(9) ミヤの思い

仄暗い廊下を歩きながら、僕は考える。


 ――どうして僕は、彼らを……。


 大広間に木霊する絶叫、飛び散る真っ赤な鮮血、積み上がる死体の山、山、山……。


 その数刻前の凄惨な光景を鮮明に思い出しながらも、僕は驚くほど冷静に自分がしでかした行為を考え続けていた。だけど――


 ……分からない。どうしてだろう。いくらその時の情景を思い返しても、あの時なぜそんな大それたことをしたのか僕には説明が出来ない。僕は本当に、遠征の仲間である彼らを殺したのだろうか。


 ――だけど僕は確かにこの手で……。


 気付けば僕は大広間にいる仲間たちを手当り次第に攻撃していた。そこに存在する生命全てに悪意をぶつけていた。とにかく僕は自分の中で煮え滾る怒りを抑えられず、溢れ出た感情をぶつけるように一方的に彼らを虐殺した。彼らの誰もが事切れる瞬間、驚愕の表情をその顔に貼り付けていた。当然だ。自分たち全員を相手取って殺せる力と技量など、新参者の僕が持ち合わせていないと彼らは皆思っていたはずなのだから。


 だけど僕が彼らに憎しみと怒りの感情を向けるだけで、彼らはまるで自ら死ぬことを命じられた操り人形マリオネットのように易易とと壊れていった。


 ……本当にあれらの出来事は僕がやったことなのだろうか。今でも信じられない。あんな化け物じみた超常の力を、僕は一体どこで持ちえたというのか。まるで浅い眠りの中で見た、たちの悪い悪夢のような気さえする。でもあれは現実だった。僕は彼らを殺した。その証拠に、僕は彼らの骸が散乱するあの部屋から逃げ出したじゃないか。


 ――僕は一体、どこに行こうとしているんだろう……。


 もう僕に帰る場所はない。自ら壊してしまった。なのにどうして僕はこの広い屋敷の中を彷徨い続けているのか。こんな僕が安らげる場所など、この世界にはどこにもないというのに。


 ――ああ、分かった……。


 そうだったのか。僕は勘違いしていた。僕は確かに安息を求めていた。精神の平静を求めていた。だから歩き続けていた。だけどそれはこの世界には決してない。……僕はずっと、死に場所を探していたのだ。


 僕はここにいてはいけない人間だった。幸福を求めて生きることがそもそも間違いだった。最初からこの世界に、僕の居場所などなかった……。


 ……ここらでいいだろう。もう自分の不幸話を自分に言い聞かせるのも疲れた。死に場所はどこでもいい。どこで死んだって変わらない。だったらこの汚い物置部屋で最後を迎えても、同じことだ。


 ロープはある。それを掛ける丈夫な梁もお誂え向きにあった。まるで僕が自殺しに来ることを予期していたように、この部屋は心安らぐほど静まり返っていた。僕は近くにあった古椅子を手繰り寄せる。そしてそれにゆっくりと登って、梁にロープを恭しく掛け始めた。


 ……これで僕は楽になれる。もう嫌な目に遭うこともない。


 そう考えると、この人生で起きた何もかもを許せそうな自分に、再び込み上げるように嫌悪した。


 ――リィン。


 小さな鈴の音……。

 そんな透き通るような微音がふと、僕の鼓膜に響く。外の廊下に誰かいるのだろうか。瞬間的にそう思ったが、僕は構わず準備を続けようとした。


 だが一度響いた鈴の音がどうしても耳から離れない。なぜだろう。こんな時だからなのだろうか。一度気になると確認せずにはいられなかった。死ぬときくらいは心静かに逝きたい。だから僕は首に掛けたロープの輪を外すと、物置部屋から出て廊下を確かめることにした。


 静かに入り口の扉の前に立ち、そこからゆっくりと顔を出して廊下の左右を確認する。


 ……いる。屋敷の北端、右側の廊下の突き当りに、小さな女の子の後ろ姿が見えた。


 僕の鈍った頭に子供の頃の記憶が唐突に蘇る。あの獣耳を隠すような二つ結びの髪型に、簡素なワンピースを着た華奢な背格好。あれは――


「……ミヤ?」


 無意識にそう呟くと、女の子は廊下のさらに奥へと駆けて行った。


 あのおどおどとして、すぐに物陰に隠れる小動物のような態度。ずっと一緒だった僕には分かる。あれは妹のミヤだ。ミヤに違いない。


「ミヤ!」


 自殺する気だった事も忘れて、僕は瞬間的に少女の後を追う。


 少女がいた廊下の突き当りまで来ると、すぐ傍の階段を駆け昇っていく彼女の半身を僕の目が捉えた。僕は更に追いかける。だけど少女に近づくことは叶わない。むしろ遠ざかるばかりで、まるで追いかける僕から逃げるように、少女の後ろ姿が段々と視界から消えていく。


「ミヤぁっ!」


 ミヤが消えていく。屋敷の闇に溶けていく。それは僕の頭が作った幻だと言わんばかりに、ミヤは現実という虚構から泡のように消えていく。


 ――どうして、どうしてだ。僕を置いていかないでくれ。みんな僕から逃げていく。僕はいつも一人ぼっちだ。誰かを信じてもすぐに裏切られる。僕はもう嫌だ。こんな世界嫌なんだ。僕もあの時死ねば良かった。ミヤと一緒に飢えて死んでいれば、そうすれば僕は、こんな目に……。


 ――オニイ…チャン……。


 ふと、僕の脳裏にありえない声が聞こえた気がした。


 ……ミヤの声。まだ父さん母さんが生きてミヤが明るかった頃、彼女は幸福を運ぶようなソプラノの声で兄である僕を呼んでいた。家族の団欒、最後の暖かな記憶、その中で聞こえるミヤの幻の声が、僕の絶望に浸った顔を上がらせる。


 僕は声が聞こえた方向に頭を向ける。するとその場所には仄かな明かりが灯っていた。廊下に蔓延る漆黒の闇の中で、部屋から漏れるわずかな灯り……。その部屋の中から延びた小さな影法師は、僕を誘うように消えて行った。


 僕は誘われるまま歩く。そしてその部屋の中を覗いた。


 この部屋は女中メイドが使っていた休憩室だろうか。ベッドの数からして四人部屋のようだった。中はほんのりと明るく、そして少し暖かい。暖炉が使われていた。薪がパチパチと燃えている。その優しい音に混じって静かな息遣いが聞こえた。僕は部屋の中頃まで進むと、奥にあるベッドの中を覗き見た。


「ユーリカ……」


 ベッドに横たわっていたのはユーリカだった。彼女は僕に気付かない。かなり深い眠りの中にいるようだが、安眠というには程遠く魘されている。まだ嬲られた影響が残っているのか、尋常ではない汗を全身に掻いていた。


(どうしてだ……)


 僕はようやく思い出していた。僕はユーリカの顔を見るまで彼女の存在を忘れていた。僕が怒りで我を忘れて仲間を殺していたときも、近くにいたはずの彼女のことは全く頭になかった。ずっと自分のことばかり考えていた。あんなことになった引鉄は、彼女の行動にあったというのに。


 もしかすると自分はとっくにユーリカを殺していたのかも知れない。そんな考えも頭の隅にあった。無意識のうちに殺していてもおかしくはないと思った。だけど決して考えまいとしていた。僕の都合勝手な無意識は、愛憎で膨れ上がる彼女の存在を意図的に排斥した。


 けれど彼女は生きていた。僕は彼女を手に掛けてはいなかった。それが良いことなのかは、今の僕には判断出来なかった……。


(一体誰が……)


 あの客間から傷ついた彼女が自力で移動出来るとは思えない。誰かの助けを借りなければ無理だろう。それに彼女の汚れた身体は拭き清められ、引きちぎられた服も別のものに取り替えられている。


 まるで理不尽な暴力を受けた哀れな彼女を労るように……。


「……い…さい……」


 僕はそこで気付く。ユーリカが魘されながら何か呟いている。


 反射的に身構える。彼女が無意識の中で呟く言葉が怖い。もし再び彼に助けを求める声を聞けば、また僕が何をするか分からない。……そう思ってしまったから。


「…なさい……トー……」


 僕は顔をしかめる。彼女の魘され声本音をこれ以上聞きたくなかった。


 僕以外の誰かが彼女を看病しているのなら、僕がここにいる必要はない。すぐにここから立ち去っても良かったが、やはり消えたミヤのことが気がかりだった。

 まだここにいるかもしれない。そう思って僕は部屋の中を複雑な気持ちで調べていく。


「ごめ…さい…トー……」


 知らない。僕は聞こえていない。


 わざとらしく物音を立て、僕はユーリカの言葉を聞くまいとした。だけど――


「ごめんなさい……ビトー……ごめんなさい……」


 ベッドの物陰を調べている最中に、僕にははっきりと聞こえてしまった。


 存在するかどうかも分からないミヤの幻聴じゃない。確かにここで生きている彼女の明瞭とした声。ユーリカの、懺悔するような萎れた声……。


 確かに彼女は、僕の名前を呟いた。


 僕は眠るユーリカに振り返る。彼女は魘されながら涙していた。その涙は眼尻を伝って枕を濡らしていた。濡れた枕は大きな染みを作り、さらに大きな悔恨の痕を増やしていく。


(ユーリカ……)


 僕はその涙で思い出す。彼女と過ごした、貧しくも、満ち足りた、幸福な日々の毎日を……。


「どうして、君はっ……!」


 ――僕を裏切ったんだ。


 そう叫びたかったけど、言えなかった。


 今さらどうなるってんだ。君が心の底から謝ったって、何かが変わるわけじゃない。僕はもう、君を信じることなんて……。


 魘されながら涙を流し続けるユーリカ。そんな彼女の姿を見ていられなくなって、僕は複雑な感情を胸に隠して目を逸らす。そして目を逸らした先に見たものに、僕は驚愕した。


 彼女の右手。そこに握られていたもの……。


 ――人形。


 僕がミヤにあげたはずのあの人形が、ユーリカの右手に添えられていた。


 ありえない。そんなはずない。さっきまでこんなものはなかった。まさか――


「……ミヤ、お前なのか?」


 僕は周囲を見渡す。だけど誰もいない。この部屋には僕とユーリカしかいなかった。


 だけど僕には感じる。ミヤは確かにこの部屋にいた。そしてユーリカを手当したのは、きっと妹のミヤなのだと。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 僕が言葉を失っているそばで、ユーリカは魘されながら謝り続けている。


 彼女の蒼白な顔を見ながら思い出す。あの人形。ミヤはこの人形をとても大切にしていた。僕が作ったこの人形だけは、孤児院の誰にも貸すことはなかった。まるで自分の子供を守るように、あの臆病なミヤは抵抗してまで頑なに人形を渡すことはなかった。僕の作ったボロ人形などぞんざいに扱えばいいものの、ミヤはこれを宝物のように扱った。僕にもデグゥにも、誰にも触らせないよう、いつもこれを抱えて眠っていた……。


 なのにどうして、お前はユーリカにこの大切な人形を預けたんだ――


「ミヤ……お前は僕に、まだユーリカを信じろっていうのか?」


 そんな気がした。ミヤがもしこの場にいたら、こうやって僕に伝えるような気がしたんだ。口がきけない彼女は、僕に自分の気持ちを伝えようと必死で……。


 だとしたら残酷すぎる。ミヤはどうしてそんなことをするのだ。僕にあんなものを見せつけた彼女を、また信じるなんて出来るわけがない。


 だけど――


 僕はベッドで眠るユーリカを見て思ったんだ。彼女が生きてて良かった。僕が手にかけていなくて、本当に良かったって……。


 それはまだ僕が彼女を信じようとする証なのだろうか。ユーリカのことをまだ愛しているからなのだろうか。だとしたら僕はまだ、心の底では彼女を信じたいと願っているのかもしれない。それをミヤは、僕に気付かせたくて……。


 僕は三度、大切な人たちを守れなかった。母さん、父さん、ミヤ、デグゥ……。僕はあの頃無力だった。大切なものを守れる力を持っていなかった。だけど今は違う。僕にはわずかながらも運命に抗う力がある。彼女はまだ生きている。ならば僕はまだ、ユーリカを救えるのかもしれない。


 ――ミヤ、もしかしてお前はこう言いたかったのか?


 今度こそ本当に大切な人を、僕は守るべきなんじゃないかって……。


(だったら教えてくれよ、ミヤ。……僕はどうすればいい?)


 僕はユーリカの手を握る。その手は弱かった。だけど暖かった。そこに生まれた感情を、僕は否定することが出来なかった。


「ちくしょう……ちくしょう……」


 僕は泣いた。泣いたんだ。


 どうしてかは分からない。


 だけどユーリカの手をひたすら握りしめながら、僕は止めることの出来ないその涙を、枕に残る涙跡に重ねるように流していったんだ……。

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