記憶ー4
身体は痛みを覚えていた。脳は衝撃を忘れずにいた。この身に宿る細胞は全て、あの日の出来事を断固として記憶していた。
この記憶を掘り返してはいけない。これは最後の警告だった。
だけどもはや抗えない。今や本能で拒否する
彼が言っていたことが今身に沁みて分かる。思い出したくない記憶を無理やり思い出させられることは、何にも耐え難い地獄のような痛みなのだと。
僕は一体どんな罪を犯したというのか。記憶を消し去るほどの行為とはなんなのか。
今の僕にはまだ分からない。だけどそれはすぐに分かるだろう。
これから見ることになる過去の記憶は、僕が自らに禁忌として秘めていた最後の
僕は今からそれを見なければならない。受け止めなければならない。それが彼の望みであり、唯一の救いであるから。
だけどそのあとに待ち受ける運命――全てを思い出した僕は、一体どうなるというのだろう……
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ぼうっとした頭に、声が聞こえた。
汚い、粗野な、醜い感情を隠そうともせずそのまま喋る、自分勝手な嗄れ声。
その聞き慣れない不快な声同士の諍いで、僕は途絶した意識からゆっくりと目覚めた。
(声が出ない……)
僕はすぐに気付く。自分の口に猿ぐつわをされ、両手足を鉄輪で拘束されていることに。
持てる限りの力で手足をバタつかせるが、拘束具が外れることはおろか、自分の身体を満足に動かすことさえ出来なかった。
唯一動かせるのは首だけ。頭をわずかに傾けることで、自分が手術台のような固いベッドに寝かせられていることが分かった。
「おぅ。もう起きたのか、兄ちゃん」
急に頭を雑に叩かれ、僕はギョッとして硬直する。
頭上に見えるのは僕を蹴りつけた盗賊。頬に十字傷を持つその男が、ニヤニヤと気味の悪い笑顔で僕を見下ろしていた。
「お友達はまだ寝てるぞ」
盗賊男が顎をしゃくる。その顎の示す先に首を傾けると、ほんのすぐ近くの距離でデグゥとミヤが眠っていた。二人も僕と同じように手術台の上で拘束されて寝かせられている。
二人ともぐったりとしている。ピクリとも動かない。死んでいないことはわずかに上下する腹部の動きで分かるが、あれはただの気絶じゃない。何か気を失わさせるような薬物を強制的に摂取させられたのだ。
けれどデグゥはそれだけじゃないはずだ。デグゥの顔は紫色に大きく腫れ上がっている。元の骨ばった輪郭がまるで無くなってしまっている。親しい者でなければ、彼がデグゥだと分からないほど顔の形が変わってしまっていた。きっと僕が盗賊に気絶させられた後、デグゥは激しく抵抗して、僕なんかよりもよっぽど多く殴られたのだろう。でなければあそこまで顔が腫れ上がることはないのだから。
「うあ! えうう!」
猿ぐつわをしたまま二人の名前を呼ぶ。だけど反応はなかった。それでも僕は二人の名前を呼吸できなくなるまで必死に呼び続けた。
「うるせぇんだよッ!」
唐突に固定された頭を殴りつけられて、脳みそが揺れて世界がぐらつく。歯を食いしばって頭上を見上げると、そこには巨漢の男が角材を握って僕を見下ろしていた。
「なに睨んでんだテメェ!」
巨漢の男は磔にされた僕を角材で滅多打ちにする。何十発叩いても止める気配がない。気絶する寸前まで殴られるが、僕はそれでも叫ぶことを止めなかった。
その混沌とした状況を見かねたのか、十字傷の盗賊が仲間である巨漢の暴行を止めて、ぐったりとした僕の耳元で囁いた。
「やめとけ兄ちゃん。もう麻酔代わりの葉っぱは一枚も無ぇんだ。それ以上大声出すってんなら殴るだけじゃ済まねぇ。お前の舌を切り取って黙らせなきゃいけなくなる。俺達だってそんな惨いことはガキにはしたくねぇ。痛いのは解剖されるときだけで充分だろ?」
かい……ぼう……?
紙タバコを吹かしながら、盗賊は恐ろしいことをさらりと言った。
僕はようやく理解する。こいつらはやるつもりだ。カムリのようにする気なのだ。僕らの身体を原型が分からない程バラバラに解体し、全ての臓器をあますことなく瓶に詰めて売るつもりなのだ。
そう瞬間的に頭が理解すると、僕は恐怖に呑まれて一層激しく抵抗した。
「わああぁぁああぁあああ!!!」
「このクソガキがッ!」
僕は再び殴られる。巨漢の男は容赦なく僕の顔面に向けて角材を振り下ろす。
だけど僕は暴れ続ける。自分の血で両目が汚れても、声が掠れて出なくなっても、僕は意識がある限り叫んで抵抗した。
……何分、何十分、僕は喚き続けていただろうか。間断なく責められる盗賊の暴力にも耐え、僕は誰に届くはずもない絶叫を地下室に響かせていた。だけどそんな抵抗する力も次第に萎え始める。身体が言うことを聞かなくなったわけではない。まだ体力も残り僅かだが残されている。だけど僕は分かってしまった。頭の芯まで理解してしまったのだ。この絶望的な状況を覆すことは、それこそ奇跡でも起きない限り絶対に叶わないのだと。
そう一度考えてしまうと、僕は抵抗することの無意味さを悟ってさめざめと泣き始めた。それでも巨漢の盗賊は、僕を執拗に殴ることを止めなかった。
「このガキ泣きながら漏らしてやがる……。お前ももうやめとけや。死んじまったら使いもんにならねぇだろ」
「構わねぇよ! どうせこいつはバラ売りだ! 生きてようが死にたてだろうが問題ねぇ!」
「それもそうか」
十字傷の盗賊はあっさり納得して引き下がった。僕はなおも血を見て興奮する巨漢の盗賊に殴られ続けた。
…………
………
……どれくらい経ったのだろう。殴られすぎて時間の感覚がない。もはや痛みすら感じないほど身体は鈍麻している。だけど僕はこのまま殴られ続ける方がマシだと思った。あの部屋で見た子供たちのように解剖されて臓器を引きずり出されるくらいなら、僕は半殺しの目に遭い続けた方が遥かにマシだった。なんならこのまま死んだって良いとさえ思った。
ミヤとデグゥは僕が激しく暴行されていても起きる様子はない。相当に強い薬を打たれたのだ。僕には彼らが羨ましい。同じ運命を辿るはずなのにデグゥとミヤが恨めしい。僕もあのまま薬が効いて眠っていれば、痛みも感じず残酷な事実も知らずにあっさりと死ぬことが出来た。なのに僕は起きてしまった。この地獄を知覚するために戻ってしまった。あの盗賊は麻酔代わりの葉っぱはもうないと言っていた。だとしたら僕は覚醒したまま解剖されるのか? それはどれほどの苦痛と恐怖なのだろう。はたして人間に耐えられるようなものなのだろうか。
そのこれから必ず訪れる事実を考えるだけで、僕は生まれたことを後悔するほど狂いそうになった。
「……あん? 何だ新入り、お前らもう戻って来てたのか?」
気付くと部屋の中に知らない亜人の男が入っていた。背の低い毛むくじゃらのコボルトの亜人。そいつは十字傷の男にヒソヒソと耳打ちをしている。今なお殴られている僕は、ぼんやりと彼らのその様子を見ていた。
何事かの相談を終える盗賊二人。話し終えた亜人は僕らに目も暮れず、すぐに部屋を出て行った。
「おいバゾド、ガキ殴るのやめてちっと耳貸せや」
十字傷の盗賊が、バゾドと呼んだ巨漢に命令する。
「チッ、何だってんだよ。これからこのガキがどう命乞いするかがお楽しみだってのに。……まさかジンバ、騎士団のクソ犬共が攻めて来たのか?」
「違ぇよ。お頭が捕まえたガキを連れて来いとさ」
「……はぁ? まさかこいつら解放すんのか?」
「ああ。だけど一人だけだ。デグゥってガキを連れて来いとさ。孤児院から逃げ出したガキらしいが、ゼーマンの野郎が返せってうるせぇんだよ。そいつは殺しちゃまずいらしい」
「なんだそりゃあ。親がいねぇなら殺しちまったっていいだろ。こんな孤児のガキ一人や二人いなくなってもまともに探すやつなんていねぇんだからな。それにどうせ数年もすりゃあ貴族共の起こした戦争に駆り出されて、虫ケラみてぇにおっ死んじまう運命なんだからよ」
「村の奴らは迷信深いんだよ。デグゥってガキは村を興した入植者の子孫らしい。そいつを孤児院に入れるのは黙認しても、盗賊に売り渡すのは気が引けるんだろうな」
「……ケッ、村ぐるみでどこともしれねぇガキどもを手当り次第引き取っては売ってるくせに、身内には甘いってか。ヘドが出るぜ」
「そう言うな。持ちつ持たれつの関係だろ。俺らもこれで美味い飯と商売女の股ぐらにありつけるわけだからな」
「そいつは違ぇねぇ!」
盗賊たちの下品な笑い声が耳鳴りの中で反響する。僕はほとんど意識が遠のいて、彼らがなぜ笑っているかも分からない。
「こっちで眠ってるチビはメスガキだ。デグゥってガキは男なんだろ? だったらそいつらの内のどっちかだな」
「チッ、てめぇがどっちもボコボコに殴るから顔が分かんねぇじゃねぇか。こんな落書きみてぇな人相表じゃ役にも立たねぇ」
「二人とも連れていきゃいいだろ」
「一人は移植用に残してすぐにオペなんだよ。もうドクター達がここに着いて準備を始めてる。今からガキ二人連れてゼーマンに確認させてちゃ間に合わねぇ」
「もう来てやがんのか、あの変態ヤローども。大層な研究所から派遣された軍医サマらしいけどよ、どいつもこいつも陰気な上に薄気味悪くって近づきたくもねぇ」
「向こうさんも同じだろうよ。俺らみてぇな小汚ぇはみ出し者とは目も合わせたくねぇとよ。さっさと仕事を終わらせて帰るつもりなんだろ」
「仕事ってあの実験体の移植手術だろ? 本当に成功すると思ってんのかね?」
「そんなもん俺が知るか。俺達はお頭から言われたことをやればいいだけだ。元老院のジジィ共がやろうとしてることなんてどうでもいい。あんまり深く首を突っ込めば寿命が短くなるだけだしな。……とにかくガキはお前が選びな。てめぇが殴ったんだから責任はてめぇで取れ」
「……こいつら起こして名乗らせるか?」
「こんだけ殴られて簡単に起きるわけねぇだろバカが。もうどっちでもいいから連れ出しちまえばいい。二分の一の確率で本物だ」
「ま、元はと言えばゼーマンの野郎がしっかりガキどもを管理してねぇのが悪ぃんだ。俺がどうこう言われる筋合いはねぇ。それにガキを返せばとりあえず言い訳は立つ。違っても変態どもがバラしたとあっちゃあ文句も言えねぇだろ。……こっちでいいか」
カチャカチャという金属が擦れる音。その謎めいた音でふいに意識が戻る。腫れた瞼をわずかに開けると、盗賊たちがデグゥの拘束を解こうとしていた。
――………だ。
――……やだ。
――嫌だッ!
瞬間、心の中で僕は魂がちぎれるほど強く絶叫する。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
――死にたくないッ……!
僕という個を支配する全存在が、あんな残酷な死に方だけは受け入れないと身体の隅々に激しく命令していた。
僕は知っていた。薄れかけた意識の中で確かに聞いていたのだ。
盗賊はデグゥだけを解放する気だ。僕とミヤを解放する気はなかった。だけど奴らは僕とデグゥを判別出来ずにいた。そして結局、僕は選ばれなかった。
――僕は……死ぬ?
その運命を決定させようとする眼の前の事実が、僕の痛みで微睡んだ頭を一気に覚醒させた。
「ビトー……」
それが壊れた猿ぐつわの間から漏れる、自分自身の喉から出た微かな声だと気付いたのは、盗賊たちが驚くように僕に振り向いたからだった。
極限状態を超えた僕は無意識の内に、自分でも予想だにしない言葉を口走っていた。
「ビトー……ミヤぁ……」
それはまるで僕がデグゥ自身であるかのように――そして親友とその妹を助けたいように、滑稽にも意識が薄くなった振りまでして、わざと震えた手を彼らに必死に伸ばしていた。
本当は違う。助かりたいのは僕なのだ。僕はデグゥとして盗賊たちに選ばれたかった。僕は醜くもこの世界で生き残ろうと、正真正銘の最後の博打を打った。僕はこのちっぽけな人生で培ってきた全て、その生命をぶつけるような演技を持って、目の前の盗賊たちを欺こうとした。
そしてその浅知恵から出た卑劣な行動は、盗賊たちの鈍い頭を惑わせるには充分だった。
「ビトーとミヤってのは……」
「他にも逃げ出したガキ二人がそんな名前だったな」
「となるとこっちがデグゥってガキだったのか?」
僕の腫れ上がった頭が無造作に持ち上げられる。
盗賊たちに用心深く顔を覗き込まれると、僕は意識の無い振りをして目を虚ろに彷徨わせた。
「でもよ、こいつ
「知らねぇよ。俺に聞くな」
「もしかしてこいつ、芝居してるんじゃねぇのか?」
僕の鼓動が跳ね上がる。じんわりと脇に汗が溜まるのを感じる。
バレる。このままだと僕は子供騙しの演技が見破られてしまう。上着を剥ぎ取られてシャツに書かれた名前でも見られれば一発だ。これ以上は無理だ。奴らは腐ってもプロの盗賊なのだ。騙し合いで僕が出し抜けるわけがなかった。僕はここで死ぬ。演技をした事実がバレて僕は残される。そして解剖される。そう思って青ざめた瞬間――
「デグゥ……」
隣のベッドから呻き声が聞こえた。
「デグゥ……」
拘束を中途半端に解かれた【彼】。
僕に向かってその【彼】が、自分の名を弱々しく呟いていた。
気が触れたように自分の名を僕に何度も呼び続けるデグゥ。デグゥは芝居をする僕に助けを求めるように手を差し出し続ける。その真に迫った姿はまるで、僕が本当にデグゥ本人だと補強するような言い方だった。
「チッ、こっちのガキがデグゥなんじゃねぇか」
「てめぇの勘は当てにならねぇからな」
盗賊たちは面倒臭そうに外していた拘束具を元に戻し始める。そして今度は僕の拘束具を手早く外し始めた。
「それでお頭はどこにいるんだよ。まだこの屋敷にゃ帰って来てねぇんだろ?」
「隣り町の娼婦街でゼーマンの野郎と遊んでるってよ」
「んだよ。俺達には面倒臭ぇことだけ押し付けて、自分は売女とお楽しみ中かよ。こっちは一週間も女犯してねぇっつうのに」
「ウダウダ言ってねぇでさっさと運べ! お頭は気が短えんだ! ぶっ殺されてぇのか!」
「チッ、面倒臭ぇ……」
巨漢の男はぶつぶつと文句を垂れながらも、虚脱した振りをする僕を軽く抱え上げた。そして十字傷の男に続いて、地下室を出ようと歩き出す。
僕は抱えられながら自分が拘束されていた場所を薄目で覗き見る。そこにはミヤとデグゥがいた。彼らは何も言わずに手術台に横たわっていた。
(ミヤ……デグゥ……)
それ以上直視することが出来なくて、僕は自分の目を固くつぶった。
しばらく盗賊の肩の上で揺られていると、唐突に新鮮な空気と匂いを鼻腔に感じた。僕は同時に両目に違和感を感じて、バレないように瞼を薄く開ける。
そこに広がったのは強烈な朝陽の陽射し。そして幽霊屋敷を囲む雄大な自然の姿だった。普段は何とも感じないその日常の風景。その当たり前の現実が今の僕には強烈に愛しく感じた。
そして僕は心の中で絶叫する。それは僕以外には誰にも聞こえないものだったけれど、確かに生き延びた喜びを噛みしめるような、身体の奥底から湧き出た生命の慟哭だった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます