第七章 「五十年の月日 ~終着点~」

(1) 覇王の凋落

(ようやく……か……)


 帝位を授かった者だけが座ることを許される、黄金造りの高御座。その不快感を感じさせるほど華美に装飾された玉座の上で、死にかけの俺は一人ほくそ笑む。


 神聖皇都の伏魔殿パンデモニウムと呼ばれた皇城の中に、もはや俺の味方は誰一人いないだろう。


 暇潰しで作った血族はとうの昔に逃げ出した。皇帝の俺に忠誠を誓ったはずの近衛兵も混乱に乗じて逃げ出した。妾代わりの侍女隊も、国を守る義務があるはずの為政者たちも、帝国が優位にあった頃は揃って俺に尻尾を振っていたというのに、今はそれら全ての者が音も無く俺の前から姿を消している。今では救神帝と俺を盲目に信奉していたはずの臣民たちさえも反旗を翻してこの城に大挙して押し寄せているらしい。


(……それでいい。俺はもとより一人だ。誰も信じちゃいない。死ぬときは一人がいい。どうせ俺は、この世界に一片の未練さえないのだから)


 玉座の上で自嘲した乾いた笑い声の中に、肺が潰れたと錯覚するような酷い咳が交じる。その長く重い血混じりの咳がようやく止まると、俺は自分の死期が確実に近付いていることを改めて悟った。奴らがこの王室に乗り込む前に、この身体は保たないのかもしれない。


(……どっちでもいい。俺は死を恐れてなどいない。むしろ待ち焦がれている。あれから三十年、俺は偽りの生を演じ続けてきた。そうだ。俺は蛇足の人生を全うする為だけに、ここまで信念を貫き通したのだから……。)


 右手の中指に嵌めた赤銅色の指輪をおもむろに擦る。


 これを触るといつも心が落ち着いた。この指輪だけが俺の拠り所だった。この指輪さえあれば他に何もいらない。戦争で奪い取った数多の霊宝神器も、俺を見限った臣下も国民も、この指輪に比べればちっぽけなものだ。この指輪は美しい。三十年指輪を嵌め続けた俺はここまで醜く老いた。だが神聖遺物オリジナルアーティファクトと呼ばれたこの指輪だけは錆びることもくすむこともなく、変わらず鮮やかな光沢を放ち続けている。


(来たか)


 俺の老いた両耳は無意識に拾い上げる。獲物を追い詰める猟犬のような雑然とした軍靴の群れ。


 それらは王室に隣接した謁見の間の前の廊下で止まると、大きな掛け声と共に扉を破壊する不協和音へと変わる。そしてその不躾で躊躇のない破壊音が止まぬ内に、武装した歩兵の地を蹴る音が幾重にも重なって部屋の中に雪崩れ込んできた。


「番犬どもは全員尻尾を巻いて逃げ出したというのに、大将のアンタは玉座に座って待ち惚けとはな……。怨敵ながら大したタマだよ、神聖皇帝サマ。……いや、災厄の魔神王、アルヴィン=フリーディング!」


 歩兵隊を率いる、左眼に眼帯を付けた長髪の偉丈夫。そいつが部屋の空気を震わせるほど唸ると、俺に向けて使い込まれた猟銃と血で滴る大太刀を狂いなく突き付ける。


 俺は笑う。その男の芝居がかった動作と台詞に笑わずにいられなかった。まるでこいつらは俺の為に誂えられた舞台に付き合わせられている気がして、この瞬間を天上から垣間見ているだろう覗き魔の神々が滑稽に思えたからだ。


 見るからに農民歩兵と分かる痩せた兵隊達はたじろいでいる。きっとこの極限状態で死の未来しか有り得ないはずの俺が、不敵に笑う様を奴らは不気味に思っているのだろう。だが眼帯の男だけは動じることなく、憎悪に呑まれた隻眼で俺を射抜くように見据えていた。


「ゲームオーバーだ、魔神王……!」


「待テッ!」


 眼帯の男が身の丈ほどある太刀を宙に振るい、付着した血液を払いながら玉座の俺に近付く。だがその瞬間男の殺意を伴った歩みを止めるように突然、後方に控えていた歩兵たちを押しのけて一人の女が躍り出て来た。


 ……背中に有翼人レプセリアンの証である穢れた両翼を持つ、赤褐色肌の幼い西方大陸人種ヘマテー


 少女は厳然と立ち塞がる。二回り以上大きい眼帯男の前に、その手に握った手斧トマホークを迷いなく構えて。


「何のつもりだアイヤナ……! テメェの部隊は正門で専守防衛のはずだ。ここは俺たちの狩場。この偉大なる大地母神ユグドを同胞の血で染め上げたイカレ野郎は俺が確実に殺す……! 人間ヒトを殺したこともねぇガキは引っ込んでろ……!」


「忘レタ、言ワセナイ。オ前、ユウリト約束シタ。ソレ、今果タス時。……ユウリ!」


 褐色の少女は片言の言葉で怯むことなく眼帯男に捲し立てる。最後は誰もいないはずの廊下に向かって叫んだ。


 そして少しの間を置いてから、一人の男が破壊された扉を潜るようにのそりと現れた。……間にしては異様にデカい。線は細いが、背丈だけは歩兵たちの倍はあるように見えた。


 歩兵の人垣を割るようにして現れた、北方の民族衣装を着込む巨躯の男。分厚い布を全身に巻いて悠然と歩くそいつと眼が合った眼帯男は、わざとらしく大きな舌打ちをして不満をその相貌に顕にした。


「悪いな、ローンロウ。だが僕もこれだけは譲ることは出来ない。何せこの為だけにこの戦争に参加したようなものだからな」


 ローンロウと呼ばれた眼帯男。奴は見るからに不機嫌な顔で両手の武器を下ろすと、すれ違う巨躯の男に意外にも道を譲った。


(……混じり者)


 巨躯の男と相対して分かった。こいつは亜人だった。頭に鉢巻ターバンをして分かりづらいが、左眼を囲うように顔半分が赤い鱗で覆われている。おそらくこいつは人間と、鱗竜族ハイ・リザードの亜人か。いや、もう少し特殊な混じり方をしているか……。


「お初にお目にかかります、ゼド帝国の神聖皇帝、フリード陛下。私は大地母神ユグド解放戦線に加わる、ユウリという者です」


 恭しく頭を下げる亜人に、俺は少し興味を覚えた。それはこいつが世界全ての人間から忌まれた俺に対して礼儀正しく振る舞うからじゃない。この掴みどころのない亜人の眼の奥に潜む奇妙な意志の強さは、ローンロウという歴戦の兵よりも遥かに勝っていたからだ。


 だが周りの者のほとんどはおそらくそれに気付いてはいまい。こいつの怨敵に見せる軟弱な態度に、皆口には出さずとも侮蔑の視線を送っていた。


「……お前のその名、その容姿、いつぞやか聞いた覚えがある。かつてバルハイム聖王国が支配したウル大陸、その最北に位置する小国カーンの義勇将、【灼鱗のユウリ】だろう。数年前に祖国を裏切って出奔したと耳にしたが、まさか我が帝国を脅かす卑しい野良犬どもに与していたとはな……」


 俺が皮肉を込めて口にすると、亜人よりも先に兵隊どもがいきり立つ。だが亜人は兵隊の間で生じた不穏な空気を片手で制すると、俺に向かって屈託のない笑みを無防備に浮かべた。


「裏切ったとは人聞きが悪いですね。僕は正規の手順をもってカーン王に離隊を直訴し、軍部にも国民にも綿密に説明した上で遺恨なく国を出ました。それをどう解釈するかは各々の自由ですが、裏切ったと面を向かって断じられるのは些か心外ですね」


 亜人は口ほどに憤慨した様子もなく、変わらず無垢な笑みを保ったまま俺を見据えていた。


「どれだけ釈明しようと、忠誠を誓い守るべき国を放棄したことは紛れもない事実だろう。今なお彼の地は戦乱の只中にあるという。お前ほどの武将が一時でも国外に出れば、国が被る損害が莫大なものになるのは火を見るより明らかだ。残されたカーンの民に裏切り者と謗られても文句は言えまい。まして無関係である他国の老いぼれの流言になど……」


 明らかに挑発する意図を持って言葉を発したが、それでもこの亜人は笑みを崩さない。それどころか亜人は、


「そう言われてしまうと反論のしようもありませんね。僕は数年以内に必ず帰ると民衆に誓いましたが、あなたの言う通り、その間にカーンの防衛線は他国の武装勢力によって著しく削られていることでしょう」


 飄々と祖国の窮地を口にした。


「ここでは他所の大陸の情報などろくに入っては来まい。……お前がここで首取り合戦に興じている内に、お前の祖国はとっくに滅んでいるのかもしれんぞ?」


 俺の意地の悪い問いにも、亜人は間髪入れず一笑に付す。


「僕が必ず帰ると約束したように、残された仲間たちも僕が戻るまでは何があっても国を守ると約束してくれました。カーンは簡単には落ちませんよ。彼らは僕程度の人材がいなくとも、充分国を守れる力を持っていますから」


 亜人は俺の妄言に全く惑うこともなく、仲間が約束を守ることを確信しているかのように笑った。


 無邪気に仲間を信じ切る亜人のそのお人好しとも取れる姿に、俺はこの身体の本当の持ち主の在りし日の姿を思い起こさせられた。


「それに例えカーンが危機に陥っていたとしても、僕はまだ国に戻るわけにはいきません。僕が一国の将の責務を放棄してまで国を出たのは、それだけの理由がここにあるということです」


「……この老いぼれに会う為にか?」


 亜人は途端に真面目腐った顔になって、その澄んだ瞳の奥から鋭い視線を俺に送った。


「もう三年も前になりますか……。ここから遠く遥かな地、カーン防衛の戦場で僕は風の噂を耳にしました。事実上世界の半分を実効支配しているゼド帝国。その帝国の内政を司るバロメア機関が、とある事情によって内部崩壊が急速に進んでいるということ。そしてその内政崩壊に起因している事情というのは、神聖皇帝の死期が近付いているらしいというまことしやかな噂です」


 人の口に戸は立てられぬ――。


 俺は最重要機密事項であるはずの自身の危篤情報が、三年も前に海を超えていた事実を嘲った。


「噂の真相は見ての通りだ。……だがそれと貴様がここに来た因果に何の関係がある。まさか田舎者のカーン王にでも頼まれて、観光ついでに俺の死に様を見物しに来たか」


 老醜を晒す俺の戯言に、若い亜人は笑わない。


「僕がここへ来たのはごく個人的なことです。外交的な意味合いは全くありません。あなたも御存知の通り、我が祖国カーンでは帝国とは同盟の立場を取らずとも、表立って事を構える事態は一度もありませんでした。それは両国が水面下で互いの思惑を汲み取り、暗黙の了解が自然に形成されていたということです。我が国ではいかなる争いをも忌避し、常に専守防衛であること。そしてあなた方帝国は別大陸の小国など眼中にはなく、そんな小国を相手にして限られた兵力を割くよりも、目下第三勢力が台頭中のレジン共和国を攻め入るのに夢中でしたからね。カーン軍部は帝国の強引なやり方に辟易していましたが、所詮別大陸で行われている他国同士の諍いのこと、自国に害がなければ他国がどうなろうとそこまでの関心はありません。ですが僕は違ったのです。僕だけは常に帝国の動向を注意深く窺っていました。それはカーンの防衛を預かる将軍としてではなく、一個人としてあなたに会う機会を常に窺っていたからです。僕は第三勢力である大地母神ユグド解放戦線によって帝国が打ち倒される前に、あなたにどうしても伝えなければならないことがあったんです」


 何を言い出すかと思えば……。


 俺はこの善人ぶった亜人に急速に興味を失い始めていた。こいつも所詮くだらない賢者メイガスどもと同じだった。絶えず争いが続く世界を憂いた賢者たちは、混乱の創元である俺にわざわざ象牙の塔から出向いて進言してきた。世界を良き方向へ導け。貴殿にはそれを行う資格と責任がある。その耳障りの良い世迷い言をこの玉座の間で吐いた瞬間、俺はしたり顔で説諭する賢者メイガスの素っ首を尽く叩き落としてやった。


 おそらくこの亜人もそれと同類だろう。俺が帝国の巨魁として最後を遂げる前に、自らの行いを悔い改めさせに来た。そして可能ならば終戦の勅言でも発布させて、未だ戦乱の渦中にある国々を少しでも救いたいのだ。そしてその卑しい目論見の中にはきっと、自身の祖国カーンを守ることにも繋がっているのだろう。


「若い亜人の将よ……。たとえこの身に永久不滅の命を授かろうと、お前のくだらぬ話に付き合う暇は毛ほどもない。……殺せ。さもなくば失せろ」


 俺は口を閉じ、固く目を瞑る。


 もう何も語ることはない。俺がこの世界に付き合うのはここまでだ。このまま三下の兵隊どもに胸を刺し貫かれて、虫ケラのように死ねることを玉座の上で祈った。


「ビトー=アルノーゼ」


 唐突に亜人の放ったその言葉に、俺の眠りかけた脳は刺激された。


 反射的に頭をもたげて目を見開くと、それを予知していたように亜人は俺を見据えていた。


「僕の父の名です」


 瞬間俺が作った形相に、亜人が驚くことはなかった。


「僕は父の代理として、あなたに会いに来ました」


 亜人は俺を見つめている。その意思の強さが現れた清浄な双眸で、俺の反応を見定めていた。


 その確固たる信念を感じさせる顔つきは、虚言を吐いている愚者のようには見えなかった。


「俺を殺しに来た野良犬ども……。お前らは全員即刻この玉座から退出しろ。俺はこの男と二人で話をする……」


 亜人の後ろで動向を見守っていた兵隊たち。奴らは風前の灯であったはずの俺の矍鑠とした喋りに、誰もが虚を突かれたようだった。だがすぐに、


「ふざけるなッ! 死にかけのお前にそんな権限はないッ! お前に許された選択肢は畜生のように命乞いすることだけだッ!!」


 眼帯の偉丈夫、ローンロウが亜人を押し退けて怒鳴った。


 そして奴は再び武器を構えると、俺に向かって不退転の決意を滲ませた威圧的な歩みを進める。


「二度言わせるなよ、下種が……!」


 瞬間激昂した俺は、僅かな殺意が含んだ魔力を身の内から漏れ出す。


 その緩やかな衝撃波となった魔力に意図せず触れた兵隊ども。奴らは半分ほどが圧倒的なレベル差に腰を抜かし、後の半分は持ちこたえるも強制的に戦闘の構えを取らされる。だがその兵隊らのほとんども、俺の底知れない魔力の波動に恐怖して震えていた。


「きさまッ……! まだそんな力を……!」


 やはり眼帯の男だけは別格だった。奴は俺の威圧に怯むこともなく、気合いで魔力を吹き飛ばす。そして周りの歩兵と協力することもせず、たった一人で俺に斬り掛かろうと先陣を切った。


 だがその決死の覚悟の突撃を止めたのは、狙いを定められた俺ではなく、亜人が振るった斧槍ハルバードの一撃だった。


「何しやがるユウリッ!」


「ローンロウ。ここは僕に任せてくれないか」


 眼帯男の隻眼は極度の怒りで縦横無尽に血走っている。今にも仲間である亜人に斬り掛かりそうな勢いで、相手を深く睨みつけていた。それでも亜人が得物を手に神妙に立ち塞がると、それ以上不用意に動くことは出来なかった。


「君が進んで首を取りにいかなくても、どう足掻いても神聖皇帝に起死回生の手段はない。だったらできるだけ多くの情報を引き出してから引導を渡すべきだ。僕がその術に長けているのは君も知っているだろう? それに君が無茶な突入を間断なく繰り返したおかげで、外の部隊の指揮系統に著しい乱れが生じている。このままだと戦には勝っても、想定以上の戦死者が出るぞ。余計なお世話かもしれないが、一度全体の状況を俯瞰してから各部隊の立て直しを図った方が良い。もちろんそれを決めるのは、攻城戦の指揮を任された君だけどね」


 地面を貫いた鋼鉄の斧槍ハルバードを軽々と引き抜いて、亜人は眼帯の男に如才なく忠告する。


 眼帯男は充血させた隻眼を亜人に向けていたが、すぐに冷静さを取り戻したのか動揺する兵隊たちに慇懃に向き直る。


「……全員部屋から出ろッ! ルング隊は廊下に残ってここを見張れ! 他の者は俺と共に各部隊の救援に回るぞ!」


「賢明な判断に感謝するよ、ローンロウ」


 亜人の放ったその言葉に触発され、眼帯男は全身に怒りを漲らせる。


「ユウリ、テメェ……! 万が一この人の皮を被ったイカレ野郎を逃してみろ……! ただじゃ済まさねぇ……! その時はこの俺がテメェのその薄らデカい身体をカーンの国民全員に配れる位になます切りにしてやるからな……! 分かったか、このウロコ野郎……!」


「ああ」


「……二十分でここに戻る。それまでに命乞いさせとけ」


 眼帯男は亜人から離れ、最後に俺を牽制するよう鋭く睨むと、全ての兵隊を連れて玉座の間から出て行った。


 部屋にはまだ一人部外者が残っている。亜人はその部外者である少女に、首を振って部屋から退出するよう促していた。


「……ユウリ」


「大丈夫だアイヤナ。僕は死なない。こう見えて僕が結構強いことは君も知っているだろう? それにこの戦が終わったら、君に普通の暮らしをさせると、君のお姉さんに頼まれたしね」


 亜人に宥められた有翼人レプセリアンの少女は離れていく。それでも心配そうに何度か振り返りながらも、亜人に見送られて部屋から出ていった。


 玉座に座る死にかけの俺と、部屋の中央に一人残された精悍な亜人。


「……これで二人きりだ。話を続けてもいいですか?」


「続けろ」

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