第42話 それから
「176」
そう答えた小桜の耳は、恵茉が息を呑んだのを捉えていた。
「私、174。……初めて負けた、かな」
「……嘘」
「嘘ってなによ?」
そう聞き返されて、小桜は言葉に詰まる。
「だって俺、坂井さんに勝てたことない。だから、なんかの間違いだ」
「ナニゴトにも、初めてはあるでしょ?」
「えっ、いや、だって、あの坂井さんに?」
「……なにを言っているんだか」
そう軽く笑う恵茉に、小桜は呆然とつぶやいた。
「俺の人生で、こんな日が来るだなんて……」
「……一体全体、私は小桜さんのなんなのよ?」
そう問われて、小桜は初めて自分でも意識していなかった心の深層に気がついた。
「絶対の女神様」
「なんなん、それ?
ちょっと引く」
「いや、俺にもわかんない。だけど、心のどこかで、世の中の真理みたいな思い込みしていたのに気がついた。俺が点数で勝る日は来ないって」
「なんなん、それ?」
恵茉は同じ言葉を繰り返す。
「……なんか言い尽くせないけど。俺、やっぱり負けたくないとは思っていたんだと思う。で、理科社会はともかく、主要3教科では1度も坂井さんに勝てたことはない。どうやっても勝てないから、その理不尽さを坂井さんには勝てないという法則にして、合理化させて自分を納得させてたんだと思う。そうすれば、『悔しい』って感情から開放されるから。象と体重で張り合って、負けても悔しくないだろ? それと同じ。
でね、それなのに法則が法則でないって、『自分は象より体重があるかも』って、それはショックですよ」
「あっ。……そうか。そういうことだったんだ。なるほどなぁ……」
恵茉の大げさな納得に、小桜は逆に疑問を感じる。
「それ、なに?」
思わず訝しげな語調で小桜は聞いたが、電話越しでも恵茉がうんうんと頷いたのがわかった気がした。
「前から何度も言ったけど、小桜さんが妙に卑下していた理由はそれだったんだ……」
「あ、……ああ。うん、そうだね」
小桜は一瞬考え、そして素直に頷く。
そうなのだ。
犬が「降参」してお腹を見せているのと同じ状態が、小桜の常態となっていた。成績以外では小桜が勝ることもあったが、そうであっても「降参」が完全に切り離されることはない。なぜなら、中学校の成績で上位5位以内にいつも入っているというのも、小桜のアイディンティティの一部だったからだ。
夏休みの講習だって、そのアイディンティティを守るために行ったのだとさえ言える。
だが、自分の中で「こういうものだから」と、法則のように確定させて、「恵茉には勝てない自分」を納得させていた事態こそが自分を縛っていた。それによって、悔しさに身を焦がさなくて済むが、その絶対性が、小桜をして信仰までいかなくても、「神」の領域に恵茉を置かせるという歪みを生じさせていた。
だかからこそ、「恵茉にはずっと自分より上でいて欲しい」などと願ってしまったのだ。受験を目指して切磋琢磨している中で、その願いは異常ですらあるのに。
だが、小桜に卑下の意識は薄かった。
当然だ。
悔しさを感じないための合理化なのだから、その裏返しとして卑下の自覚もない。
「女神様じゃないよ、私」
「うん、わかっている。というより、ようやくわかった。ちょっと衝撃だったけど」
「小桜さんがそう思っていたなんて、私も衝撃だったけど……」
「……だよね」
うんうん。
小桜は電話で話しているにも関わらず、大きく2つ頷いた。
「……じゃあ、小桜さん、私からしたらまた違う人に変わりそうだね」
「うん、そうかもしれない」
小桜は答え、恵茉は笑った。
「でもさぁ、そういうことだったのか。なら俺、次も坂井さんに勝てるように頑張んなきゃ」
小桜の決意表明に恵茉は笑う。
「例外のない法則はないって、そんな言葉もあったよね?」
「は?」
小桜は思わず息を呑む。
「『そのあと、小桜は二度と勝つことはなかった』って、人生のナレーションが入るパターン」
「ちょっ、それ……」
恵茉の笑みを含んだ声に、小桜は抗議の声を上げる。
だが、恵茉はそれに構わず、自分の言葉を重ねた。
「がんばってね。私も負けない」
恵茉からのリベンジ宣言に小桜は言葉を失っていたが、心のなかに燃え上がるものもまた存在していた。
※
ようやく、小桜、負け犬状態から開放されたのかもしれない。
東京行を通して恵茉はお姉さん気質から開放されたし、これでようやく2人の対等な関係はスタートライン立ったとも言えるのだ。
で……。
成績が上位3分の1に入れたからどうのという色っぽい話は、双方で切り出しにくくなってしまった。
ここから、「実はキミが好きで……」などと言い出せるわけもない。
ただ、それでも話題はもう1つある。
小桜は、定期戦での敷間高と政木高の生徒会の会談の話を恵茉に伝えた。
「政木女子高の生徒会には、こっちの生徒会から話は行っていると思うんだ。だけど、周知を頼まれたと俺は思っている。だから、加西さんたちにもこれから伝えようと思っている」
「うん、わかった。だけど……」
「ん?」
恵茉の言葉に、小桜は思わず聞き返す。
「男子高、女子高に別れている意義を生徒会でまとめるって言うなら、それと合わせて伝えた方が良くない?」
恵茉に言われて、小桜は「なるほど」と思う。
話があちこちに暴走するのを防ぐためにも、その意義を同時に伝えるのが有効なのは自明のことだ。
「ならさ、明日学校で確認を取って、もう一度連絡します」
「ん、待ってる。こっちも先輩とかに聞いてみるから」
「うん、よろしく」
小桜はそう答える。
話としてはこれで終わった。
だが、小桜としては、このまま電話を切り難い思いもありはする。せっかく成績も上位3分の1に上がったのだ。もう一押しだけしても良いのではないか、という思いもあった。
「あの……、明日さ、どこかで会って話す?」
小桜は、改めて勇気を振り絞った。
「じゃあ、前回と同じ、公園のカフェで」
さらっと恵茉に返されて、小桜は電話越しだというのにかくかくと頷いていた。
その日の夕食。
小桜の成績について、母から報告を受けた父は言う。
「夏期講習でそれだけ上がったなら、もう1度行けば政木高でトップ、2回行けば全国トップか?」
「んなわけあるか。馬鹿なこと言わないでくれ」
小桜は呆れ返ってそう抗議している。
「ま、それはそうだ。だが、喧嘩は勝つ前提でないとできないからな」
「……それはそうだけど」
「結果として無理なら仕方ない。だが、今から決して勝てないなどとは考えるな」
「あ、はい」
小桜は、偶然にせよ、恵茉との話と同じようなことを父に言われ、ショックで素直に頷いていた。
知らず知らずに、負け犬根性が染み付いている。それも、自分以外の誰かから見透かされるほどだ。それを自覚せざるをえなかった。
※
そうなのだ。
県下1、2の進学校にいる以上、隣りにいるヤツが全国1位であってもおかしくはない。それが自分であっても、だ。だが、普通はそんなことは考えない。
だが、不遜さがチャレンジを生み、結果に繋がることもある。全国1位は論外だとしても、クラス1位であれば可能かもしれない。そして、クラス1位であれば、旧帝大クラスの志望者のレベルを超える。「自分はこの程度」、そう思うブレーキ力はあまりに大きい……。
次話、「皇帝」。小桜、質問するのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます