で塗られており、聖母子の絵のようにも見え、宇宙人のようにも見える不思議な絵だった。
一階にあるリビングダイニングには黒いアップライトピアノがあり、ピアノのそばには竪琴がたてかけてある。だが、この竪琴を弾くのは女主人ではなく森番の老人だった。小さな竪琴は、老人の大柄な体で抱えられるとさらに小さく見えたが、それでも老人の奏でる音色は繊細で優しく、静かなペンションの空間に溶けるように広がっていくのだった。老人が竪琴をどこで習得したのかはわからない。しかし、その音色には人の心を寛げさせる力があった。
ペンションのディナーはイタリア料理であったり、フランス料理であったり、ヨーロッパ風のことが多かった。朝食も基本的には洋風であり、女主人が和食を出すことはない。ペンションで出されるお茶は基本的にはハーブティーで、お酒はワインしかおいていなかった。女主人はお酒を飲まず、ペンションの宿泊者にもお酒は勧めない。どうしてもお酒を欲する人には、好みにあわせて白ワインか赤ワインが振る舞われた。
ディナーが終われば、宿泊客はハーブティーを飲みながらリビングで女主人といろいろな話を語り合う。森番の老人はこのペンションの特別オプションのようなもので、基本的には宿泊客は女主人と語り合ってアドバイスをもらうか、あるいは日常の喧騒を離れた静かな空間で自分自身を取り戻すという目的のためにこのペンションにやってくるのだった。
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