深い闇の中にいる君

 いつからか僕は眠っていたようだ。


 いや、眠っていたのではない。あまりにも辛い現実を目の当たりにして、僕は気を失ったのだ。そうしなければ僕は、心が壊れてしまっていた。


 ――ユーリカ……君は……どうして……



「――」


 ふと、誰かの気配がすることに気付いた。


 ここには僕しかいないはずで、誰も立ち入ることは出来ないはずなのに。


「……トー」


 誰だろう? 


 どこかから僕に向かって声が聞こえる。


「ビトー」


 蹲る僕。


 その頭上から呼びかけるように名前を呼ばれて、固く伏せていた顔をゆっくり上げる。


 そこには少年が立っていた。欠けた歯を見せつけて僕に笑いかける、どこか懐かしい雰囲気を持つ少年……。


「久しぶりさァ、ビトー。元気にしてたかい?」


 僕は力なく笑う。


 この状態が少年には元気そうに見えるのだろうか。


 そう見えるならそれでいいさ。僕は反論する気力もない。


「オレはずっとここにいたさ。ビトーがこの屋敷から出ても、オレはずぅっとここにいた。だけどビトーのことはいつも見ていたさァ。オレは親友のことなら、何でも知っているからよォ」


 少年の訛りの入った柔らかな口調。その軽妙な語り口は、昔どこかで聞いた気がする。


 これほど心が摩耗しているというのに、なぜか少年の声は僕の精神を落ち着かせた。


 ……どうしてだ?


「ビトー、お前は今すごく傷ついている。どうしようもないくらいになァ。……何でか教えてやろうか? それはな、お前が信じていたものが全て嘘っぱちだと分かったからさァ」


 ……そうだ。その通りだ。


 僕は信じていた。ソゾンもアルヴィンもユーリカも、仲間だと思った遠征隊のみんなも、僕は信ずるに値する高潔な人間だと思っていた。色んな個性があって時には衝突するかもしれないけど、それでも魂の根底には確かに繋がるものがあると信じていた。


 だけど違った。みんなみんな僕を裏切った。僕の心を弄んだ。紙屑のように踏み躙った。


 僕はそれほどに罪を犯したのか? 仲間の死のきっかけを作った僕は、心が壊されるほどの大罪を犯したのか?


 ……いや、そうかもしれない。僕は、僕こそが、彼らを裏切ったのかもしれない。


「どうしてそうやって怒りを押し殺すのさ? 言いたいことがあるのなら、アイツらに直接言ってやればいいさァ」


 ……そんなこと、僕に出来るわけがない。


 だって僕は、彼らとは違う……。


「お前はいっつもそうだなァ、ビトー。貧乏くじばっかり引かされて、だけど文句の一つも言えなくて、結局自分の殻に閉じ籠もってやり過ごす。お前はそれを自分の良心だと思ってる。善良さだと思ってる。でもそれは美徳でも何でもないさ、臆病なだけさ。感情を隠してまで争いを避けるのは、自分が傷つきたくないだけだからじゃないのかァ?」


 ……違う。僕は臆病者じゃない。僕は誰よりも正しく生きてきただけなんだ。


 親を殺されて孤児になったり、戦争で酷い目に遭っても、それを誰かのせいにすることはなかった。他人に責任を押し付けて自分の心を軽くさせることなんか、ただの一度だってしなかった。それが正しい生き方だと信じていたから。


 だから僕は誰も責めることはしない。どんなに理不尽な目に遭っても怒りを押し殺してきた。怒りは憎しみを増やすだけだ。増殖した憎しみはやがて自分の身すら喰らい尽くす。だから僕は真っ当に生きる為に、いつだって負の感情を飲み込んできた。


 そうやって生きてきた。そうすることで生き延びることが出来た。それがこの世界の上に成り立つ社会で、弱く愚かな僕が生き残れる唯一の術だった。僕にはアルヴィン達のように誰かを救うような大それた力は無い。だけど僕は自分を殺すことで世界の秩序を守ってきた。


 だから僕はユーリカを責めない。アルヴィンも責めない。誰も責めない。僕だけが押し付けられた感情を我慢して飲み込めば、世界から憎しみの連鎖が消えていくんだから。


 それが僕ら強さを持ち得なかった凡人が、この世界を生きていく上で必要な代償なんだ……。


「それじゃあビトー、何でお前は世界を憎んでいるのさ」


 ……憎む? 


 僕が、世界を……?


「オレは知ってるよ、ビトー。お前はずっと心の底でこの世界を憎んできた。この世界を否定し続けてきた。戦争から生還して生きる喜びを知った時だって、ユーリカと出会って愛し合う尊さを知った時だって、お前はいつかこの喜びにあふれた世界が自分を裏切って、また残酷な結末を見せると信じて疑わなかったじゃないかァ」


 ……そう、かもしれない。


 どこへ行っても弱肉強食で運命は廻り、強いものが正義で弱いものは許されないこの世界。そんな酷薄な世界を僕は嫌悪していた。どんな綺麗事を清廉潔白にのたまっても、結局は罪のない弱者がいたぶられる。そしてその弱者の犠牲によって世界の均衡が保たれる変えようのない現実に、僕は心の奥で激しく憎悪した。


 当たり前じゃないか。戦争が終わったって変わることはない。殺し合いに一区切りが付いただけに過ぎない。また僕らの忘れっぽい頭が短い時間と共に冷えれば、新しい凄惨な殺し合いが喜々として始まるだけじゃないか。


 何も変わらない。何も学ぼうとしない。だって世界は変わらなかった。なのに人間が変わるわけがない。だから僕も変わらなかった。依然として弱く、愚かで、醜いまま……。


 あの孤児だった子供の時と変わらず、世界を憎んだままなのは当然じゃないか。


「だったら何でお前は我慢するのさ? こんな世界で自分だけが我慢する必要なんてあるのか? 世界はずっとお前を裏切り続ける。これからも変わらずお前を不幸にするため一生懸命廻り続ける。……ビトー、世界がお前を救ってくれたことなんて、一度でもあったかァ?」


 ……どうして僕はこんな単純なことに気付かなかったのだろう。


 僕は誰にも必要とされていない。誰からも愛を貰っていない。ユーリカから貰ったはずの愛情は偽物で、代わりに彼女は本物の絶望を与えてくれた。

 僕はいらない人間だ。この世界にいちゃいけない人間だ。だったら僕もいらない。こんな壊れた世界なんて必要としない。


 ……僕は、自由じゃないか。


「オレはいつだってお前の味方さァ、ビトー。お前がしたいことは何でも応援する。だってオレはお前の、たった一人の親友なんだから……」


 不思議だな。今の僕なら何でも出来そうな気がする。僕は自由。僕は自由なんだ。たったそれだけを信じられることで、こんなにも世界の見え方が違うなんて……。


「願うのさ、ビトー。全ては思い一つで叶うのさァ。お前はいつも自分の願いを押し殺してきた。だけどもうそんなことする必要はないさァ。もう子供だった自分を縛るものは、今のお前には何もないんだから」


 そうだね……。僕は願いを叶えるよ。君が言った通り僕を縛るものは何もない。だから僕は僕の思う通りにやってみる。


 僕が望むもの、それは――

 


 ……みんな消え去ってしまえばいい。

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