第2話 応報

 午前二時三十四分


 絵里のマンションから捜査員用のマンションへ歩いて帰っている。


 俺は足元に転がる絵里の顔をずっと見ていた。涙に濡れている絵里に、胸が痛んだ。


 ――産まれてたら四歳、か。


 幼稚園に通っている頃か。クレヨンで似顔絵を描いてくれる頃か。帰宅したら走り寄って『おかえりなさい』と元気良く笑顔で俺を見上げる頃か。


 ――俺の人生には無縁だと思ってたのに。


 あの頃、絵里は二十四時間監視されていた。だから子供が他の男の子供でないことは確かだ。


 絵里が産婦人科に通院していたのはピルの処方だと報告は上がっていた。服用していなかったのか。

 俺は約三年の結婚生活、交際期間も入れれば六年もの間、避妊はしていなかった。だから俺は生殖能力が無いのだと思っていた。確定診断を受けたわけではない。ただ、そう思っていた。

 別れた嫁は三人の子を授かっている。だから、俺が原因だと思っていた。


 私、諒輔の子供を産みたいな――。


 やはり本心だったか。絵里は中絶を決めた時、何を思ったのか。だが、もしあの時に妊娠を告げられてたとしたら、俺はどうしていただろうか。

 警察官になったことをひたすら後悔していただろう。絵里と結婚することは、あの時も今も、俺には出来ないから。


 ――俺の子供。絵里が産みたかった子供。


 絵里のお腹の中ですくすくと育っていたであろう子。祝福されて産まれて来たであろう子。明るい未来が待っていた子。俺がその生命を奪ったのか。


 ――俺は最低な男だ。



 ◇



 午前二時四十三分


 捜査員用のマンションに着くと、階段の前に人影があった。よく見ると飯倉和亮だった。


 ガラスドアを開けた音に飯倉は気づいて振り向く。

 飯倉は俺が階段まで来るのを待ち、そして階段を登り、部屋へ向かうが、その間も無言だった。

 飯倉は俺をちらりと見る。だが目は合うがそらしてしまう。俺は今、どんな顔をしているのだろうか。おそらく酷い顔をしているのだろう。


 俺が玄関ドアを開けて中へ入ると、飯倉は続けて入る。靴を脱いでスリッパを履き、飯倉を見るが、飯倉は顔を伏せていた。


 掛時計の秒針だけが響くリビングに飯倉と俺。俺は飯倉を見ているが、飯倉は顔を伏せたまま動かない。


「なによ? 報告あるんだろ?」

「はい。あります」

「……で? 言え」


 今日も飯倉は奈緒美さんの素行調査をしていた。事件後、プールバーに連日通っていたようだが、今は行っていない。

 本社勤務になり、遠方になってしまったからなのもあるだろうが、転勤後で何かと忙しいのだと思う。


「昨日の夜、笹倉さんと車で出かけてました」

「……それで?」

「えっと……」


 言い淀む飯倉に思わず舌打ちしてしまう。視線を向けると体を強ばらせる飯倉は、俺を思いやる優しさゆえに言い淀んでるのか。


「言え」

「はい! 言います! 笹倉さんにマンションに送られた石川さんは号泣していました! 十分以上泣き続けて、笹倉さんが介抱してました!」


 ――そんな報告受けても俺にはどうすることも出来ねえよ。


 溜め息が出る。

 何も出来ない俺でも何か出来たのではないかと思ってしまう。奈緒美さんにしてあげられることだってあると思う。


 誰かがやらなきゃならないからやってるだけ――。

 捨てろ、全部捨てなきゃ出世は出来ねえよ――。


 今思えば、警察官になってからは何もかも捨てて生きていた気がする。奈緒美さんも、俺から去るだろう。


 ――なんで俺、警察官になっちゃったんだろうな。



 ◇



 午前四時二十分


 俺は眠れずにいた。捜査員用のマンションにはベッドは三つあるが、なぜか俺に近いベッドで寝た飯倉は寝息を立てている。


 俺は起き上がり仮眠室を出た。

 顔を洗いキッチンへ行く。

 換気扇の下でタバコに火を付け煙を吐くと溜め息に変わるような気がした。


 スマートフォンを手にした俺はメッセージアプリをタップしてトークの一覧画面を見たが、奈緒美さんのアイコンが変わっていることに気づいた。

 奈緒美さんとのトーク画面を開き、アイコンをタップすると、アイコンの背後の画像も変わっている。


 ――ベッドスロー、仕上げたんだ。


 奈緒美さんの寝室はカーテンもベッドカバーもダークネイビーで統一されている。なんとなく暗いからと、奈緒美さんはベッドカバーの足元に敷くベッドスローを作っていると言っていた。

 アイコンは何だろうか。レース編みの中に赤いものが見えるが、よくわからない。俺はアイコンをタップしようとしたが、音声通話をタップしてしまった。

 ポップアップには音声通話をするか否かの表示。

 もちろんキャンセルをタップしようとしたが、指が止まった。


 今は午前四時半前だ。奈緒美さんは寝てる。だが俺は声が聴きたかった。

 奈緒美さんにメッセージを送ったのは事件の数日前、もう三週間近く前だ。


 ――いい。電話する。電話したい。


 発信音が耳に届くと、スマートフォンを耳に当てた。呼び出し音が続く。


 通話の繋がる音がした。

 聴きたくて仕方がなかった奈緒美さんの声がする。

 聴きたかった声が耳に届いた瞬間、涙が溢れ出した。どうしたんだ俺は。


 いきなりの着信に飛び起きたのだろう、慌てた奈緒美さんの声が聞こえた。鼻をすすりながら話す俺は声が震えてしまうが、聞いてくれるだろうか。いや、聞いてくれなくてもいいか。


「こんな時間にごめん」

「いいの。目覚ましだと思って……ちょうど起きる時間だったから」

「え……こんな時間に?」

「うん、また今日もね、始発で出ないと間に合わない」


 眠気と疲れを隠しているかのような奈緒美さんの優しい声が耳に心地良い。この声に癒される。だからだろうか、涙は止まることを知らないように溢れて来る。


「奈緒美……」

「はい。なに?」

「電話も無い、メッセージも返さない俺でも、いいの?」


 昨夜の奈緒美さんは泣いていたという。

 飯倉の報告だから理由を問うことは出来ない。どうすればいいのだろう。


「あのさ、諒輔」

「ん? なに?」


 奈緒美さんは何も言わない。

 どうしたのかと俺も黙っていたが、奈緒美さんの発した言葉にどう返事をすればいいのかわからなかった。


「前にさ、『これから先も知りたくなかった事実を知ることになりますよ』って、言ったよね?」


 ――絵里は奈緒美さんにバラしたのか。


 いや、そんなはずはない。奈緒美さんの外出時は監視を続けている。誰からも絵里が近づいたと報告は上がっていない。

 だが、昨夜は優衣香ちゃんの前で泣いていた。泣くようなことが起きたのは事実だ。


 俺は奈緒美さんに返事をしなければならない。どうしようか。そう思っていると、奈緒美さんの声が耳に流れ込んだ。


「昨日、会社にね、吉原絵里さんから私宛に電話が掛かって来た」


 ――ああ……もうダメだ。終わった。


 深い溜め息が出た。

 電話口の向こうの奈緒美さんも気づいたのだろう。


「吉原さんは、諒輔の子供を産みたかったけど、産めないから堕ろしたんだって。それで、吉原さんはね、諒輔は産んで欲しかったか、聞いておいてって言ってた」


 覚えとけよ。自分の罪の報いは自分が受けるとは限らないからな――。


 もう俺の涙は止まっている。

 藤川が絵里も男も消すと言った時、任せれば良かったんだ。そうすれば、俺も奈緒美さんも知らずに済んだ。


 後悔は後でするものよ――。


 絵里が言っていた通りになった。

 俺が判断を誤らなければ、奈緒美さんを傷つけることはなかった。

 俺は女性を不幸にするだけだ。そう思っていたのに、欲を出したからこうなった。


 奈緒美、別れよう――。

 その言葉は出ることはなかった。

 だが言わないと、俺が言ってあげないとならないだろう。これ以上、傷つけたくない。

 俺には奈緒美さんを幸せにしてあげられない。なのに、言葉が出ない。


 沈黙に耐えられなくなったのは奈緒美さんだった。

 無言の通話の中で息を吸う音がする。


「諒輔、ごめん。電話切る。仕度しないとならないから」

「えっ、うん……」

「じゃあね」


 何も音がしなくなったスマートフォンを耳に当てながら、俺はただ、立ちすくんでいた。





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