第一章 「二十年後の僕ら」
(1) 手に入れた幸福の中で
~二十年後~
【バルハイム新聖暦三年】
バルハイム聖王国領内 新興貿易港湾都市アルデバラン
貧民街
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僕、ビトー=アルノーゼは幸福だった。
あの世界を分かつ大陸間大戦は、人類史上最悪の戦死者を生んで未曾有の悲劇を生んだ。けれどあの過酷な現実を生き抜いた生者には、生存の保障と生活の自由という、最大限の褒美が平等に与えられた。
官軍となった僕らの聖王国はより一層栄え、市民権を持つ者はおろか、異種族の浮浪者ですら飢えることはなくなった。王国軍に所属し、戦地へ歩兵として赴いていた僕はそれ以上の見返りを受け、数年は不自由なく生活出来る褒賞と、戦功名誉市民という聖王国内での立場を得た。
僕はもう蔑まれる異種族民ではなく、れっきとした聖国市民なのだ。もう子供の頃のように全ての権利を剥奪されたまま、明日の食事を心配して奴隷のように働くこともない。
僕はようやく
「ただいま! ビトー!」
僕の最大の幸福の象徴である女性。ユーリカ=エストロニア。
彼女が突然僕の私室に入って来ると、持っていた買い物袋を放るなり頬にキスをした。僕は動かし続けていた右手を止めて、じゃれつくユーリカを膝の上で優しく抱き留める。
「また上手くなったわね、ビトー。警備の仕事を辞めてもこれ一本で食べていけるんじゃない?」
ユーリカは恋人の首にしなやかな腕を回しながら、僕が描いていた油絵をまじまじと見て言った。
「そうだね。君が専属の画商になってくれたなら、僕の絵にとびきり高い値段を付けて押し売るだろうからね」
ユーリカは僕の冗談を大げさに笑う。
彼女の笑顔を見ることは僕の最大の喜びだ。この笑顔を見る為だったと言われるのならば、あの地獄のような戦地を生き抜く価値はあったのかもしれない。
「この絵は何をモチーフにしたの? ずいぶん立派な建物ね。アルダミラ旧市街にある貴族のお屋敷かしら?」
「いや、古い記憶から引っ張り出してきただけさ。……この絵は、駄作だな」
僕はイーゼルに立て掛けた描きかけのカンバスを無造作に地面に下ろす。そしてすぐに別のまっさらなカンバスに取り替えた。
ユーリカはもったいないと言ってくれたけど、あの絵を最後まで描き続ける気はなかった。
僕はユーリカを抱えて椅子から立ち上がる。そして彼女を優しく地面に降ろすと、放られた買い物袋を拾ってキッチンまで運ぼうとした。
「聖暦祭のバザールで新鮮なチーズとハムが手に入ったの。それでお昼にサンドイッチを作るわね。あなた好きでしょ?」
キッチンに先回りしながら彼女はそう言って、早速料理の準備を始め出した。そこでユーリカは自分のポケットの膨らみに気付いて、
「そういえばビトー、あなた宛てに手紙が来てたわよ。これって軍からの郵送じゃない?」
僕は買い物袋を降ろしてから手紙を受け取る。
確かにこの威厳がありながらもシンプルな装丁は、軍部から個人への郵送の際に使われる書簡だ。宛名にも僕の名前がしっかりと書かれている。差出人の住所には聖都の軍本部施設、名前には昔世話になった部隊長の本名が達筆で書かれていた。
彼は確か、大陸間大戦終結後、出世して軍情報部の要職に就いたと聞いた。部隊長は
封筒を手にして僕は、一抹の不安感がよぎる。
「あっ! ブラックペッパー買うの忘れてた! あれがないと美味しくないのに……」
キッチンでユーリカが悔しがる姿を尻目に、僕は何食わぬ顔で書簡の封を切った。
本文には簡単な時候の挨拶と、僕への近況を慮る文章、そして手短に綴られた上官からの要望が丁寧に書かれていた。紙面にして二枚にも満たない。なのに僕がそれらを理解するまでに大変な紆余曲折があった。なぜなら僕はそこに書かれた村の名前を久しぶりに聞いて、連鎖するようにいくつもの忘れていた記憶が蘇ったからだ。
――アルバート村。
僕が孤児だった幼少の頃、数年間だけ過ごした人口二百人にも満たない侘しい村。誰にも愛されず、誰にも必要とされず、誰にも頼る事の出来なかったあの時代。僕はそこで大事なものを見つけ、そして大事なものを失った。
――ミヤ……デグゥ……。
彼らのことは片時も忘れることはない。彼らがいたからこそ僕は生き抜くことが出来た。いつか自分にも落ち着ける日が来たら、きっと祈りを捧げに行く。
彼らの冷たくなった亡骸の側で、確かに僕はそう固く誓ったはずなのに……。
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