第19話 再び机を並べて


「a=bとは」、1/a=1/b、ax=bx、a/x=b/x、a-b=0、b-a=0、a+b=2a、a+b=2b、a/b=1、b/a=1、ab=a^2、ab=b^2……。次々と数式が書かれ、黒板を埋め尽くしていく。

「例えば、a=bを証明するための手段なんか、こんな感じでいくらでもある。文字式なんて、そのための道具に過ぎない。なんといっても、どんな形の項でも代入できて、どれほど置き換えても成立するのが文字式だからな。関数のグラフと紐付けると理解も早いだろう。

 まぁ、なんのために使うかわからないから泥沼になるわけで、これは次のステップのための道具すぎない。だから、次のステップまで進んで初めて文字式の意味を理解する人間もいるし、それはそれで構わないんだ。で、道具だから使い方なんかいくらでもあるし、これでいて美しさの片鱗もある。

 中学までできたのに高校で躓いたなんてヤツは、ティーンのくせに頭が固いんだ。思い込みを廃してもっと自由に発想すれば、こんなもん自動的に解けてくる」

 その説明に、小桜は殴られたような衝撃を受けていた。


 今まで、a=bはa=b、無理にもそう持っていこうとどれほど式を弄り回して苦労していたことか。

 だが、数学は自分のやり方で、好きな経路で自由に解いていいのだ。

 これを知っただけで、もう受講料の元はとれたと言っていい。小桜は、数学は克服したという手応えと高揚感を、受講の最初の10分で得ていた。


 残りの時間、合理と省力の極致という講師の数学の解き方を見て、小桜の頭の中はさらに整理された。

 なぜあれほど苦労していたのか、それも今となってはわかる。

 今までは、手が問題を解いていたのだ。数学のルール以上に形式にこだわり、練習問題を解くのを繰り返す中学の勉強である。だが、数学は頭で解かなくてはならない。それでこそ、初見の問題も解ける。


 いつの間にか講師も、最前列で高揚感に満ちて話を聞く小桜にわからないところがあるかを聞いて、全体の授業を進めるようになっていた。

 大教室で家庭教師についてもらっているようなものだ。小桜の多幸感はこの上ないものになっていた。



 数学の授業が終わり、高揚感を胸に残したまま小桜は振り返る。

 そこには、三城が仏頂面で座っていた。

 そして、その横に恵茉がいるのに気がついて、小桜の口は一瞬、ぽかんと開いたままになった。


「小桜さんがいたから、後ろに座っちゃったよ」

 恵茉の声に屈託はない。

「そうかー。奇遇だよねっていうより、中学の時みたいに同じ教室にいることができるなんて、信じられないよ。

 でも、すごかったな、今の授業」

 興奮気味の小桜の声に、恵茉は曖昧に笑った。なぜか、それに合わせるように三城も曖昧に笑う。


「……どうした?」

 小桜の問いに、恵茉は答えない。

「知り合いか?」

 間を持たせるためかのような三城の問いに、「中学の時の同級生だ。政木女子高にいる」と小桜は答え、胸のうちに感じている違和感の正体を突き止めようと必死で考えを巡らせた。


「俺、もう数Ⅰは克服したと思う。さすが、東京のカリスマ講師だよな」

 小桜のジャブに、恵茉は目を逸らす。

 三城は憮然と腕組みした。

 ……ひょっとして、恵茉と三城は、今の授業の凄さがわからなかったのか?

 そこに思い至って、小桜の背に冷たい汗が流れた。


 そのまま教室を俯瞰すると、3割くらいの生徒は高揚感を感じており、残りの生徒は黙々と次の授業の準備を始めている。

「……なぜ?」

 小桜の問いは、声にならないまま周囲のざわめきに紛れていた。


 ※

 無理もないと言えば無理もない。

 a=bで講師が言いたかったこと。それが伝わらなければ、「なにを当たり前のことを言っているのか」で話は終わってしまう。数式を道具として使う自由さと、本能的な鼻の利きというスキル。これを身につけると、もう数Ⅰは克服なのだ。と、書いておいて……w

 以上はナレーター役の個人の実体験からの感想にすぎません。そうでない方を否定するものではありません(逃げを打っておこう……、というより、その人が点をとれる方法が正義なんです。受験という場では)。

 で、小桜がそれがわかったのは、あまりに悪い成績を取って必死で足掻いていたゆえであり、恵茉がわからなかったのはある程度優秀だったからだ。「今までのやり方を変えなければ」と思うまで、追い詰められていなかったのだ。

 これもまた、めぐり合わせ……。



 数日が過ぎた。

 初日の影響は大きく、小桜は毎日を高揚感とともに過ごしていた。自分の実力が日に日に増す実感があるのだから、楽しからぬはずがない。

 だが、その一方で小桜の心にのしかかるものがある。


 昼間に受ける授業で、恵茉と三城の距離が日に日に近づいている気がするのだ。小桜は相変わらず最前列に座っているが、恵茉と三城は共に別のところに座っている。小桜には、その姿を見ることはできない。

 それでもかろうじて小桜が落ち着いていられるのは、三城は東京に安宿を見つけて泊まっており、恵茉と小桜は電車で往復しているからだ。

 とはいえ、行きも帰りもラッシュに揉まれている小桜に対し、恵茉は新幹線であっさりと帰っているから話せる機会があるわけではない。


 それに……。

 話せないことと、その理由はまだある。

 三城が勘違い野郎という評価をクラスで受けていることを恵茉に話す、そんな告げ口のような行為、小桜の誇りが許さない。

 だが、小桜の心中は決して穏やかではなかった。

 一度は恵茉と三城がキスをしている夢を見て、熱いのか冷たいのかわからない汗にまみれて飛び起きたこともあるほどなのだ。夏の薄明の中、東京へ向かう足がこれほど重い日もなかった。


 恵茉とは恋という熱がないという関係だったはずなのに、あまりに可怪しな角度で熱を持ってしまっている自覚が小桜にはある。これでは、恋の熱ではなく嫉妬の熱だ。独占欲の熱とも言えるだろう。それとも、これこそが恋なのか、もはや小桜にはわけがわからない。自分の中の違和感と葛藤することしかできないのだ。

 だが、そんな中、転機が訪れた。


 ある日の帰り山手線内で、酷い雷害で政木に帰る電車が運転を見合わせているという放送が流れたのだ。在来線が信号設備、新幹線も送電設備が損傷したらしい。

 恵茉と小桜はそれぞれ自分の家に連絡し、遅くなることを告げた。恵茉の家への電話には小桜が途中で代わり、恵茉の父親に責任を持って政木まで連れ帰ることを約束して安心させた。こういうところは、中学の同級生という地縁である。


「とりあえず、ただ待っていても時間の無駄だから、晩ごはん食べないか?」

 恵茉の父親と話し、緊張感でたどたどしくなってしまった口調で小桜が提案すると、恵茉は素直に頷いた。恵茉は恵茉なりに、小桜に感謝しているのだろう。

 とはいえ、駅からそう離れられないし、高額なものを食べるつもりもない。ただ、その一方で恵茉との初めての食事で距離は縮めたい。その小桜の要望を満たす店が駅に隣接する百貨店にあった。お好み焼き屋である。

 政木にはめったにない種類の店なので、イベントとして誘いやすい。それに、2人で鉄板を囲んで焼いていたら話も弾むかもしれない。



 ※

 東京から政木までおよそ100km。各駅停車で2時間、新幹線で45分。そして、よく止まるのだ。24日も通えば、1日や2日は、こういうこともあるかもしれない。

 次話「転機」、もちろん、お好み焼きもひっくり返すぞ。



あとがき

本日分の表紙を、掌編小説(140字)@縦読み漫画(原案)配信中@l3osQbTDUSKbInn さまからいただきました。第Ⅳ弾です。


https://kakuyomu.jp/users/komirin/news/16817330667583549509


ありがとうございますー。本当に感謝なのです。

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