(2) ビトー=アルノーゼの人生
亜人は魔力を垂れ流す俺に物怖じもせず、平然とした顔で話を再開させた。
「まずは訂正させてください。先程僕は父の代理として来たと言いましたが、厳密に言えばその表現は正しくありません。僕は父からの使いで来たわけではなく、僕は僕個人の意思であなたに会いにここまで来ました。……それも当然の話です。なぜなら父、ビトー=アルノーゼは、四年前に既に他界したのですから」
まるで死者へ悼む時間を俺に与えるように、亜人は話の途中に空白の間を空ける。
だが父親の死が俺に何の変化も齎さないことを知ると、亜人はすぐに話を再開させた。
「父が帝国の神聖皇帝であるあなたと交友があったことは、家族である僕らにも一度も話したことはありません。ならばどうしてそれを僕が知ったのかというと、それは父が深刻な病に伏せっていた五年前、父の言い付けで書斎を整理中に、偶然あなたに宛てた手紙を読んでしまったからです」
……手紙。
「先に謝っておきます。あれは父が書いた、あなたに宛てた赤裸々な手紙でした。家族とはいえ、決して僕が読んでいいものではなかった。ですが今となっては良かったと思うんです。あの手紙を僕が読まなければ、父の思いは永遠に闇の中に閉ざされたままでしたから……」
それでも亜人は手紙を読んだことを悔いるように、その端正な顔に少しだけ後悔の色を滲ませていた。
「本来なら手紙をあなたに渡して、僕は黙って去るべきなのでしょう。ですがそれは最早叶いません。あの手紙は父と同じで、もうこの世に存在しませんから……。おそらく父が亡くなる寸前に、父自らの手で処分したのでしょう。父はどうしても最後にあなたに伝えたいことがあった。だけどそれが許されないことを父は知っていた。だから父は決して自分の思いを伝えられないことを知りながらも、あなた宛ての手紙を贖罪の念から書かざるを得なかった。そして父はやはり同じ贖罪の念によって、その手紙を自らの意思で葬り去ったんです」
……どうしてだろうか。
見てもいないのに、手紙を捨てたあいつの情けない顔が、俺の耄碌した脳裏に浮かび上がって来るのは。
「あの手紙には父が故郷を出てから辿って来た軌跡、自分が犯した罪科の意識の吐露、そしてあなたへの痛切な謝罪が、何十枚もの羊皮紙に詳細に書かれていました。僕はその手紙を読んで初めて、父の謎めいた履歴を知ることになった。そして同時にこの世界の盟主ともいえる、神聖皇帝・アルヴィン=フリーディング、あなたの本当の正体も……。僕はそれを偶然父の手紙を読むことで知った。ですが父はそれを誰かに喋ることは決してなかったと、息子である僕は断言出来ます。もしも父があなたとの交友関係を誰かに話していれば、父がたった一人で設立し築き上げ、僕らが育った孤児院は寄付金に困ることはなかったでしょうからね」
ビトーが孤児院を……?
俺はその意外な事実に、瞼を震わせてわずかに動揺した。
「……それで俺に何を伝えに来た。まさかこの俺にお前の父親の死を悼めと? 墓の前にでも出向いて祈りを捧げろと? 俺とビトーの間に起きたことを全て知っているのなら、お前は分かっているはずだ。……お前の父親はクズだ。生きる価値のない犬畜生にも劣る存在だ。あいつは親友である俺と自分の大切な妹を見捨て、己だけ逃げ出してのうのうと生き残ったんだからな」
自らの動揺を隠すように、俺は激情に駆られた振りをして汚い言葉を亜人に吐く。
亜人は暗い顔で視線を落とすと、微かに声を震わせて言った。
「……否定は僕には出来ません。父が許されない罪を犯したことは、父本人も認めていますから。……ですが父は決してクズのまま死ななかった。父は自らの罪を拭えないと自覚しながらも、残りの人生を全て贖罪に捧げたんです。それを理解しろとは口が裂けても言えません。ですがそれが事実であったことだけは、あなたにだけは知って欲しい」
亜人は冷静に振る舞っているように見えるが、その実内心は激しい感情が沸き上がっているのが俺には分かる。
俺は追い打ちを掛けるように、心の底からの本音を喋ってやった。
「奴がその後聖人になろうが神になろうが俺にはどうでもいい話だ。俺にとっては奴が俺の人生を破壊した裏切り者という事実、それだけが全てだ。聞こえなかったのならもう一度言ってやる。……お前の父親は正真正銘のゴミクズ野郎だ」
玉座の上で俺は笑う。その笑い声の力強さは外で行われる殺し合いの悲鳴に勝るとも劣らなかった。亜人はそんな醜い俺に、憐れむような顔を向けていた。
俺はその顔にビトーの面影を見出した気がして、また激しく罵ってやろうとする。だが再度声を張り上げようと息を吸い込んだ瞬間、自身の呼吸器官は荒々しく反旗を翻した。俺は呼吸困難に陥るほど激しく咳き込み、それは肺の中に溜まった血を吐き出し切るまで続いた。その老人の哀れで見苦しい醜態を、亜人は落ち着くまでジッと待ち続けていた。
「……僕の顔を見て、思い出すことはありませんか?」
残り僅かな体力を根こそぎ奪うような咳――。その確実な死の前兆がようやく治まると、亜人が俺を慮ることもなく言った。
俺が息も絶え絶え何も言わずに黙していると、亜人はおもむろに自身の頭を覆う重い
「僕の母の名はユーリカ=エストロニア。そして実父に当たる男の名はディポルガ・ン・プルスカ・デア・ソゾン。……父親はあなたがまだ冒険者として名乗りを上げる前に立ち上げたギルド、【
亜人の晒された白い額。そこには
「僕はずっと不思議でした。どうして父は愛する人を蹂躙された挙げ句に妊娠した、望まれぬ子であった僕を育てたのかと。母が存命であるならばともかく、母ユーリカは僕を産んだ数日後に旅の途中で衰弱死したのです。父にとって僕という存在は、忌まわしい記憶を思い出させる忌み子に他ならなかった。……ですがあの手紙を読んで僕には全てが分かりました。父が僕を育てることは、父の贖罪でもあったのだと。そして父が孤児院を営むこともまた、同じであったのだと」
亜人は胸に掛けられた銀灰色のロケットを意味深に触る。
俺は不意に思い出す。その古びたロケットが、あのエルフ族の女が持っていたものと酷似していたことを。
「愛する人を失って、見知らぬ土地に一人取り残されても、父は残された僅かな私財を全て投げ売って、僕ら孤児たちに無償の愛を注ぎました。それは父が罪の意識から逃れる為の自己欺瞞だったのかもしれません。ですが例えそれが自責の念から突き動かされた偽善だったとしても、あの日父が僕らに向けた愛情は本物だったと思うんです。父は自身が咎人である事実から逃げられないと知っていた。だからこそ父のその逃げ道のない人生には強い信念が顕れ、世界のはみ出しものであった僕ら孤児を救っていた。だから決して父は、クズのまま死んだわけではありません。父は父の打ち立てたその信念を、僕ら家族である孤児たちを、そしてあの小さな孤児院を懸命に守ることで貫き通したんですから……」
亜人はそこで口を噤んだ。次の言葉が出ないというよりも、俺が無表情で黙り続けていることを気にしているようだった。
「父は――」
「もう良い」
嫌悪感をあらわにした俺の声色に、亜人は確かに怯んだ。
「どれだけお前が父親の人徳を力説しようと、俺はビトーを赦すことはない。……その言葉の真意が分からぬ程、お前は若くも善人でもあるまい」
俺はゆっくりと、固く誓うように言葉を紡ぐ。
亜人は俺にやるせない顔を向けながらも、俺の放った残酷な言葉を噛み締めていた。
「……一つだけ誤解がないように言っておきます。僕が今話したことは、全て僕が父の手紙を読んだ上での解釈に基づくものです。決して父が手紙の中で語ったことではありません。あなたに父の人生を知って貰いたかったのは、僕の息子としてのエゴイズムによる独断です。僕はどうしても父が誤解されたまま、あなたにこの世を去ってもらいたくなかった。ですがもしも父がこの場にいたならば、身勝手なことをした僕を父は許すことはないでしょう。それほどに父は、あなたに対して深い慙愧の念があった。父はきっと、あなたに裁かれることすら罪だと思っていた」
その二回りも小さく見える姿は、父親にきつく叱られた後の子供に見えた。俺の耳に届くほど勇名を轟かせた他国の武将のその姿の影に、俺はビトーの生き様を見せつけられたような気がした。
「フリード陛下」
それでも亜人は生粋の軍人だった。すぐに自身の迷いを振り払い、気を取り戻したように俺を再度見据えた。
「ここから先は父の息子としてではなく、ビトー=アルノーゼの残した嘆願書を発見した者としてあなたに訴えます。父があなたに本当に伝えたかったこと、そして僕がここまで来た本当の理由。……それはこの期に及んでまだ、あなたがその
玉座の肘掛けに乗せる俺の皺だらけの右手を、亜人はその鋭い眼光で厳しく指し示した。
「それはこの世界と表裏一体の関係であるもう一つの裏の世界。その隔絶された異世界から齎されたと伝えられる奇跡の具象器、
亜人の羨望とも憎悪とも付かない凶暴な眼差し。
俺はその邪な視線に触れぬよう、指輪を守るように素早く掌で隠した。
「父は生前、何一つ趣味や娯楽を持たない人間でした。ですが孤児院の運営以外に唯一腰を入れて取り組んでいたことは、古代文明の遺跡から発掘された
亜人は
「これは父が三十年以上に渡って書き留めた
亜人は丸腰のまま玉座にゆっくり近付くと、俺にそのビトーの記した研究書を差し出した。
俺は何も言わずに受け取らされると、仕方なく手垢にまみれた革張りの分厚い本を開いた。きちんとした装丁がされずサイズが不揃いのページには、どこもびっしりと
「その研究書の内容にもある通り、手紙で父はその指輪を使うことの危険性を必死に訴えていました。父は
俺の胸の奥で残り僅かな鼓動を繰り返す【賢者の石】。その
そこに書かれた研究内容の解釈と論理展開は多少突飛で強引なものの、数々の偉大な賢者が残した魔導書を紐解いた俺から見ても、その提示された仮説群は充分見当に値するものだった。
(ビトー、お前は……)
俺は本に書かれた粗方の項目に目を通し、ビトーが確かに俺の為に
「馬鹿がッ……!」
左手に握る、ビトーの三十年費やした人生そのものと言える労力の結晶。
それを踏み躙るように俺は、自らの魔力によって一瞬で灰にしてやった。
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