第3話 涼 23歳 ペンション・エリクサ目指して
狭い1DKの部屋に戻ってから、『なんであんなことくらい我慢できなかったんだろう』と涼は落ち込んだ。
黙っていても目立ってしまい、女性に人気があった涼にとって、理不尽な言いがかりはよくあることだった。いつもならやり過ごしてきたし、理不尽に耐える忍耐力もあると思っていた。なのに、真正面から反論し、店長に恥をかかせたような形になってしまった。あの店長のようなタイプは戻って謝っても許すことはない。それになにより、バイト先を失ってしまった。あの店はかなり時給がよかったのだ。新しいアルバイト先を探さなくてはいけないし、下手したら、あの店長は今までのバイト代を払わないかもしれない。
運が悪いな、と涼は思った。でもこの事態を引き起こしたのは、我慢できなかった自分だ、そう思って涼はため息をついた。
今日、疲れが溜まっていなかったら、今日、不合格通知が来ていなければ、今日、カナが店に来ていなければ、もし少し自分がまわりに気を付けていれば、こんなことにはならなかった。いろんな偶然が重なって、こういう運の悪い事態を引き起こした。
運か、と運について思いを巡らせていると、ふと心にペンション・エリクサのことが蘇った。改めて「運が好転する」という噂を思い出した。
涼の知り合いで、ペンション・エリクサを訪れたものはいない。たかがペンションを訪れただけで運が好転する、などというのはおかしな話だが、なにか実例があったのかもしれない。
行ってみようか。運が好転しないとしても、別に困ることはない。夢は叶わない、仕事はない、貯金もない、恋人もいない、失うものとてない。
涼はエリクサの電話番号をメモした紙を探すと、ちゃんと財布の中にしまってあった。そんなあてもない噂の根拠を探して、はるばる出かけていくのも面白いような気がした。
それに、エリクサは深い森の中にある。東京生まれではない涼は、ときどき無性に自然に触れたいと感じることがあった。長野の深い森の奥を訪れて、緑の中でゆっくりと呼吸がしたいと感じた。たとえ森小屋の老人に会えないとしても、噂に出てきた女主人には会えるだろう。客を選ぶという噂だが、自分がたどり着けるのかどうか、試してみるのもいいのではないか。どうせ明日からのバイトもないし、明日はレッスンも休みの日だ。明後日のレッスンは、一日くらい休んでもいいだろう。
そう思い立つと、いてもたってもいられなくなった。涼は所持金を数えてみた。もし店長がバイト代を払ってくれなくても、ペンション・エリクサの宿泊費と交通費を払い、なんとか今月の家賃を払う金額は残りそうだ。
時計を確認するともうかなり遅い時間だったので、今から電話をかけることは断念した。明日の朝かけてみよう、と涼は思った。もしダメだったら、長野のどこか、自然豊かな森の奥に泊まろう。人のいない静かな場所で自然に触れよう。そう決めてしまうと少し落ち着いてきて、まだ気持ちのもやもやは続いていたが、眠ることはできた。
翌日、涼は早く目が覚めた。いい天気だった。身支度を整えると、エリクサに電話をかける前に家を出て、長野に向かって移動を始めた。エリクサに到着するまではかなり時間がかかるし、常識的に電話をかけていい時間まで待つと到着できない時間になる。涼は10時を過ぎてからようやくエリクサに電話をかけた。チェックアウトまでの時間、宿はバタバタしているかもしれないと思ったのだ。
「はい、ペンション・エリクサでございます」
落ち着いた女性の声がした。
「あの、すみません、僕は高瀬涼といいます。知り合いからそちらのペンションの話を聞いて、突然で申し訳ないんですが、今日泊めていただけないかと思って、あの、」
「はい、いいですよ、どうぞいらしてください」
女性はあれこれと言葉を探す涼を遮って、あっさりとそう答えた。
「えっ?いいんですか?」
涼の声はワントーン高くなった。
「はい、どうぞ。今日の夜の宿泊ですね?二時から五時の間に到着できますか?」
「はい、できます!よろしくお願いします!」
涼は勢い込んでそういった。
「ではお待ちしております」
そう言ったかと思うと、もう電話は切られていた。
涼は、名前以外に何も伝えていないことに気づいた。電話番号も住所も、紹介者すら言っていない。しかしもう一度電話をかけるのはためらわれた。お待ちしております、と言われたのだから、行ってもいいのだろう。行くと決めたのだから、行こう。
涼は、『もしかしたら自分はツイてるかもしれない』と思ったが、『いや、もしかしたら噂のように到着できなかったりするかも』とエリクサの噂を思いだした。
あの噂、どういう噂だったか。たしか、エリクサを目指して行ったのに、到着できなかった話ではなかったか。あの女主人は、誰にでも「どうぞ」と言うが、到着できる客と到着できない客を選ぶのではないか。そう考えて、涼は、それでは魔女ではないか、と自分の発想に苦笑した。魔女の声には聞こえなかったが、本物の魔女は、まったく魔女とは思えないのかもしれない。
そんな風に考えを巡らせながらも、着実にエリクサは近づいてきていた。都会の喧騒からどんどん遠ざかり、車窓から見える風景は人も家もまばらになってきた。目に映るのはただ山や川、木々ばかり。
深い緑色の木々を見つめていると、だんだん心が落ち着いてくる。昨晩のトラブルが幻のようだ。バカなことをしたな、と思い返しながら、自分もいつのまにか都会のスピードにのまれ、殺伐としていたことに気づく。駅に止まるたびに、開かれたドアから吹き抜けていく風も心地よく、涼は自然と深い呼吸になった。電車の音を聞きながら、電車の揺れに身をまかせ、車窓を眺めながらあれこれ考えを巡らせていると、少しずつ安らいだ気持ちになってきた。
エリクサまでの道中には、なにもトラブルは起こらなかった。電車やバスの接続は悪かったが、チェックインの二時は無理でも三時までにはエリクサに到着できそうだった。電車に乗り合わせている人もまばらだった。最寄り駅から一緒にバスに乗ったのはほんの数人だけだった。その乗客も順番に降りていき、最後には涼ひとりきりとなり、ようやくエリクサの最寄り停留所に到着した。ここからは三十分以上の登山になる。
山を登り始めてすぐ、涼は「ペンション・エリクサ」の矢印つきの立て看板を発見した。なんだ簡単じゃないか、と拍子抜けし、エリクサの女主人のことを魔女かと考えたことを思い出しておかしな気分になった。そのまま道なりに登っていくと、うっそうと生い茂る樹木の影に二階建てのペンションの白い外壁が見えてきた。玄関の前の木をふと見上げるとオリーブが実っている。オリーブって、もっと暖かい土地の樹じゃないのかな、長野でも育つのか、と思いつつ玄関ポーチに向かい、呼び鈴を押した。
「はーい、お待ちください。」
電話で聞いたのと同じ、落ち着いた女性の声がして、人が近づいてくる足音がした。ペンションのドアが内側から開き、髪をひとつに束ね、飾り気のない素朴な青いワンピースを着た女性が軽い微笑みを浮かべて姿を現した。
「ようこそ、エリクサへ。高瀬さんですね」
「高瀬です、よろしくお願いします」
「どうぞ、中へお入りください」
「はい」
エリクサの女主人は、年齢は三十代半ばだろうか。噂に聞いたように、こちらを見透かすような不思議な目をしているが、柔和な笑顔を浮かべており、予想したより気さくな感じだった。涼は「客を選ぶ」という噂から、もっと冷たく高飛車な感じの女性を想像していたが、そういうタイプではないようだ。黒い髪はひとつに束ねられているが、髪飾りはつけておらずピンで上手にまとめているようだった。耳元に小さな揺れるイヤリングを身に着けており、ぱっと見には乳白色に見えるが、光の反射でブルーが浮かぶ不思議な石がぶらさがっていた。ネックレスや時計は身に着けていない。
玄関を入ると、左手の大きな絵が目にとまった。赤子を抱く母親の絵だ。古いヨーロッパの絵に似ているけれど、すべてが青く塗られているから、きっと最近の絵なのだろうなと涼は思った。女主人は、廊下を通って左側の大きなリビングダイニングに涼を案内した。大きくとられた窓から太陽が燦燦と差し込んでおり、いろいろなユニークな形をした木の机に、色とりどりのソファーがカラフルに並べられている。まるで南欧のような明るいイメージだ。それぞれの机の上にはハーブとおぼしき葉が飾られている。ダイニングの端には黒いアップライトピアノがある。
「どこでも好きなところに座ってくださいな。荷物は空いているソファーにおいてもらったらいいです。いま、お茶をお入れします。何にされますか?コーヒーはお好き?ここのおススメは新鮮なハーブティーです」
「あまりハーブティーはわからないんですが、おススメがあればそれをお願いします」
「かしこまりました。では、お茶をお入れしますから、台帳の記入をお願いします」
女主人は涼に宿泊台帳の用紙とペンを渡し、リビングの奥にある厨房に消えていった。宿泊台帳は和紙でできており、なにかわからないが、ハーブであろう葉っぱの透かし模様が入っている。ペンにも緑色の同じハーブの葉模様が入っており、女主人のこだわりがうかがえた。涼は名前、住所、生年月日を記入し、職業欄には少し迷ったがアルバイトと記入した。書き終えると涼はリビングを見渡し、黒いアップライトピアノのそばにたてかけてある竪琴に気が付いた。
神話や伝説、もしくは太古の時代を舞台とした映画には竪琴がしばしば登場する。そうした物語の中で、竪琴を持つ人間は傑出した音楽の才能を持ち、竪琴や自らの歌声で人を癒したり鼓舞したりして、物語の重要な役回りを演じる。涼にとっては、主役よりむしろ心惹かれる役回りだった。涼は初めて見る本物の竪琴に心惹かれ、音を鳴らしてみたいという衝動にかられながらじっと眺めていた。
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