第61話 トドメ
相摩県知事、上條虎郎は、12月の議会の終わりに人間ドックの予定を入れていた。12月は年末ということもあって忙しく、夜も忘年会という名の仕事が続く。そのせいで休肝日もろくにとれはしない。だがらこその人間ドックの予定である。これなら、忘年会に出ても飲まなくて済むからだ。
それでも当然のように仕事は追いかけて来るが、2日はアルコールを絶てるというのは大きい。
「次は胃カメラですね」
女医に声を掛けられて、上條は立ち上がった。バリウムを飲んでレントゲンを撮っても、要再検となれば結局カメラは飲むのである。ならば、最初から胃カメラを選択した方が2度手間にならない。
今年の後半は腹立たしいことが多かった。
歴史に残る『実績』として、近隣他県にはもう残っていない別学を廃止しようと考えていた。だが、敷間市、政木市の4校の進学校は別学のままで、廃止のマスコミ向けの花火を打ち上げることすらままならない。
いつの間にか、世間の空気感が変わっていたのだ。
ジェンダー論自体は自らの追い風になると上條は考えてきたし、それは今も変わっていない。だから、今のこのブームというような流れがいつまでも続くとは思っていない。男子高の文化祭が全国で話題になったとはいえ、所詮、世界的な流れは止めようもないさざ波に過ぎないのだ。
まぁ、いい。
半年も経たずに世の中の流れは再び元に戻る。焦る必要はない。1年待てばよいだけだ。その頃には、企業誘致も契約書という形で担保が取られていて事態は動かしようがなくなっている。
今年なんとかしようと思ったのは誤りだった。だが、それはそれでいい。花火が上げる前に、県内の空気感が変わった一部始終を観察できた。もう2度と同じことはさせない。
「カメラの前に、鼻に局所麻酔を掛けますからね」
「はい」
どこか子熊を思わせる容姿のむくむくとした女医の言葉に、上條は素直に返事をした。病院でのVIP扱いに上條は満足していたし、そのために女医が付ききりでケアを担当してくれているのだから、医師に重ねて権力をひけらかすつもりも毛頭ない。
そもそも次の選挙を考えるならば、医師というのは案外票を持っているものなのだから、温和な人間と見られるのは悪いことではないのだ。
鼻からチューブが通り、上條は違和感に耐えた。初めての経験ではない。辛くてもそれは一時のことだ。
上目遣いでカメラからのモニターを眺める。自分の胃の中を見るのもおかしなものだが、それはそれで辛さを紛らわせる時間つぶしのうちだ。
「上條さん。相当にストレスが溜まっていたみたいですね。これ」
そう言われてモニターを眺めると、胃壁に赤いしみがある。「仕事柄、仕方ない」と言い返したいし、鼻からの胃カメラは話せると聞いているが、今はとても声を上げる気分ではない。
「この胃壁、来年はもっと酷いことになりそうですね」
「なぜだ?」
上條は視線だけでそう問う。
「私もOGでしてね。上條さんは給料いただいている組織のトップですから、内部情報をお伝えしますが、来年は4校とそのOB、OGも本気になるそうですよ」
「本気とは?」
上條は視線だけで再びそう問う。
この体勢では、他に選択肢がない。この女医がどういうつもりで話しているにせよ、話しを聞くだけなら問題はないだろうし、その後の対応もまたこちらの胸先三寸である。
「党推薦の……」
上條はすかさず右手を上げる。
「見返りは?」
鼻からの胃カメラの最中は話すことができるとは聞いていたが、本当に話すことができるようだった。
上條は女医に最後まで言わさせず、取引のバランスシートを問うた。
「逆ですね。5党推薦で当確を」
「それだけか?」
「欲をかいて良いことは1つもないでしょう。Tのことも掴んでいるようですし」
さすがに上條は、背中に氷を押し当てられたような気になった。なぜそれがバレているのかがわからない。だが、胃カメラが入っているこの状況では、女医の言うことを大人しく聞くしかない。
いつものように机を叩いて部下を平身低頭させるという行為が、いかに状況に恵まれていなければできないことかと、上條は思い知る。
「……脅すのか?
これはテロだぞ」
「私は上條さんのために母校の内部情報をリークしているだけで、議論する立場にありません」
さすがにそう言われれば、上條も話せることがない。逃げを打たれた気はするが、追い詰めることもできはしないし、この女医が善意であるならわざわざ敵に追いやる必要もない。
「ただ、ジェンダー偏見者の烙印を恐れて誰もがまともな議論できない中、議論を試みるだけで無傷では済まない。100人いれば100通りの正答がある中で、政治家の立場ではなにを言っても叩かれる。このような火中の栗を拾うのは、恐ろしいまでのストレスをこの胃壁に与えるでしょうね。ご同情申し上げます。
あ、これは医師としての一般論です」
「……」
「はい、カメラ抜きます」
女医の声とともに自分の体からずるずると引き抜かれたカメラの長さに、上條は得体のしれない恐怖を覚えていた。
※
政木女子高が最後に
理屈でないところに、だ。
自分の周りには、たくさんの人間がいる。そして、それぞれの思惑と働きかけは無視できない。そしてそれは、自分が対応できない場面でも襲ってくるのだ……。
それを上條は否応なく認識させられていた。
政木高では、生徒会選挙の真っ最中である。
さすがの杉山も、そろそろ自分の受験勉強の方を優先しなければならない時期だ。
そんな中、敷間高の新聞部の新聞が送られてきた。政木高の学内掲示板にそれが張り出される。
青藍祭の特集で、見出しはなかなかにセンセーショナルである。
「フォークダンスの輪から逃げ出す女子高生たち」
「歴史同好会の作った石鏃、段ボールにすら刺さらず」
「将棋同好会、我が校の道場破りに敗北を喫す」
文字どおりのあげつらいである。
だが、そこに唯一の肯定的記事があった。
もちろん、小桜と今田の断崖宙乱闘である。そこだけは揶揄がなく、敷間高の勝利すら主張していない。
そこでは、80年前からの両校のいきさつが語られ、さらには次の20年、100年の戦いに向けた新たな意志が語られていた。
そしてもう1つ。
敷間高、敷間女子高、政木高、政木女子高の4校合同の特集記事があった。
「今の時代に男子高、女子高の存在意義について考える」
そこには、生徒からの視点、教職員からの視点、行政からの予算を含めた視点、生物学的視点に社会学的視点に加え、宗教的また歴史的経緯から他国の現況を踏まえた未来への視点が書かれていた。
その量は膨大なもので、参考文献まで記されている。
男女の関係についても、統計学的な観点から極端な事例に流されることなく、判断を求める姿勢が取れらている。つまり、ハーレムという事例が観察されたからと、一夫多妻がデフォルトと考えるのは早計ということだ。
そして、その記事は、こう結ばれていた。
「どこまでも考え続けよう」
と。
※
神の如くのすべてを超越する論理なんか存在しない。するわけもない。男女関係の「恋」という一側面ですら、人類は未だ理解し得ていないのだ。ただ、それぞれの経験則を元に語るのみである。
次話、「小桜と恵茉」。こちらも切りはつけねば、な。
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