(2) 贖罪の旅路
聖都での逗留先である宿屋、“腐れる
併設された酒場にもラウンジにも、異国から来たと思われる種々様々な旅人たちで賑わっている。買い出しから急いで帰った僕はごった返しのロビーに面食らいながらも、たくさんの客の間を縫うように歩き、間借りした部屋を目指して二階への階段を上がる。途中買い込みすぎた荷物でよろけそうになりながらも、ようやく目的の部屋の前に着き、鍵を差し込み扉を開けると、僕の肌を湿っぽい空気が再び撫でた。
閉め切っていたはずの硝子窓が開け放たれている。部屋の中の室温は外とあまり変わらない。窓際に置かれた木椅子にぼんやりと腰掛ける彼女は、小雨が降りしきる曇天の屋外を眺め続けていた。
「ただいま、ユーリカ」
僕が旅の買い出しに出掛ける正午前。その頃も彼女はああやって宿屋の外を虚ろな顔で見続けていた。急いで帰ってきたとはいえ、もうあれから三時間近く経っている。彼女は今日も日がな一日、ぼんやりと外を眺め続けていたらしい。
「ユーリカ、寒くないかい? 今日はだいぶ冷えるから、これを羽織った方が良い」
瞬きもせず外を一心に眺め続けるユーリカ。頬が青白くなった彼女に僕は聖都のバザールで買った毛糸のケープを羽織らせる。ユーリカはそれに感謝する様子も、気付いた様子さえもなく、ただジッと窓辺から聖都の街角を見下ろしていた。
「そうだユーリカ、朗報があるんだ。僕の火傷もほとんど完治した。司祭様からの許可も降りたし、予定通り明日の荷馬車で旅立とう」
「……」
ほんの少し強く吹いた風が、ユーリカの栗色の長い髪を靡かせる。彼女は自身の目に掛かった髪を気怠そうに払うのに、僕の言葉には反応しない。まるで傍に立つ僕が存在しないかのように、自分の世界にだけ籠もり続けていた。
「ユーリカ……」
ユーリカは僕を見ない。彼女の視線の先には整備された石造りの街路だけがある。だけどそこには誰もいない。興味を惹かれるものなど何もない。だとしたら彼女の眼には今、一体何が映っているというのだろう。
ユーリカはあの幽霊屋敷での一件以来、心を深く閉ざしてしまった。身体的な障害は残らなかったものの、誰の問い掛けにも無反応になってしまった。
僕がユーリカは元のように戻れるのかと司祭様に聞くと、老境に差し掛かった彼女は哀れに思うように小さく、そして弱々しく首を振った。現在のあらゆる治療法においても有効な回復手段はなく、ユーリカはこれから一生涯、廃人のように暮らすしかないと説明された。
僕はそれを聞いて何度も問答を試みたけど、司祭様は首を横に振るばかりで、結局その辛い事実を飲み込むしかなかった。
「あまり風に当たりすぎるのは身体に良くないよ、ユーリカ。少し早いけど、今日はもう休もう。明日からは長い旅路になるからね……」
僕は建付けの悪い雨戸を閉めて、座りきりだったユーリカを部屋の中央に置かれたベッドへ導く。彼女は僕に為されるがまま、大人しくベッドの中に入った。
(長い旅路か……)
僕らは明日の朝、療養していた聖都を離れ、北の小国カーンへ目指す。カーンの東に広がるバドゥ原始林には、ユーリカの母の故郷であるエルフの都市があり、そこは大戦で壊滅状態にされたものの、まだ幾つかの集落が点在しているらしい。僕らは可能ならその集落の一つに身を寄せ、心神喪失したユーリカの面倒を見るつもりだった。
だけど昔聞いたユーリカの話では、森に住むエルフは性質上用心深く、たとえ同族の者だとしても簡単に集落に迎え入れることはないとも聞いた。そもそも本当に僕らが大陸の果てであるその森に辿り着けるのかでさえ不安しかないが、今のユーリカにとって安らげる場所がそこにしかないのなら、どんな犠牲を払ってでも僕は行くつもりだった。
北の国カーンへの旅路は長い。荷馬車を乗り継いでも最低半年は掛かるだろう。大陸を分断する二本の大河を渡り、星の天蓋と呼ばれる三つの山脈を超える過酷な旅だ。僕は喪心状態のユーリカを連れて、安住の地へと無事に辿り着けるのだろうか……。
僕はパンパンに詰まった背負い袋の中から、十紙以上に渡る新聞を全てテーブルの上に広げる。とりあえず旅の途中に通る土地の戦乱情勢を知る為に、世界各国の新聞を片っ端から購入していた。中にはかなり古い日付のものもあるが、何も知らないよりはマシだと思った。
僕は旅に役立つ情報を得る為に、広げた新聞にザッと目を通す。各新聞紙には異国の治安情報が克明に書かれている。だけど僕はそれよりも、とある新聞社の見出しの写真に目が行った。
それはこの国の英雄だったはずの彼――アルヴィン=フリーディングが、かつて敵対していた国の民衆に向けて雄弁に演説をしている光景を切り取ったものだった。
(……デグゥ。君は今、何を考えている?)
新聞を見ながら僕は思う。記事にはアルヴィンが侵略行為を是とする
モノクロの写真に映る精悍な彼は、見知らぬ新たな仲間と共に、聖王国の国旗を燃やして希望を掲げている。そしてその天高く掲げる腕の先には、あの二対の蛇があしらわれた奇妙な指輪――ミヤから奪った
僕は最後までその記事を読む気になれなかった。寝返ったデグゥを批難する気も、聖王国の未来を危惧する気持ちにもなれない。ただ僕は今、ユーリカを守る、そのたった一つの事で頭が一杯だった。テーブルに広げた全ての新聞を纏めて畳むと、再び背負い袋の中へ静かに戻した。
――そろそろ僕も眠らなければ……。
明日は早い。明朝の旅支度に備えて就寝する為、僕もベッドに横になろうとした。
サイドテーブルに置かれたオイルランプ。その小さな灯りを消す前に僕はユーリカの顔を覗く。すると彼女はまだ起きていたらしく、それも珍しく僕の顔を見つめていた。少し驚いて身を引く僕の手に、冷たい何かが触れる。ユーリカが毛布の中から、震える白い手を差し出していた。
「……大丈夫、ユーリカ。何とかなるよ」
彼女の冷え切った手を握ると、僕は優しく微笑んだ。
ユーリカの硬い顔はほんの少し和らいだように見えて、そのまま瞼が落ちて安らかな寝息を立て始めた。
僕はユーリカの寝顔を見つめながら思う。明日からの旅路だけでなく、その後に待ち受けるこれからの僕らの人生も、きっと厳しいものになるだろう。
だけど僕は心に決めていた。どんなに苦しくても、辛くても、僕の最愛の人である彼女と共に、この世界を強く生きていくと。
そう決心出来たのはきっと、ミヤのお陰だと思う。ミヤは死して霊体となっても、自身の魂の高潔さを持って僕らを救ってくれた。それはどれだけ困難なことなのだろう。きっと僕には想像も出来ないほど、ミヤは苦しみ抜いて導き出した結論なのだと思う。
だから僕は受け入れるつもりだった。僕は背負いきれない罪を犯した。この罪は生きている限り、決して拭い去ることは出来ない。それだけ僕は罪に塗れている。だけどその先にも本当の救いがあることを、僕は身を持って今の彼に証明したかったから……。
(デグゥ……僕は汚くても、醜くとも、足掻いて足掻いて、この矛盾だらけの世界を生き抜くよ。君はきっとそれを認めない。開き直りの欺瞞だと糾弾するかもしれない。だけど僕はいつか君と分かりあえる日が来ると信じて、生き抜くことで贖い続けるよ。……そしたら君は、きっと――)
僕はそれ以上夢想することはやめた。
夢を見ることも、語ることも、今の僕には許されない。
――僕が今出来る唯一の贖い。
それは僕の隣りで眠る彼女――ユーリカが少しでも良い夢を見ることを願って、オイルランプの灯りを静かに吹き消すことだけだった。
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