(6) イェシカ=ヅフリ、その最期の記憶

 根拠地ベースキャンプと大広間で行われる宴の喧騒から離れ、私は一人屋敷の地下にある書庫に籠もっていた。


 退魔灯の微かな光を頼りに、貴重な魔導書を読み耽ること数時間。古代語で書かれた医学書の一冊を読み終えて一息ついていると、ふいに廊下ですれ違った彼のことが頭に過ぎった。


 ……ビトー。


 獣人族ベスチアの彼はあのあと客間に行き、中で行われていた仲間たちの醜悪な行為を目撃したのだろうか。見ていたとしたのなら、彼はどれだけ打ちのめされて絶望の淵に落とされたのだろう……。


 彼のことは気の毒に思う。思うが私にどうにか出来る話ではない。ソゾンやペシエダは自身が失ったものの大きさで怒り狂い、仲間の私達でも手が付けられないほど荒れていた。特にペシエダは二度と冒険に出れないほどの深手を負ったので、その怒りようは凄まじかった。


 それでもアルヴィンが収拾を図れば彼らだって引かざるを得ない。アルヴィンは立場上私闘を仲裁する義務もあったし、それが出来るだけの能力もカリスマ性もあった。


 だけど彼はペシエダ達の暴走を止めなかった。アルヴィンは彼らの悪意を知りながら、彼らの人道に反した行為を諌めなかったのだ。卑劣漢を最も嫌う彼がなぜペシエダ達の悪行を見逃したのかは分からない。だけどそうなってしまったら、彼に付き従う私達にはどうしようもなかった。


 良くも悪くもこの大規模な遠征はアルヴィン一人の存在によって成り立っている。聖王陛下から直々に総指揮官に任命された彼は、今や軍属のガルデロッサよりも地位も発言権も遥かに強い。

 そのアルヴィンに形だけでも逆らうような真似は、聖王国内で成り上がろうとする私達にとって反逆行為そのものだった。それでなくても彼は救国の英雄なのだ。アルヴィンの機嫌を損なうようなことをすれば、彼からだけでなく彼の強大な支援者達からも嫌われることを意味する。大戦が終わり傭兵としての仕事が少なくなった今、これから自身の夢を叶えたい者にとって、資金を提供する支援者が離れることは絶対に避けたいことだった。


 それにビトーも悪いことは確かだ。あのウィルフレン達が死んだ顛末は彼の責任によるところが大きい。皆があからさまにそう問い詰められないのは、あのトラップだらけの部屋ではアルヴィン自ら指揮して乗り込んでいたからだ。

 最終的な判断は彼が下した。だから皆、ビトーのミスを表立って責められない。だからこそペシエダ達はソゾンをけしかけてユーリカとかいうビトーの女を嬲り者にしたのだろう。ビトーを怒らせて先に手を出させれば、彼をリンチにする口実が出来るから……。


 ペシエダのやり方には閉口する。仲間とはいえ本当に反吐が出る。だけど本音を言うのならば、あの白妖精族エルフの小娘が嬲られるのは僥倖だった。私はあのビトーが連れてきたユーリカという女が嫌いだ。あの小娘は自分に約束された男がいながら、よりにもよってアルヴィンに色目を使った。白妖精族エルフの女特有のイヤらしい肢体を見せつけて、純真な彼を娼婦のように誘惑したのだ。


 任務中は男女の関係を取り払う。それは冒険者ならば誰もが知る暗黙の了解のはずだ。なのにあの小娘は事もあろうに、仕事中にアルヴィンのテントに潜り込んだ。そして一夜を明かしたのだ。相手がアルヴィンだっただけに誰も何も言わなかったが、この隊にいる女性の間では彼女への憎悪が膨れ上がっていった。あの小娘は気付いていないが、私達の間では重罪犯として認識されていた。


 だから私は自ら調合した強力な幻覚薬をペシエダに渡したし、他の女性隊員達は言葉巧みに言いくるめられるユーリカを見ても誰も助けなかった。案の定彼女は何も知らずに薬を飲まされて、いきり立ったソゾン達に犯された。


 ……結局はビトーの責任だと思う。彼も冒険者として危険な任務クエストに参加したのなら、仕事だけでなく仲間内の揉め事も自分の力で解決するべきだったのだ。それも冒険者としての心構えの一つだろう。


 私はビトーのミスを問い詰める気はない。だけど彼の受難を手助けする気もない。今彼に降り掛かった災難は全て自業自得なのだ。自分の問題も解決することの出来ない人間が、この国運を託された遠征に来るべきではなかったのだ。


(私には関係ない……)


 そう合理的に考えるに至って、私は精神を落ち着けると魔導書の続きを読み始めた。

 だがその瞬間、


「……何?」


 首筋にゾクリとした悪寒が這い上がった。続いて全身に鳥肌がさざ波を打つように立っていく。


 この地下室に流れる冷気のせいかと思ったが、違う。


 これは戦時中に魔王サタニアと呼ばれる絶対者と対峙したような、あの確実な死を予感させる気配の悟り……。


 何か只事ではない出来事がこの屋敷内で起こっている。そんな不吉な予感が、私の呪術師シャーマンとして培った勘からひしひしと脳内に感じさせた。


 私は手に取った魔導書を放り出して地下書庫を後にする。


「うそ……!」


 急いで大広間まで出ると、目の前に広がった光景に驚きで口を塞ぐ。


 ……大量の死体が散乱していた。流れた血液がいくつもの大きな血溜まりを形成していた。死体は全て仲間たちのもの。どれもが異様な殺され方をして、冷たい床に横たわっている。


 ――頭部だけがぺしゃんこに潰れているもの。

 ――内臓が口から飛び出して絶命しているもの。

 ――身体中の関節があらぬ方向に捻じ曲げられ、他の死体と一つになるように絡み合うもの……。


 目に付くだけでこれだけある。他にも何十体もの死体が様々な死に様で広間中に転がっている。皆共通しているのは、武器や魔法でやられたようには見えないことだ。これは死霊アンデッド系の魔物モンスターが扱う、念動力テレキネシスのような特殊能力で殺されたように見える。


 だからといって亡霊レイスの仕業とは思えない。ここにいたのは私の仲間、アルヴィンに見初められた歴戦の勇士たちだ。いくら武器を携帯しておらず不意を突かれたとしても、この屋敷に巣食う魔物モンスター程度に遅れを取る人間など一人もいない。戦争が終わり職業を鞍替えした者も多いが、元は誰もが怪物退治モンスター・ハントのスペシャリストなのだ。


 だが彼らが殺されたのは事実。その彼らを相手にこれほど一方的に惨殺する存在とは……。


 そして私は今になって気付く。これほどの事態になって、外で詰めているはずのガルデロッサ達が来ていないことに。


「……開かない」


 閉じ込められた。屋敷の門戸が特殊な結界で封鎖されている。結界の術式には見たことのない複雑な紋様が描かれている。これは現代で学ばれる魔術体系とは完全に別物。古代に廃れたはずの魔術様式だ……。


 それらが入り口だけじゃなく全ての窓にも敷かれていた。試しに火炎魔法をぶつけて見たが見事に弾かれた。これでは物理的に開けようとしても同じことだろう。この屋敷は完全に外部と隔離されてしまっている。


 ……何者の仕業だろうか。私達も知らない強力な亡霊レイスがこの屋敷に潜んでいたとでもいうのか。だけど屋敷はアルヴィン達によってくまなく探査されたはず。それにこれほどの事をまともな思考回路も持たない魔物モンスター風情がやれることなのだろうか。そんな事例は聞いたことがない。これは少なくともそこらの魔物モンスターのように本能に従ってやった行為ではなく、それなりに理性の痕が見えることから知恵がついた生物の仕業だ。


 ――外部犯だとも思えない。村の周囲に敷かれた結界に異常があれば、遠征隊全員に報知アラームが来るよう魔術的に設定されている。……となると遠征隊内部の誰か?


 実はその考えは最初から浮かんでいた。この遠征には政治的な思惑が強く働いている。聖王国内ではアルヴィンの思想に敵対する者が密かに徒党を組みつつあるのだ。奴らは自身の尻尾を掴ませないよう、普段は元老院という因習の群れの中で羊を演じている。そして子飼いの冒険者に内通者スパイとして遠征に潜らせ、アルヴィンの身辺を探り回っているのだ。


 だがこれほど大きな事件を起こしてどうなると言うのか。この混乱に乗じて聖遺物アーティファクトでも奪うつもりなのだろうか? いや、違う。そうだとしても私達を閉じ込める理由はない。もとより殺す必要もない。まずはアルバート村再興の裏に隠された真の情報を持ち帰り、元老院内に潜む老獪な主たちに報告すればいいだけの話だ。そして適当な理由を作って諮問機関で審議させ、正当な書状のもと私達を聖王国バルハイムから追い出せばいいだけなのだから。


 そんな事をしない。もしくは出来なかった。となると内通が遠征隊の誰かにバレて、血迷った末に大量殺人を犯したか……。


 憶測に憶測を重ねるが、宴で振る舞われた酒の中に一服盛られていたのかもしれない。だとしたら私が生き残ったことも、強者揃いの仲間が殺されたことも、外にいるガルデロッサ達軍兵が来ていないことにも説明がつく。


「馬鹿な奴ら……」


 私はアルヴィンに敵対する者を哀れに思う。


 こんなことをして和平協定の妨害工作を企てても無駄だ。むしろ余計に彼を怒らせるだけだ。アルヴィンは仲間を殺された事実を持ち帰り、確実にこの謀反を行った者を炙り出して法のもとに裁くだろう。この時代に彼を止められる者はいない。聖王陛下ですら彼を内心恐れている。


 英雄アルヴィン=フリーディングは今や、この世界全ての人間にとって希望そのものなのだから……。


(……まさか!)


 そこで私は血の気が失せる。有り得ない。だけど可能性はゼロではない。もしかすると……。


 ――狙われているのは、アルヴィン……?


 今、置かれている私達の立場。

 この状況はもしかすると意図して作られたものかもしれない。この密閉された屋敷の中に今、私以外にどれだけの仲間がいるのだろうか。おそらくそう多くはない。これだけの惨事があってすぐに集まらないならば、いても数人程度だろう。だけどもしその中に彼がいたら。犯人の狙いがアルヴィンを孤立させる為、それだけの為に虐殺が行われたならば?


 いかに救国の英雄と謳われようと、彼はたった一人の人間に相違ない。信頼できる仲間がいてこそ、彼は真の英雄たる力を発揮する。この状況を作った者は、アルヴィンが一人きりならば確実に殺せると踏んでいるのかもしれない。


 そうだとしても彼が負けるはずがない。そう固く信じてはいるが、私が考えていることが事実ならばそんな状況にさせることは彼の仲間として許されない。


 私は屋敷の外に脱出することを諦めて、アルヴィンを探すことに全神経を集中させた。


「彼はどこに……」


 骨杖の先に埋め込んだ水晶を媒介に感知魔法を使う。遠征隊に置ける主要メンバーは全て魔術マーキングを施してある。この魔法を使えばアルヴィンの居場所はすぐに分かるはずだ。


 ……いた。三階のあの部屋。ウィルフレン達が亡くなった部屋だ。採掘屋ゴーダンが近くにいるということは、一緒に聖遺物アーティファクト探しをしているということか。


 とりあえずアルヴィンが無事なことに胸を撫で下ろす。まだ杞憂とは言い難いが、彼が生きているならば何とでもなる。まずは彼らと合流して、脱出する準備を整えなくては。


「どこにいるんだ?」


 ギョッとした。身体が硬直した。

 突然背後から声を掛けられ、私の身体は凍りついた。


 ゆっくり振り返って声の主を見ると、そこにいたのはあのビトーだった。異様な雰囲気を全身に纏い、虚ろな目でこちらを見つめる彼の姿に、私は反射的にゾッとした。


「ビトー……あなた無事だったの?」


「彼はどこにいるんだ、イェシカ」


 ビトーは私の問いには答えない。無表情を保ったまま、私の眼を深く、昏く、ジッと覗き込み続けていた。


「……彼? 一体誰のことを言っているの?」


 仕方なく私から答えると、


「……アルヴィンに決まっているじゃないか」


 ビトーは抑揚のない声で言った。


 この大量の惨殺死体の山に囲まれた異常な状況。その中でビトーが最初に発した言葉。それがアルヴィンの所在であることに、私は強烈な不審感を抱いた。


 ……ビトーの態度は絶対におかしい。彼はこんなにも暗い雰囲気を発する人間じゃなかった。やはりあの件がビトーをおかしくさせた。もしかするとこの状況と何か関係があるのかもしれない。というよりも彼は――


 私はいつでも戦闘に入れるように心の中で身構える。


「さぁ……分からないけど」


 当然これは嘘だ。今のビトーは信用出来ない。アルヴィンの居場所など教えられるわけがなかった。


「……本当に?」


 ビトーは疑っている。だけど私は平常心を装ったまま反論する。


「分かってたらとっくに探しに行っているわ。……それより一体ここで何があったの? あなたは何か知っているんじゃないの?」


 ビトーは答えない。黙したまま私から目を逸らした。

 私は確信した。仲間を殺したのはビトーだ。彼は普通じゃない。ただ暗いだけじゃない。何か邪で悪意に満ちた意思を、彼の内側から微かに感じる。


「ビトー、手分けして外に出る方法を探しましょう。ここにいたって何も解決しないわ」

「……」


 全く反応しないビトーに、私が呆れて立ち去ろうとする演技をする。とにかく今はすぐにでもこの場を離れたかった。


 私は数歩廊下へ向けて歩き出す。すると私の剥き出しの肩が無造作に掴まれた。指が食い込んで痣が出来るほどの強い力。私はその瞬間、迷わずビトーへの攻撃態勢に入った。


(やるしかない……!)


 掌に隠し持っていた紫色の粉末。それを振り向きざま思い切りビトーの顔面目掛けて吹きかけた。私の息によって細かな粒子の煙幕が、彼の周囲一帯に膨らむように舞い上がる。


 粉末は爪に塗ったマニキュアを削り落としたもの。マニュキアの成分には遥か南方の密林に生息する毒鬼蛙ゴブリントードの分泌物が使われている。醜巨人オーグルでさえ一吸いで昏倒させる、呪術師特製の劇薬だ。感覚器官が発達した獣人族ベスチアである彼が、これを食らって立っていられるはずがなかった。


「そんなっ……!?」


 毒の霧が晴れかけて私は顔が青褪める。


 信じられない。これは対象が生物である限り絶対に何らかの異常が生体に現れる。人間以上に鼻が利く獣人族ベスチアのビトーに、この毒粉が効かないわけがなかった。


 なのにビトーは空間に舞う毒粉を全く意に介さない。確実に身体を蝕む毒が中に入り込んだというのに、ビトーは舞い散る毒粉の中で不気味に微笑んだ。


「……君も僕が嫌いなんだ? 彼らと同じように……」


 ビトーの薄ら笑いが段々と消えていく。


 私は逃げようとした。論理的な思考よりも本能がそうさせた。


 だけど背を向けるよりも早く彼の眼が怪しく光る。怪光線が私の眼を真芯で捉えると、なぜか身体が強制的に拘束されて宙に浮く。


 ……動けない。手足はおろか指一本動かない。体中からギシギシと嫌な音が響いている。全ての関節が自分の意思ではない何かに捻じ曲げられようとされている。


(嘘……!)


 このままだと私は千切れる。四肢が断裂させられる。すぐそばに転がる死体たちのように、バラバラに、無惨に……。


「やめて! 本当のことを教える! アルヴィンは外にいるわ! この屋敷にはいない! 私は探知魔法で確認したのよ!」


 私は必死の思いでビトーに訴える。あまりにも強い力で私を解体しようとする事実が、私に生の本能を思い出させて醜くも本性を露見させる。それでもアルヴィンを裏切れなかったのは、冒険者としてのプライドというより、彼に惚れた女の最後の意地だった。


「どうしてみんな嘘を付くんだ。僕は本当のことを教えてくれればそれで良かった。君がそんなことをしなければ、僕はこんなことをせずに済むのに……!」


 ビトーは泣いていた。血の涙を流していた。


 私は後悔した。彼に嘘を付くべきじゃなかった。彼は本当に――


「ま、待って、ビト――」


 弁明の言葉が出るよりも早く、私の五体は空中でバラバラに分解した。


 絶命する最後の意識の中――私の中身が爆発するように飛び散り、ビトーの全身に雨のように降り注ぐのが見えた。


 ――ビトーは泣いている? いや、笑っている? 


 私にはもう分からないし、これ以上考えることも出来ない。

 だけど一つだけ分かったことがある。あれはビトーじゃなかった。ビトーに模しただった。その何か得体のしれないものが、ビトーの身体に取り憑いているのだ。


 そしてその邪悪な何かが、ビトーの身体を操っている。私は爆発四散した死の間際に、そいつが笑っているのを確かに見た。



 ――やっぱり、この館には……

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