第43話 皇帝
翌朝。
学校に着いた小桜は、自転車を停めて校舎に向かって歩き出す。
下駄箱エリアは、外階段の下なのだが、その階段の脇の棕櫚の木に、生物教師の皇帝が手を触れているのが目に入った。
「おはようございます。定期戦のときはありがとうございました。あのあと、ラグビー部の山内ですが、救護室で見てもらって問題ありませんでした」
そう小桜が声をかけると、皇帝はゆっくりと小桜の方を向いた。
「君の名は?」
「1年5組、小桜です」
「ああ、頑張っているらしいな」
「は?」
「3年の杉山が気にしていた」
生徒会長が?
小桜は驚く。
「興味本位みたいで済まないが、僕も杉山に言われてから関心を持ってね」
「俺……、私にですか?」
「学年最下位を取った生徒の進路ってのは、両極端なんだよ。この学校に来る生徒は、生まれついて頭が悪いということはない。だから、心理的要素がヒトという種に及ぼす影響を観察するには極めて良い対象ということになる。そして、この観察結果は、他の生徒の指導へフィードバックできるだろう」
その言葉に、小桜は思う。やはり発想や姿勢が、教師というより学者のそれなのだ。
それに、60歳近い相手の一人称が「僕」ということにも、小桜は圧倒されていた。小桜と正面から向き合って話す語調に、見下したという雰囲気はまったくない。むしろ、1人の学徒としてへりくだる意味合いで使っていると感じさせられた。皇帝が学生時代を過ごした40年前の雰囲気が、そのまま変わらずにここにあるのだ。
そして、学者が教師をしていると考えれば、皇帝の言いたいこともわかる。
最下位から300位順位を上げた生徒が存在したというのは、そしてそこから得られた考察は、あとに続く学年の最下位やその周辺の生徒にとってどれほどの救いとなるだろうか。
「昼休みにでも、生物学準備室に来なさい」
淡々とそう言われて、小桜は「はい」と返事をする。語調からして命令ではない。お誘いなのだ。
大先輩で先生で、山内の件では恩人ですらある。そして、この学校の皇帝と呼ばれる存在からのお誘いを断ることなど、考えることもできなかった。
※
皇帝が生物の授業を受け持つ学年から、小桜は外れている。本来なら話すこともなかった。だが、皇帝は生徒の誰に対しても同じ扱いをするし、縁は生徒会長の杉山を通じて繋がってしまっていたのだ。
もちろん、これは小桜にとって得難いものとなる……。
「失礼します」
早食いで昼食をやっつけた小桜は、生物学準備室のドアをノックして開けた。
皇帝は、袋に入った釘を机にしまっているところだった。
あまりの違和感に、小桜は我慢できずに聞く。
「どこか、修理でもされたんですか?」
と。
「どうも、学生玄関前の階段下の土は鉄分が足らないようだ。あそこに植えられた植物は、決まって鉄欠乏症を示す。たぶん、階段の補修工事跡のコンクリートからアルカリ成分が溶けだして、土壌のpHが上がっているのだろう」
「……はぁ」
小桜は反応に困りながら曖昧に頷く。皇帝の言っていることが完全には理解できていないのだ。
「そこに座りなさい。ああ、そこだ。
実は、あそこの棕櫚の木に、鉄釘を1本打ち込んできた。これで鉄欠乏症の症状は消えるだろう。堆肥を入れられればいいのだが、買う予算はないということだし、僕も堆肥を作るほどの時間はないからな」
「なるほど」
ようやく小桜は納得する。
「だが小桜、これについては誰にも言うな」
「なぜですか?」
「先代の棕櫚の木は、うっかり僕が授業中にこの話をしてしまったがゆえに枯れた。生徒たちが競って、我も我もと釘を打ちこんだからだ。あの木には可哀想なことをした」
あまりにこの高校らしい話といえば「らしい」。
小桜は、生きている木なのに釘バットのようになったその姿を想像して、げんなりした気持ちになった。
そして、先代の棕櫚の木に対して、「可哀想なことをした」とは……。
「まぁ、再来年で僕も定年だ。弱っている何本かの木は枯れるだろうが、仕方ない」
そうか。
校内は、伝統校の名に恥じぬだけの鬱蒼たる大木も多い。皇帝は、目立たぬところで、それらの木々の面倒を見てきたのだろう。生徒は3年で入れ替わってしまうし、職員も皆忙しい。継続的にそういう管理ができる人間は、皇帝しかいなかったのだ。
「再来年で定年ですか……。どこかの別の高校で教頭先生とか校長先生になって、有終の美を飾るってこともあるのでは……」
小桜のためらいがちな言葉に、皇帝は高らかに笑った。
その笑い声に、小桜は、前に父親からY0u Tubeで聞かされた古い歌手の声を思い出した。スポーツ選手以外では初めて、生きいてる間に国民栄誉賞を受賞した男性歌手だ。
見た目は老年でも、高らかで若々しい声。小桜が聞く世代の歌手で、そのような歌い方をする人は誰もいない。
「雑事に追われたくはないな。それより君が卒業するまでの間、よろしく頼むよ。だが定年後、地元の予備校から講師に来てくれと今から言われている。4年の付き合いにはしたくないな」
「……私もです」
小桜もそう答える。
「さて、小桜。話を聞かせてくれ。君のモチベーションはなんだった?」
「……そうですね。今から考えると、自分を失いたくないという、その一心でした」
「自分の誇りということかな?」
皇帝の問いに、小桜はしばらく考えた。
「いいえ。もっと根源的なものです。私は小学校中学校と、成績は良かった。クラスで1位か2位が当たり前で、だからクラスの中で立ち位置を持つことができてきました。小学生なんて、足が速い者から立ち位置を得ます。そういう意味では、私はいじめの対象になってもおかしくなかった。
中学に入っても、クラスにいたヤンキーも私には丁寧でした。これは成績が良かったからです。
でも、この学校に来て、私はその立ち位置を失う危機に面しました。でも、それだけは避けたかったんです。逃げるのも嫌だったし、新しい立ち位置を見つけるのも大変そうで、ならそこで踏みとどまる方がまだいい、と」
「なるほど。実に興味深い。考えさせられるね」
皇帝の嘆息に、小桜は聞き返す。
「他の人はどんな理由でしたか?」
「半々だな。やはり自分のレゾンデートルに踏み込んで考えた者は強い。だが、そこで考えずに諦めてしまう者も一定数いる。その違いの事情は個人により複雑で、まだ僕にはなんらかのものを演繹できていない。これを聞くのは君で100人目だが、やはり遺伝子によるものなのかもしれないな。Novelty Seeking、新奇探索傾向だ。だが、単純にこれで片付けると、次の学年へフィードバックできない」
「……そうですか」
小桜はそう答えるしかなかった。理解できる範囲を超えたのである。
※
皇帝自身、新奇探索傾向があまりに高い。
校内の花壇に植わっているバラは、皇帝の育成した、皇帝の名の付いた品種であるほどだ。知らず知らずに、みんな皇帝の生み出したものに囲まれて学校生活を送っている。
次話、「種と性」。小桜、知るということは楽しいな。
あとがき
これ、フィクションだからねっw
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