Ⅲ 叡智

 昼間は学者達が熱く討論を交わしているここも、皆が帰宅した後は闇と静寂だけがどこまでも広まっている……。


 その外部からは隔絶された世界の中、まずは三日月形の鎌とナイフを紐で結わえたコンパスを用い、木製の床に大きな同心円とそれを囲む正方形、その四隅に小さな四つの円を描き、線と線との間の空間に神聖な文字や魔術記号、神々の名前などを白墨で書き入れる……〝魔法円〟と称されている、悪魔を呼び出すとともに自らの身を守るための図形だ。


 そして、少量の塩を加えた聖水をヒソップの葉で散布し、四隅の円に置かれた香炉にアロエ、ナツメグ、ベンジャミンゴム、ジャコウの粉末くべて、もうもうと立ち上る芳しき煙で部屋と魔法円を聖別する……。


「では、参るか……」


 プァァァァァァ~っ…!


 すっかり舞台が整うと、私はその中心部へと歩を進め、儀式の開始を告げるラッパの音を夜の闇に吹き鳴らした。


 今夜の私はいつものフィレニック風の衣服とは違い、赤糸で魔術的記号を刺繍した白のリネン製ローブを纏い、やはり赤字で記号の施された革製ブーツと、神聖文字を記した羊皮紙の冠も被っている。


 いずれも大金を積んで、秘密裏に信頼のおけるメディカーメン家お抱えの職人に作らせたものだ。


 さらに右胸には自作した仔牛の革の五芒星ペンタグラム、左裾には六芒星ヘキサグラムの円盤を着けるという、『ソロモン王の鍵』に記された作法を私は厳密に守っている。


「霊よ、現れよ! 偉大なる神の徳と、知恵と、慈愛によって! 我は汝に命ずる! 汝の名は神の毒、神の悪意、またの名は赤き蛇……偉大なる魔王サマエルよ!」


 そんな魔術師の装いで、次に私は右手に魔法杖ワンド、左手に金属製の円盤ペンタクルを掲げ、東向きに悪魔を呼び出すための〝通常の召喚呪〟〟を読み上げる。


 その円盤ペンタクルには『ソロモン王の鍵』によるものではなく、クノウビス関連の文書を典拠とした〝樹に巻きつく大蛇〟が描かれている。


 私が呼び出そうとしているのは、そんじゃそこらにいるような下っ端の悪魔などではない……太古の昔、四大巨頭の一人、魔術師マゴスシモールが祭祀していたという〝知恵の実を人に与えた蛇〟の化身──大魔王サマエルなのだ。


「… 霊よ、現れよ。偉大なる神の徳と、知恵と、慈愛によって! ……通常のしゅでは届かぬか……ならば……霊よ、我は再度、汝を召喚する! 神の呼び名の中で最も力あるエルの名を用いて! 汝の名は大魔王サマエル!」


 しばらく〝通常の召喚呪〟を唱えた後、なんら変化の起きない様子に見切りをつけた私は、魔法杖ワンド短剣ダガーに持ち換えると、一段階上の〝さらに強力な召喚呪〟に呪文を切り替える。


「……霊よ、我は再度、汝を召喚する! 神の呼び名の中で最も力あるエルの名を用いて! …んん?」


 その呪文もしばらく唱え続けていると、ついにそれ・・は私の眼前に姿を現した。


 頭上に広がる漆黒の闇が渦を巻き始めたかと思うと、その渦の中から溢れ出すようにして、赤黒い色をした異形の存在が不気味な気配とともに床へと降り立つ。


 その暗赤色の身体には全体を覆い尽くすかの如くたくさんの眼が見開いており、背中には赤い鳥の翼が十二枚生えている。


「フン…クノウビスが滅び去ってからというもの、イスカンドリアの民に呼び出されるのは久方ぶりだ……ごく稀に叡智グノーシスを求めるプロフェシア教徒もいたが、彼らは異端としてすべてが亡き者とされたからな」


 また、その身体には長大な赤い蛇が巻きついており、その蛇の口がパクパクと開いて人の言葉を喋っている。


「……お、おまえがサマエルか?」


 その、邪悪な意思の顕現とでもいうべき見た目に内心恐れ慄くも、私は勇気を振り絞ってそれに語りかける。


「いかにも。だとしたらどうする? 身のほどをわきまえぬ小さき者よ」


叡智グノーシスを……私にも叡智グノーシスを見せてくれ! そのためにおまえを呼び出した!」


 眼を爛々と赤く輝かせ、しわがれた声で尋ね返す邪悪なる蛇に、気負う心を振り立たせて私は力強く望みを叫ぶ。


「ほおう……クノウビスと同じ志を持つ者というか……よかろう。ならば貴様の魂を対価として差し出せ。さすれば叡智グノーシスは貴様のものだ」


 すると、やはり悪魔は『ソロモンの鍵』の記載通りに、願いをかなえるための条件として私の魂を対価に要求してきた。これは悪魔の常套手段であり、けしてその交渉に乗ってはいけないのだという。


「それは聞けぬ話だ! こう見えても私は敬虔なるプロフェシア教徒。神の教えに背き、悪魔との契約などけしてせぬ! さあ、聖なる神の威光によりて責め苛まれたくなくば、おとなしく我が願いを聞き届けるのだ!」


 正直、異形の魔王への恐怖に震えあがりながらも、私は短剣ダガー円盤ペンタクルを突きつけて、外見だけは強気に振る舞う。


「フン。偽神ヤルダバオートしか知らぬ者が〝神〟を語るか……まあ、いいだろう。叡智グノーシスへと至るための道だけは教えてやる。そもそもなんの修行も積んでおらず、覚悟もない貴様が直に叡智グノーシスへなど触れれば、一瞬にして魂が弾け飛んでしまうだろうからな」


 すると、赤き蛇は願いを聞き届けてくれるのか? くれないのか? よくわからぬ、なんだか妙なことを言い出した。


「なに、簡単なことだ。今後もできうる限り多くの魔導書を翻訳して世に広めるとともに、自らも悪魔を召喚してその者達から学べ。さすればいつの日にか叡智グノーシスへも到達することができるであろう……それが貴様の歩むべき道であり、また、願いをかなえる代償でもある」


 続けて魔王はそう告げるが、私はなんだか肩透かしを食らったかのような感想を抱く……それでは、これまでやってきたこととあまり変わりないではないか。


「いや、拒もうと拒むまいと、貴様はすでにその道を選んで進んでおる。それが貴様に課せられた天からの使命なのだ……では、その時・・・が来たらまた会おうぞ。クノウビスを復活させる者よ」


 そして、呆然と立ち尽くす私をその場に残し、魔王サマエルは最後にそう言い残すと闇の中へ溶けて消えた……。


「使命……か……」


 先程は肩透かしのように感じたが、そう言われてみるとなんだかしっくりくるような気もする。


 私がコジコに見出され、メルクリウス文書の翻訳を始めたことも、クノウビスのことを知って叡智グノーシスに魅了されたことも、そして、抗いがたい智への欲求から魔王サマエルを召喚したことも、すべては最初から神によって仕組まれていたのではないだろうか?


 そう……魔導書グリモワールと呼ばれる文書類を再び復活させることが、この私、マルサリーノ・フェッチーノの運命なのだ!

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