オリンピア・クライシス(仮)

@longboxman

S租界に残された手記

1

 バコンと鈍い音がした。

 音のほうへ目を向ける。

 斜め後ろの壁にぶつかって転がったらしいドッジボールが見えた。

 視線をボールの軌道に沿って動かすと、蒼白な顔をした数人の子どもが駐車場入口脇に立っている。

 私はため息をつき、携帯端末を取り出す。

 子どもたちはなにかを訴えるかのように、口をパクパクさせたり、首を振ったりしているが、もう遅いのだ。

 いまさら泣き叫んだりしても罪が重くなるだけ。見たところ、10歳ほどらしい子どもたちもその程度の弁えはあるらしく、声を立てようとはしない。

 肌に怯えの混じった視線を感じたが、私は躊躇なく自警団事務所に報告を入れた。

「自警団か。ドッジボールをやっている子どもがいる。人数? 4人か、5、6人かもしれない……ああ、K地区、映画館跡地の裏手……そうA駐車場だ」

 すでに彼らの顔と体格は防犯カメラで確認され、データベースと照合されているはずだ。

 いずれ両親にも連絡がなされ、彼らの家族はこの街から強制退去させられるだろう。

 許せない。

 マスクもつけずに、相変わらずおどおどした様子でこちらをうかがう子どもたちの姿を睨みつけながら、私は亡くなった妻と娘のことを思い出していた。

 彼女たちの生命を奪った「スポーツ」を私は一生許そうとは思わない。


2

 もういまから4年ほど前、202X年、当時のこの国の政府と国際スポーツ振興組織は、新型感染症が大流行するなかで、あの国際総合体育大会の開催を強行した。

「完璧な安全対策をとっている」と喧伝されるなかでおこなわれたこのイベントで、事前に警鐘が鳴らされていたにも関わらず、結果からいえば選手村から大規模なクラスタ感染が発生した。

 激症化率の極めて高い新型変異株は何人もの有力選手たちの生命を奪い、日本政府と競技委員会は国際的な非難にさらされることになった。

 だが、それ自体は所詮それだけのことだ。

 当時の内閣が解散しようが、政権与党が選挙で大敗しようが、世界中の競技委員会事務局に抗議が殺到し、ときに銃弾が撃ち込まれようが、私たちの知ったことではない。

 亡くなったアスリートたちは気の毒かもしれないが、彼らも感染リスクがあるなか、名誉や自己実現目的でこの極東の島国までわざわざやってきたのだ。

 言葉はわるいが、自業自得だといってもいい過ぎとはいえないだろう。


 この街の住人にとってもっとも許しがたいことは、政府、自治体、競技委員会、選手団、協賛企業が密かに取引し、表向きには「安全のために自粛する」としていた大規模な非公式壮行会をこの街でおこなったことだ。

 度重なる緊急事態宣言と営業自粛、支払われない支援金によって、経済的に死にかかっていた飲食店や風俗店が多数を占めるこの街の住民にとって、このイベントの申し出は、乾いた砂漠を彷徨うなか差し出された一杯の水のようなものだった。

 いま思えばその水は毒入りだったわけだが。

 

 壮行会実施から3日後、実施店舗や周辺施設の従業員に体調不良を訴えるものが続出し、この街は大規模なクラスタ感染の現場として認定されることになった。

 のちに判明したこの街で発生した新型変異ウィルス(通称「ニホン型」)の特徴は、激症化率が高い一方軽症の場合はほぼ自覚症状がない点にある。

 このため、感染対策は完全に後手に回り、感染範囲は一週間後には首都圏全域に及んだ。

 この頃には、この街は区画全体が簡易的なバリケードまで張られるかたちで完全封鎖され、ただ、食料や医療物資、医療従事者を運ぶヘリの音だけが響くようになっていた。


 壮行会の会場のひとつになったレストランで調理主任を務めていた私は、いま思えば腹立たしいことだが、あの日の晩、中学、高校と打ち込んだ陸上競技の世界的なスター選手たちに自分の料理を供することができる誇りと喜びで胸をいっぱいにしていたものだ。

 ホールの担当者(彼もすでに亡くなってしまった)と入念にメニューやサービスについて打ち合わせ、当日は滞りなくパーティーが進んでいる様子に胸をなでおろした。

 滑稽なことに市長やスター選手たちから食後にお褒めの言葉をいただいた際には「このことは一生忘れまい」と心に誓ったものだ。


 その1ヶ月後に私は妻と娘を亡くすことになるとも知らず。


3

 結局、この街の封鎖状態はその後3年半に渡って続いた。


 あの壮行会の夜、私は自覚症状のない感染者になっていた。

 周囲に発症する人間が出ても、自分の体調に異常を感じなかったため、妻と娘が感染したことに気づくのが遅れてしまった。

 もっとも、その頃にはすでにこの街は封鎖され、公園に建てられたテントに患者たちが横たえられているような状況になっており、多少気づくのが早かったとしても何かが変わっていたわけではないだろうとも思う。

 だが、死に目に会うこともできなかった彼女たちの病の原因は確実に私自身にあるのだ。


 この街の封鎖が解かれることになった日の朝、妻と娘の死を伝えられて以来、鈍く凍りつき、動かされることがなくなっていた私の心にはじめて亀裂が生じた。

 この街が封鎖され、「スポーツ租界」などとおもしろおかしくマスメディアで報じられても、大会誘致や運営に関わった大企業の不正が次々と報じられ、逮捕者が出ても、私の心は死んだままだった。

 その日の朝もただぼんやりと国営放送のニュース番組を映し出す液晶モニターを眺めていた私は、世界各地でおこなわれているこの街の封鎖が解かれることを記念したスポーツイベントで、引退したスターアスリートが発した言葉を聞いて、突然刺すような痛みを感じた。

 画面の中で彼は

「あの悲劇を乗り越えて、これからも私たちはスポーツの素晴らしさを伝えていかなければならない」

といっていたのだ。

 私の心の氷は瞬時に溶け落ち、燃え上がった怒りで目の前が暗くなった。


 思えばあの瞬間が全世界的な「反スポーツ運動」が誕生した瞬間だったろう。

 高名なアスリートであり、人格者としても知られる彼の発言に悪意があったとは思わない。

 しかし、「スポーツ」とは何か。

 子供たちにとっては遊びであり、社会学的には代理戦争的な意味を持ち、生物学的には人間の身体的な可能性を探究するもの、文化的には平和の象徴のような意味をも持たされてきた。

 だが、あの大会で起きたことがパンデミックによる人命損失のリスクを徹頭徹尾エゴイスティックな利益追求と天秤にかけたタチの悪いギャンブルでしかなかったことは、その後明るみに出された大会にまつわる不正の数々によってはっきりしている。

 そのような大会に自身の名誉や自負心のために積極的に加担したアスリートたちのどこにいったい正義があったというのか。

 私たち遺族に「そんなもの」のすばらしさを語り伝えていけと?

 この国に限らず、この時世界中は起きてしまった事態と発覚した不祥事から目を逸らすことに夢中で、死んだものには家族がいるという当たり前の事実を忘れ去っていた。

 私たちはこの忘却によって、宙に浮いた憎悪や怒りを向ける先を期せずして教えられることになったのだ。


 この時の発言は、その後世界中のニュースメディアで報道され、東欧の高名な思想家によって「(古典ギリシア以降の)スポーツに至上価値を見出す」その発想が西欧中心主義と位置づけられることで、その後の「反スポーツ運動」の理論的根拠と看做されるようにもなっていく。

 しかし、その朝のこの街の住人にとって、その発言は政府と大会関係者が起きた事態を幕引きするための平和セレモニーとして企画されたイベントの性格を大規模な抗議集会へと変えてしまう意味を持つものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

オリンピア・クライシス(仮) @longboxman

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る