幽霊屋敷の最期

「……もうこんな時間か。さすがに喋り過ぎたさァ」

「デグゥ、君は――」


 大広間の片隅で時を刻み続ける振り子時計。その文字盤に目をやるデグゥに、僕は差し込むように言葉を投げ掛ける。


「何だビトー。オレは全てを話してやった。充分過ぎるほどになァ。これ以上何が聞きたいって言うんだ。まさかオレから許しの言葉を期待してるってんなら、そんな下らない望みは亜人オーク共の肥溜めにでも纏めて捨てとくんだな」


「君はどうして――アルヴィンの仲間彼らまで殺す必要があったんだ」


 僕のその問いに、デグゥは確かに顔色を変えた。


 僕らを取り囲む仲間たちの頭部。それら全てに聞こえるように、僕はその問いの声量を上げた。


「彼らはこの屋敷で行われた事とは無関係だ。それにいくら君がアルヴィンの影として生きてきたとはいえ、君だって彼の身体を通して彼らのことを本当の仲間だと思っていたはずだ」


 僕にはどうしても信じられない。あの優しかったデグゥがこんなにも簡単に人間を殺すことを。彼をあんな風にさせた邪教徒や盗賊、それにアルバート村の人間や僕に対してなら分かる。だけど今日デグゥが殺した仲間たちは、彼にとって顔なじみ以上の親しい存在だったはずだ。この屋敷に戻ることが目的ならば、誰かを殺す必要性などどこにも……。


「……殺す必要はあったさァ。オレが生まれ変わるためにはなァ」


 周囲に散乱する仲間たちの死体を見下ろしながら、落ち着き払った様子でデグゥはポツリと呟いた。


「二十年前のアルバート村と同じことさ。オレはもう一度人生をやり直す。そのためにはアルヴィン=フリーディングの素顔を知るこいつらは邪魔なのさ。オレがせっかくこの身体を奪い返しても、昵懇の間柄である仲間たちは必ずコイツの異変に気付くだろう。そうなったらオレはもうゲームオーバーさ。悪霊であるオレの存在はすぐにバレ、退魔術で祓われたのち魂を滅却される。オレがもう一度安全に人生をやり直すには、気心の知りすぎたこいつらはもはや障害でしかない。……そういうことさ」


 そのとき彼の眼に宿った得体の知れない冷たさ。その空虚で怜悧な視線に僕は戦慄した。


 だけど一方でなぜだろう。僕にはその一見理論だった説明が、どこか矛盾しているように聞こえたのは。デグゥは何かを隠している。そう思えたのは、親友だった僕が彼の誤魔化す癖を今の説明の姿に見たからだった。


「そういう意味で言えば、お前が連れてきた女も殺すべきだったなァ。……ユーリカと言ったか?」


「何だって……?」

 突然ユーリカの名前を出されて過剰に反応する僕に、デグゥは意味深に鋭く笑う。


「そういえばあの女もまとめて殺そうと思ってたのに、どこにも見当たらなかったなァ。てっきりまだ失神してベッドで眠っていると思っていたが、どこかの物置部屋にでも逃げ込んだのか? お前は知ってるかァ、ビトー?」


「ユーリカを殺すとはどういう意味だっ! デグゥ!」


「なんだ、そんなにあの女が大事なのか? だったらこんなところに連れて来るべきじゃなかったな、ビトー」


 ニヤニヤと嫌らしく笑い続けるデグゥ。自分の目と鼻の先に迫る、僕の怒りに燃えた顔にも彼は怯まない。


(デグゥ……!)


 だから僕は――


「……僕は本気だ。こんなこと君にしたくなかった。だけど君がユーリカに手出しするって言うなら、僕は躊躇わない……!」


 懐に隠し持っていたフリントロック式の短銃。その冷たい撃鉄を静かに起こすと、僕は銃口をデグゥの頭に向けた。


「……なんだ、追い詰められて仕方なくオレの前に姿を現したと思っていたが、それなりに覚悟を決めてここに来たんだな。大人になったなァ、ビトー」


 僕がほんの少し指先に力を込めれば自分は死ぬ。だというのにデグゥはからかい混じりの口調で変わらず話し続ける。


「教えてやるよビトー。あのエルフ女はな、遠征中お前のことをずっと健気に心配し続けていたよ。オレはずっとコイツの中で見ていた。オレはそれが羨ましかった。誰かに心配されたり愛されることなんか、この二十年はおろか生まれてから一度も無かったからなァ。だからオレは壊してやったのさ。裏切り者のお前が幸福になるのは許せなかったからなァ」


「デグゥッ!!」


 デグゥは笑う。これでもかと思うほど大きく口を開けて嘲笑い続ける。


 愛する人を愚弄するような笑い方に我慢し切れなくなった僕は、両手で銃の照準を彼の眉間にピタリと合わせた。


 引鉄を引くだけでデグゥは死ぬ。いくら英雄の力をその身体に宿すとはいえ、頭を吹き飛ばされたら死なないわけがない。この距離なら絶対に外さない。彼は言ってはいけないことを口にした。僕は自分の中で肥大する憎しみを感じながら、引鉄に掛けた人差し指に力を込めていった。


 ……だけど僕の指はそれ以上動かない。引鉄に掛かったままカタカタと震えている。僕はデグゥの顔と自分の手元を交互に見ながら、なぜ動かないのかと自分の身体に問い続けた。


「……やれよ」


 銃口を前にしても全く恐れないデグゥ。むしろ彼は、僕が引鉄を引くことを期待しているように見えた。


「やれよビトー!!」


 室内の乾いた空気が震えるほど吠えると、デグゥは僕の銃口を自ら自分の額に押し当てた。


 デグゥの据わった双眸が僕を貫く。彼は本気だった。本気で死んでも良いと思っていた。だけど僕は、


 ――出来ない……。


 そう自分の心が無意識に判断すると、僕は震えた手で握った銃を落とし、そして硬い床の上に力の芯が抜けたように崩折れた。


「……お前はいつもそうだな。結局お前は変わらない。変われないのさァ。どんなに綺麗事を吐いても、心の中では自分のことばかり考えてる。オレを殺せないのは、自分の大事な心を守るためだろう? お前が無抵抗のオレを殺したら、お前は救われない過去の罪と一生向き合わなければならない。だからお前はオレから逃げたのさァ」


 脱け殻となった身体でも、僕はデグゥの言葉に耳を傾け内心同意する。


 ……その通りだ。一言一句否定することは出来なかった。僕は怖かった。このままデグゥを殺したとしても、僕は一体何を得られるというのだろう。むしろその後に残る耐え難い罪悪感は、僕が生きている限り呪いのようにこびり付く。


 デグゥは知っていた。僕が何も考えず感情的に銃を構えたこと、決してその引鉄を絶対に引けないこと、そして僕が子供の頃から変わらず臆病で卑怯なことを……。


「なぜお前が今、オレの足元で這いつくばってるか分かるか、ビトー? それはお前が自分の運命からいつまでも逃げ続けているからさ。お前は向き合うべきだった。自分の愚かさと醜さ、そして罪深さからなァ。……あのときお前は逃げるべきじゃなかった。お前はあのとき妹を守って死ぬべきだったのさ!」


 鉛のように重くなった頭上から、デグゥの軽蔑した叫びが聞こえる。


 崩折れたまま動けない僕は、二十年前のあの日の自分の愚かさを呪った。ミヤとデグゥ、彼らを屋敷に置き去りにして逃げた過去の事実が、デグゥの声を通して今の自分を責め嬲る。


 ……僕にはもう、耐えられそうになかった。


「……殺してくれ」


 冷たい床を見ながら呟く僕に、彼は何も答えない。


「僕を殺してくれ、デグゥ……。君にはそれを行えるだけの理由と、資格がある……。殺してくれ、頼む……!」


 デグゥは僕に殺す価値もないと言った。だけど僕にあの日の罪を精算する方法はそれしか残されていなかった。


 そして僕は改めて思う。やはり自分は卑怯者なのだと。心のどこかで僕は、デグゥは僕を殺さないだろうという甘く醜い打算、そんな卑怯な考えが全てを諦観していたはずの自分の脳裏に過ぎっていたのだから。


 だけど――


「その言葉を待ってたさァ……!」


 人が変わったようなデグゥの口調。その打って変わった嬉々とした声色に、僕は驚いて顔を上げる。


 そこには喜びに打ち震えるように破顔するデグゥの顔。そしてその筋張った手には、いつのまにか女性を象った銅像のようなものが握られていた。


「……お前は確かに言った。自分を殺してくれと。つまりオレにその身の全てを委ねるとなァ……!」


 デグゥの妖しい囁きと共に、その手に持つ銅像に奇妙な変化が起こり始める。


 裸体の女性像が右手に下げる両天秤。その左右の天秤皿が上下に激しく揺れ出すと、今度は女性像の閉じられた瞳から赤い液体が止めどなく流れた。そしてその液体が左右どちらの天秤皿も溢れんばかりに満たすと、重さの釣り合いが取れたように激しい揺れはピタリと止まる。


 銅像はそれきり動かない。だけど次に変化が顕れたのは、僕の意識の方だった。


(なんだ……? 何かが、僕の中から……)


 強烈な違和感を感じる。あるはずの胸がポッカリと空いた気がする。僕が僕でない、形容し難い奇妙な感覚……。


 これは僕の中から、僕自身そのものが抜き取られたような……


「これがお前の……。性根に似合わず美しい色をしてるさァ……!」


 自身の違和感に苦しんでいると、眼の前のデグゥが掌で何かを弄んでいた。

 それを見て僕はすぐに理解する。


 デグゥが持つ炎のように揺らめく空色の物体。それは本来僕しか持ち得ないはずの、僕の生命を司る魂そのものなのだと……。


「デグゥ……それは、僕の……」


 返せと言わんばかりに手を前に差し出す僕。だけどなぜか思うように身体が動かせない。陸に上げられた魚のように身悶えする僕を、デグゥは滑稽だというように薄く笑って見下ろしていた。


「……ビトー、お前はおかしいと思わなかったのかァ? なぜオレがここまで懇切丁寧にオレの不遇の生涯を長々と話したと思う? それはオレへの慰めの為でも、ましてやお前に罪を自覚させる為なんかでもない。この神聖遺物オリジナルアーティファクトの使用条件を満たす為さァ。オレが持つ【悪法の偽天秤ドゥラレクス・リーブラ】。これは対象者の精神を司る観念形態イデオロギー、そして対象者自らが放った言霊の霊性を天秤にかける。もしもその精神と言霊に食い違いがあり、天秤がどちらか一方に傾けば、法の女神ミスラカーンに背いた罰として対象者は霊魂を砕かれる。だが天秤のどちらもが等しく同じ重さとして落ち着けば、対象者が放った言霊はどんな馬鹿げた妄想だとしても現実のものとなる。……お前はオレに自分の生命を自由にさせる権利を口にした。そしてその言葉はミスラカーンの審判により、嘘偽りのない真実の言葉として断じられた。これによって【悪法の偽天秤|ドゥラレクス・リーブラ》】の恩恵は対象者に与えられる。つまりお前のオレに生命を自由にさせる言葉は真実となり、生命の証であるお前の魂は具現化されオレに譲渡されたのさ」


 デグゥは嬉々として話す。だけど僕には訳が分からない。……魂の譲渡? なぜデグゥはそんな回りくどい事をする必要がある。僕を魂ごと消し去りたいのなら、一思いに殺せばいいだけだ。僕はそのことを受け入れている。だからこそ僕は自分を殺すことを彼に頼んだのだ。


 なぜデグゥは、あそこまで大きなお膳立てをして僕の魂を……。


「ようやくこれで交渉が出来る……! オレはついに英雄王が残した、あの神聖遺物オリジナルアーティファクトを……!」


 デグゥはもはや足元で悶える僕のことなど眼中にない。聞き取れない独り言を呟きながら、新しい玩具を手にした子供のように興奮している。


 そして彼は充血した眼で広間中をギョロギョロと見渡すと、


「どうせ近くで見てるんだろう、ミヤぁ! 隠れてないで出てくるさァ!」


 屋敷中に響き渡る声量で声を張り上げた。


(ミヤ……?)


 ミヤが近くにいる? それにデグゥはミヤを探していた? でもどうして? なぜ今になってデグゥが……?


 あまりにも多い疑問。それらが頭の中で消化されずに駆け巡っていると、僕はふと、自分の背後に不思議な気配を感じた。


「……やっぱり近くで聞いていたんだなァ」


 デグゥもその気配に気付いたのだろう。彼は僕の背後に敏感に目をやると、そこに佇む淡い存在に笑いかけた。


 ……ミヤ。


 その光ともガスとも区別がつかないあやふやな物質で構成された姿。それは紛れもなくミヤの霊体だった。自殺しようとした僕の前に突如として現れ、そして幻のように消えた、あの幽霊屋敷を彷徨う少女の姿だった。


「久しぶりさミヤ……。その姿で会うのは、オレがこの身体でアルバート村を滅ぼして以来だな。オレはあの時の約束通り、お前からアレを返して貰う為に戻って来たさ」


 デグゥは昔のように優しくミヤに語りかける。だけどミヤは怯えていた。怯え切っていた。僕のあげた人形を強く胸に抱きしめ、両目を固く瞑りながら震えていた。


 その胸が締め付けられる妹の姿に、兄である僕は見ていられなくなった。自分の身体がほとんど動かないのも忘れて、僕は無我夢中でデグゥの足元に縋り寄った。


「デグゥ、頼む……! 妹には、ミヤには手を出さないでくれ。もうミヤは死んだ。充分苦しんだんだ。もちろんそれは僕のせいだ。君に非はない。だけどこれ以上妹に辛い思いをさせないでくれ。僕はどうなってもいい。だから頼むデグゥ、ミヤだけは……!」


 僕の醜く無様な姿での懇願に、デグゥは露骨に不快な顔を作る。


「……何か勘違いしていないか、ビトー。お前はオレのことを狂った殺人鬼か何かと思っているのかァ? オレはな、自分の幸福の為に最善の行動をしているに過ぎない。その為にやむを得ず幾許かの犠牲者が出た。だけどそれは世界中で行われている小競り合いや戦争と何が違う? 誰だってそれぐらいの犠牲は承知の上でこの世界を生きている。それにオレがミヤのことを傷付けるわけがないだろう。ミヤはオレと同じ悲劇を受けた同志なんだ。こんな姿になったオレのことを理解してくれる、たった一人の信じられる仲間なんだよ。……裏切り者のお前と違ってなァ!」


 自分の足に纏わり付く僕の顔を、デグゥは平然と蹴りつけた。鼻血を出して床を転がる僕は、それでもデグゥに媚びへつらうように彼ににじり寄った。


「気色が悪いんだよ、お前は……!」


 デグゥの固い足が再び僕の顔面を蹴ろうとする。僕はそれを防ごうとしない。無抵抗のまま受けようと覚悟した。それで彼の気が済むのなら、僕はいくらでも蹴られるつもりだった。


 だけど彼の大きく振りかぶった右足。その血で汚れた足は突然目標を見失ったかのように、僕の目の前でピタリと止まる。


「……ミヤ。そんなにろくでなしの兄貴が大切かァ?」


 床に這いつくばって身を固くする僕を、ミヤが両手を横に広げて守るように立ち塞がっていた。


 僕からミヤの顔は見えない。だけどその顔に表れた表情はきっと、強い決心を秘めているに違いなかった。


「……まぁ、お前が止めろって言うなら止めてやるさァ。お前はオレの大切な友人だからなァ。︙︙でもな、ミヤ。あの聖遺物アーティファクトをいつまでもオレから隠すのは良くないさァ。アレはオレのものだ。オレが持つべきものなんだ。オレはお前には決して乱暴はしない。だけどお前がアレの在り処を教えなきゃ、お前の兄貴は死ぬことより辛い目にあうぞ……!」


 そうミヤを脅すように低音で囁くと、デグゥは何もない空間から空色の揺らめく物体――僕の魂を手品師のように手元に出現させた。


「ミヤ、霊体となったお前には分かるはずさ。このビトーの魂を真に所有している者が誰なのか。そして自分の魂を他者に渡すことがどれだけ危険なことかもなァ。︙︙もしもオレが気まぐれでこの魂を傷つければ、これからビトーの身体に一体何が起きると思う?」


 デグゥが真顔のまま、口角だけをゆっくりと吊り上げる。その右手は僕の魂を優しく撫でていた。だけどデグゥは突然両眼をカッと見開くと、撫でていた右手で僕の魂をギリギリと強く握り締め始めた。


「ああああああああああああああ!!!!!」


 全身を稲妻が駆け巡るような、脳に急激な過負荷が生じる鋭い痛み。自身の感覚器官が全て焼き切れたような耐え切れない苦痛に、僕は絶叫と痙攣を繰り返して固い大理石の上をのたうち回る。


 唐突過ぎて何が起きたのか分からない。頭のてっぺんから足の爪先までの全神経を、鉄ヤスリで何往復も削られた感覚。痛いとか苦しいとかいうレベルを超えている。これほどの痛みで気絶しないのが不思議だった。


「少し強く握っただけでこうなるのか。まさに魂が引き裂かれたような、凄まじい絶叫だったさァ。……もしこのナイフで滅茶苦茶に切り裂いたりでもしたら、今度はどうなるんだろうなァ?」


 倒れても痙攣が止まらない僕の眼に、デグゥに迫られたじろぐミヤの姿が映る。


 ミヤは横目で満身創痍の僕を見て、どうすればいいのかも分からずさめざめと泣いていた。


「古の大賢者グル・ヌンダイが残した魔導書グリモワール。その神霊魔術が記された章の一節にはこう書かれていた。【魂が破壊された者に永遠の安らぎは訪れない。ひたすら苦痛を与えられ、魂魄がすり切れるまで絶望を味わい続ける。もしも地獄というものがあるのなら、それは魂を破壊された先にある】……ミヤ、お前はそれでいいのか。お前が聖遺物アーティファクトを隠し続ける限り、オレはビトーの魂をいたぶり続けるさァ。最後にお前を見捨てたとはいえ、ビトーは幼いお前をずっと守り続けてきた。その兄貴が無限に等しい責め苦を与えられることに、妹のお前が耐えられるのか? お前はいずれ成仏して天国に行けるだろう。だが魂が破壊されたビトーはどうなる? 間違ってもお前やお前の両親と同じところには行けないだろうなァ。……ミヤ、お前が意味のない意地を張り続けるせいで、お前の大事な兄貴は地獄に堕ちるのさァ」


 ミヤは泣いている。霊体となって声こそ聞こえないが、ミヤはデグゥに恫喝されてすすり泣いていた。


「ミヤ、今ならまだ間に合う。お前が聖遺物アーティファクトの隠し場所を教えれば、オレの気が変わるかもなァ」


「……ミヤ、ダメだ」


 ようやくひどい痙攣が治まって、口が開くほどに回復した僕は、全ての力を振り絞ってミヤに語りかける。


「ミヤ……お前がなぜ…頑なに聖遺物アーティファクトをデグゥに渡さないのか…僕には分からない。だけどお前は…それを渡せば良くないことが起きると思ったから……だから二十年もの間…たった一人で隠し続けてきたんだろう? ……だったら自分が正しいと思うことを…やるんだ。僕のことは…考えなくて……いいから……」


 必死の思いでミヤに全てを伝えると、もう顔を上げることすら出来なくなった。


「そうだなビトー。オレも心からそう思うよ。お前は正しい判断をするべきだ、ミヤ……!」


 デグゥに決断を迫られたミヤは、虫の息で倒れ伏す僕を見つめる。


 その時ミヤが何を思ったのかは僕には分からない。だけどミヤは怯えた顔からほんの少し決意めいた緊張を滲ませると、とうとう彼の要求に屈してしまった。


 ミヤは持っていた人形の背中を裂くと、中からサークル状の金属片、指輪のようなものを取り出した。


 二匹の蛇が絡み合い、互いの尾を食む意匠が凝らされた、どこか不気味な指輪――。


 その赤銅色の指輪を、ミヤはデグゥの傍まで歩み寄って差し出した。


「……いい子だ、ミヤ。やっぱりお前だけはオレの味方さァ」


 デグゥはこぼれ落ちる笑みに顔を歪ませながら、その得体の知れない指輪を恭しく受け取る。そしてすぐに目を凝らして、自らの鑑定魔法を惜しげもなく使った。


「……ハハ、間違いないさァ。これは本物だ……! 聖王家に伝わる伝承は本当だった。この【転生者の御印ルクス・レナトゥス】は英雄王の……これでオレはもう一度……!」


 デグゥは忘我の表情で、鑑定した指輪を食い入るように見つめる。


 その熱に浮かされた彼の姿。それは僕に少年時代のデグゥを彷彿とさせる。自身の壮大な夢を気持ちよく語る過去のデグゥと、指輪に心奪われる今の彼の姿が、僕の脳裏で不思議なくらいピッタリと重なった。


(何だ……?)


 後方から大きな音が聞こえた。何かが爆ぜるような激しい破壊音。僕には振り返る余力もないが、音の出所はきっと屋敷の正面玄関エントランスホール……。


 デグゥはその衝撃音でハッと我に返ると、指輪を素早く懐にしまって天井部の天窓を見た。魔術で封印された天窓からは、いつのまにか微かな陽光が漏れ出していた。


「外が騒がしくなってきたな。ガルデロッサ達が起き出したか……。オレが張った結界もすぐに破られる。そろそろお暇しないとマズイな。……だけどその前にやることがあるさァ」


 デグゥはこちらに鋭く視線を向けると、脇目も振らず僕に近づいてきた。彼の表情は固くて昏い。そしてその手には刃先が鈍く光る短剣を携えている。


 ――殺られる。


 瞬間的にそう思ったが、デグゥが取った行動は真逆のものだった。


「……どうしてだ、デグゥ」


 デグゥは倒れた僕の身体に、僕の魂を戻していた。


 すぐに魂は僕の身体に馴染むと、蝕み続ける息苦しさからようやく解放された。


「勘違いするなよ、ビトー。オレはお前のしたことを許しちゃいない。今でも殺したいほど憎んでいるさァ。だけどオレはミヤと取引をした。そしてミヤは対価を差し出した。だったらオレは約束を守るさ。オレは友達の信頼を裏切るような、身勝手な卑怯者じゃないからな」


 その言葉の裏側に、僕はあの日彼がどれだけ僕に失望したかを感じさせた。そして彼もまたあの日の記憶によって苦しんでいる。それは記憶を自ら消した僕なんかよりもずっと、強く、深刻な、それこそ決して解けない呪いのように……。


「デグゥ、僕は――」

「黙れビトー」


 どうにか彼の苦しみを和らげたい。そんな風に思って口を開いた僕を、デグゥは殺気を全身から漲らせて牽制した。


「オレはもうお前と話すつもりはない。お前の言い訳じみた自己弁護なんて死んでも聞きたくないのさ。オレが裏切り者のお前とこうして会ったのは、聖遺物アーティファクトを隠すミヤとの交渉においてお前の存在が必要だと思ったからだ。断じて過去の行いを認めさせるわけでも、お前に罪を償わせるわけでもない。オレはオレの為に、もう一度あるべきだったはずの人生を取り戻したいだけさァ」


 返す言葉もなく立ち尽くす僕に、デグゥは路傍の石ころに送るような冷たい目を送る。


 そしてどこか空虚な笑みを一瞬浮かべると、おもむろに古代語呪文の詠唱をし始めた。デグゥを中心とした周囲に強大な魔力の流れが渦巻く。それら集束した魔力塊を上空へと導くと、彼は軽く手を掲げて巨大な火球へと変換させた。


「ビトー……お前が本当にオレに殺されることを望むのなら、黙ってここに残ればいい。この屋敷はあまりにも多くの悲劇を産み過ぎた。もう充分人喰い迷宮としての役目を果たしただろう。英雄王もきっと、オレが行うことを赦してくれるはずさァ」


 デグゥはそう僕に向かって呟くと、緩やかに掲げた手を振って、燃え盛る火球を広間の中央に落とす。火球は地面に着地して勢いよく弾けると、部屋の中のあらゆる家具や布地に燃え移った。火球が生み出した猛烈な火勢によって、広間中が一瞬で燎原へと化す。


 僕は火の海の只中に一人取り残される。視界の中にいたはずのデグゥの姿は、炎の揺らめきと共に忽然と消え去っていた。


「デグゥ……」


 僕は親友の名を呟く。だけどその名は炎が爆ぜる音で掻き消えた。


 彼に僕の声は届かない。きっと、もう二度と……


「燃え落ちる……」


 仲間の死体を糧にした炎が、怒り狂う蛇龍のように屋敷の隅々に広がっていく。奥廊下を舐めるように支配した炎は、もはや吹き抜けの天井にまで届く勢いだった。僕はそれを呆然と立ち尽くして眺めている。皮膚を炙るような猛烈な熱波に晒されても、僕はその場から動こうとしなかった。


 ――このまま炎に巻かれて死ぬのもいい……。


 僕はこの屋敷と運命を共にするつもりだった。それが自然なことだと思った。デグゥはついに僕を殺してくれなかったけど、間接的に贖罪するチャンスをくれた。僕はその機会が与えられた事実に感謝し、そして言いようのない安堵も感じた。僕はずっと死にたかったのかもしれない。デグゥとミヤを見殺しにした、二十年前のあの日から……。


「ミヤ……」


 報いである死を受け入れた僕。その生ける骸と化した僕の前に、霊体のミヤが形を成していく。


 ミヤは炎に身を焦がされても泰然とする僕に、イヤイヤをするように激しく頭を振っていた。


 その感情的なボディランゲージは、兄である僕じゃなくても分かる。ミヤは僕にこう伝えたかった。


 ――僕がやるべきことは、そうじゃないと。


 ミヤは僕に陰りのある顔を浮かべると、燃え盛る屋敷の奥へと消えていく。まるで僕が必ず着いてくるだろうと信じ切ったように、振り返ることもなく、足取り軽やかに……。


 本当にいいのか、これで――


 ミヤに諭されて僕は思う。ここで死ぬことが、本当にデグゥとミヤへの贖罪になるのだろうか。僕はまた、困難な現実から目を逸らし、一人逃げ出そうとしているのではないのか……。


 そんな忸怩たる思いに駆られると、僕の足は自然にミヤが消えた先へと動いていく。どうしてかは分からない。だけどこのまま死ぬべきではないと思った。訳も分からず歩みだけを進める僕は、ミヤの後ろ姿だけを頼りに、立ちはだかる炎の壁を我武者羅に突破した。


 そして僕はミヤに追い付く。まだ炎の及ばない廊下に静かに佇む彼女は、部屋の中をゆっくりと指差すと、そのまま廊下の闇の中へと溶けるように消えた。


(ミヤ……)


 僕はミヤが導いた部屋に駆け入る。そこにはやはり彼女がいた。ユーリカは変わらずベッドの上で、何も知らずに深い眠りの中にいた。


 僕の耳に炎が近付く音が聞こえる。考えている暇はなかった。僕は眠るユーリカの上半身を起こすと、無理やり持ち上げて背中に担いだ。


「いやっ……!」


 背負った衝撃で起きたのだろう。微睡みから目を覚ましたユーリカは、錯乱したように僕の背中から降りようとした。


「行こう、ユーリカ」


 だけど僕は彼女を離さなかった。決して離すつもりはなかった。激しく暴れる彼女の身体を固く支えて、炎の魔の手が迫る部屋を飛び出した。


「……どうして……どうして私なんか……」


 耳元でユーリカの、嗚咽するような声が聞こえた。


 必死に屋敷の出口を求めて駆ける僕には、彼女の言葉の真意を訊ねる暇もない。


 だけど僕は確かに感じていた。背中越しに伝わる彼女の体温、息遣い、そして放たれた言葉。それら僕が愛したものによって、僕の生きたいというエネルギーが息を吹き返したことに。


(これは……)


 だけど現実は残酷だった。ようやく生きたいと願う僕に非情な現実を突き付ける。炎が屋敷を包むスピードは予想以上に早く、僕らの行く道、更に退路をも奪っていた。もはや一時避難する逃げ場所すらなく、僕は四方を囲まれた火炎の海の中で、為す術もなく立ち往生するしかなかった。


 ――もう駄目かもしれない。


 そんな悲観的な考えが過って足を止めた僕の眼に、消えたはずのミヤの姿が映る。


 炎の中で浮かぶミヤの霊体。彼女は八方塞がりの僕らを見ながら、とある方向へ指を差していた。そこは先すら見通せない一段と炎の壁が厚い場所だったが、ミヤはジッと僕を見つめて固く指を差し続けていた。


(そこに出口があるんだな……!)


 僕はミヤを信じてユーリカと共に炎の中に飛び込んだ。


「ビトー殿!」


 飛び込んだ先には、広間と繋がる正面玄関エントランス、そして必死に消火活動をするガルデロッサ達がいた。


 部下達の指揮を取っていたガルデロッサ。彼は急に二階廊下に現れた僕らに気付くと、驚愕の表情を浮かべて階段を駆け上がって来た。


「ビトー殿、生きておられたか! それにユーリカ殿も! ……聞きたいことは山ほどあるが、まずは屋敷の外へ避難を!」


 ガルデロッサは数人の部下を呼び寄せると、僕らを外へ連れ出そうとした。


 だけど僕は――


「ユーリカを頼みます」


 背負っていたユーリカをガルデロッサに引き渡して、再び炎の中に引き返した。


「なっ……!? ビトー殿どこへ!」


 僕を制止させようとするガルデロッサの声が薄れていく。天井が焼け落ちるほどの猛火の中へ戻った僕は、ひたすら元いた場所へ進んでいった。


「ミヤぁっ!」


 もう見捨てたくなかった。偽りたくなかった。たとえ彼女が炎に焼かれない霊体だとしても、たった一人だけでこの屋敷に置き去りにするようなことはしたくなかった。


 これは僕のエゴだった。贖罪のつもりでも何でもなかった。僕の生還した魂が叫んでいた。兄として家族として、何よりビトー=アルノーゼとして、妹のミヤを守るべきだと……。


「ミヤっ! 待ってろよ! すぐに僕が助けに行くからな!」


 さらに炎の奥へ分け入ろうとした瞬間、突然何かにぶつかったかのような衝撃を受ける。そして僕の身体は遥か後方へと吹っ飛ばされた。一瞬で僕の身体はガルデロッサ達がいる正面玄関エントランスに戻され、倒れた僕は彼らに介抱される。


「ミヤぁっ! どうしてだ!」


 僕を吹き飛ばしたのがミヤだとはすぐに分かった。あんなことをするのはミヤしか考えられなかった。ミヤは自身の念動力テレキネシスを使って、無謀な試みを行う僕を助けようとしたのだ。


「下がってください!」


 また炎の中に戻ろうとする僕を、ガルデロッサの部下が無理やり連れ戻す。


 僕は力の限り抵抗したが、数人の男に羽交い締めにされ、引きずられるようにして外に出された。


 蒼い半月が昇る暁の中で、全身煤けた僕は屋敷の前に立ち尽くす。幽霊屋敷を包む送り火のような業火は、白みかけたアルバート村の空を真っ赤に染めていた。


 火炎に炙られてギシギシと軋み始めるクロムウェル公爵邸。それはまるで自らの業を抱えきれなくなった幽霊屋敷が、苦しみ喘いだ末の断末魔を上げているように思えた。


(ミヤ……!)


 僕は気付く。


 燃え落ちていく屋敷の三階の窓に、少女の姿がぼんやりと見えた。少女は地表で忙しなく動く人間たちの中から、確かに僕一人だけをジッと見下ろしていた。


 そしてその少女は抱えていたボロボロの人形を優しく抱きしめ直すと、二度その小さな瞼を瞬いて、僕に笑ったように見えた。


「ミヤ……ミヤ……」


 屋敷が完全に崩壊する。炎が最後の気力を振り絞るように、大空高く舞い上がる。上階が音を立てて崩れ去ると共に、少女のその姿は蜃気楼のように消え去っていった。


 だけど僕の脳裏には、彼女の微笑む姿がいつまでも残った。


 僕は大地に膝を付いて嗚咽する。未だ多量の熱を持つ眼窩からは、止めどなく後悔の涙が溢れ出た。


 ――ミヤは死んだ。もう二度と戻ってこない。


 その当たり前の事実を噛み締めながら、幽霊屋敷が完全に崩落するまで、僕はずっとその場から動けなかった。


 動けば僕の脳裏で微笑むミヤの姿。そんな儚い一瞬の現実さえ、うたかたの夢のように消えてしまう気がしたから……

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