(2) 少年ビトーの罪
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僕の手をするりと抜けて自由落下する。大理石に大きな音を立てて着地したそれは、役目を終えたと言わんばかりに輝きが失われていた。
僕は全てを思い出した。あの二十年前の二重満月の夜、この幽霊屋敷で起きた全てのこと。
僕はあの日すべてを失い、そしてすべてを失うことで辛うじて命を繋ぎ止めた。
僕は家族以上の存在だったミヤとデグゥを見捨てることによって、自分の大切な生命を守り通したのだ。
あの時の僕だって分かっていた。それが絶対に犯してはならない間違いだということは。だけどその間違いに気付いた時には、何もかも手遅れだった。
「……どうしてだ」
僕は床に膝を突き、冷静さを欠いた声色で力無く呟く。
「どうして君はあの時、僕を助けるような真似をしたんだ……」
デグゥは答えない。ただ、何も言わずに僕を見下ろしていた。
「盗賊が僕の演技に気付きかけた時、あのとき君は確かに自分の名前を僕に向かって呼んだ。盗賊はそれで僕を君だと勘違いした。それがあったから僕は助かった。だけどあんなことをしなければ、君は自分自身が助かっていたはずなんだ」
僕の必死の訴えにも、デグゥは頑なに答えようとしない。
彼は黙って暖炉に近付くと、新しい薪を律儀に焚べ続けた。
「どうしてだッ!」
僕は怒鳴る。
この状況でそんな立場にいられるわけがないのに、僕は黙したままのデグゥに対して感情的に叫んだ。
すると彼はおもむろに僕に振り返り、
「信じていたからさァ」
そう何事もないように、たった一言昔の口調であっさりと答えた。
「……信じていた?」
「ああ。お前ならきっと、盗賊共から上手く逃げ出して、捕まったオレたちを助けられると思っていたのさ。ミヤは当然だけど、オレもあのとき朦朧として意識がほとんどなかったのさ。そんな状態でオレ一人が外に出れても、残ったお前らを助けるのは無理だと思った。だからビトー、お前に全てを託したのさァ」
デグゥは再び暖炉に向く。燃え盛る炎を更に勢い付かせようと、手に持った火かき棒を機械的に回し始めた。
「……君は、僕があのまま一人で逃げるとは思わなかったのか?」
「思わなかった。ビトーなら必ず助けてくれると信じていた。それだけお前のことを信用していた」
はっきりと断言するデグゥ。その揺るがない意思が表れた後ろ姿に、僕は少年時代の彼の姿を重ねていた。
本音だと思った。偽りのない言葉だと思った。あの日彼は本当に、僕が助けに戻ると固く信じていたのだ。
だけど僕は見捨てた。自分だけが助かる為に、盗賊の一瞬の隙を突いて森の中に逃げ込んだ後も、僕はアルバート村に帰ることもなく聖都を目指した。
聖都なら盗賊も追ってこられない。そう考えた僕は家畜を運搬中の荷馬車に潜り込み、汚い餌と糞に塗れながらどこへ行くのかも分からず運ばれて行った。その道中も僕はいつ盗賊の追手が現れるのかと怯え続け、残されたミヤとデグゥの行く末を考えることもしなかった。ようやく自分の行いが間違いだと気付いた頃には、西の空で再び太陽が沈み始めていた。
「あの後のことを知りたいか? ビトー」
火かき棒を置いたデグゥが、真っ直ぐに僕を見て訊く。
今度は僕が答えられずにいると、デグゥは構わず話し続けた。
「オレとミヤはあの暗い地下室で待ち続けた。きっとすぐにお前が助けてくれる。そう信じながらなァ。だけどお前は来なかった。いくら待っても来なかった。次にあの地下室の扉を開けたのは、全身白ずくめの奇妙な男たちだったのさ」
デグゥは決して、僕を責めるような口調ではなかった。あの日起きた事実だけを抜き出して語るような、事務的な報告だった。
「白ずくめの男たち……。奴らは部屋に入るとすぐに手術道具を並べ始めた。そしてミヤのベッドを取り囲むように円陣を組むと、何か呪文めいた言葉を全員でぶつぶつと唱え始めた。オレはすぐに気付いたさ。その呪文が悪しき存在を崇拝する古代語だとなァ。孤児院で信仰させられた美徳の女神マール。毎日懸命に祈っていたその神の名を、奴らは呪文の中で口汚く罵っていた。お前も軍に所属していたなら良く聞いたはずさ。奴らは魔神崇拝の邪教徒。この二十年でマール教に追いつくほど勢力を伸ばしたらしいなァ」
デグゥはなぜか皮肉るように笑った。
「奴らは長い呪文を唱え終わると、自身の腕を切ってその血をミヤにふりかけた。奴らの汚い血液が自分の唇を汚しているってのに、当人であるミヤは起きなかった。それだけミヤの眠りは深かった。よっぽど薬が効いていたんだろうな。もしくはオレが知らないだけで、とっくにミヤは死んでいたのかもしれない。ミヤは衣服を剥がされて腹を切り裂かれても、呻くことも暴れることもなくベッドの上でジッとしていたのさ。そして流れるような切開手術が終わり、内臓を全て摘出されて瓶に詰められると、残ったガワはゴミのように排水溝に投げ捨てられたよ。かつてミヤだった容れ物は、人形のように大人しく虚空を見つめていたさァ」
妹の残酷な人生の結末。その顛末を当事者である彼から聞くことは、生々しい迫力を伴って僕の精神を襲う。その時のミヤの惨い姿を想像して、僕はえずきながら腹の中のものを全て外に戻しそうになった。
「だけどまだミヤはマシだったさ。痛みも恐怖も感じず、すぐに死ねたんだからなァ」
デグゥは再び皮肉な笑みを浮かべると、今度はすぐに真顔に切り変わる。そして鋭い視線で、僕を見定めるように見つめた。
「オレはな、ビトー……まだ痛みを受け続けている。まだあの日の拷問は、二十年経った今でも続いているのさ……」
デグゥは感情の読めない顔で言う。だけど僕にはその言葉の意味することが分からない。
そんな僕の訝しげな眼に気付いたのか、デグゥはわずかに感情を乱す。そして自身の胸に手を当てると、
「……嘘だと思うか? じゃあこれを見ろよ」
アルヴィン専用の聖鎧を緩慢な動作で自ら外す。床にその精巧な鎧がボトリと落ちると、ものの数秒で上半身裸になった。
そこに顕になったものに、僕はかつてない衝撃を受けた。
それは――僕の知るヒトの身体ではなかった……。
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