第3話 後輩
七月十五日 午後一時三十七分
事務所の南に面した窓にはブラインドを閉じているが、窓に背を向ける席にいて背中は暑い。
斜め前に座る敬志は左腕をデスクに乗せ、右手で頬杖をついている。
俺は立ち上がり、椅子と一緒に敬志の隣に行った。
「背中が暑い」
「んっふ……」
敬志は溜め込んだ事務処理をしている。
前髪が目にかかる長さの敬志だが、今日はスタイリング剤をつけていない。髪が目に入るのを嫌がって頻繁に手でかき上げている。だがそれも面倒になったのか、引き出しからゴムを取り出して前髪を結わえた。
「よりによって、そのゴムで?」
「ふふっ、野川にもらったんですよ」
「ちゃんと使ってあげる優しい先輩だな」
「ふふふっ……」
去年の敬志は前髪が顎につく長さのストレートだった。その頭を優衣香ちゃんから『おかっぱ頭』と言われたことを気にして、弟に相談したら髪の長さは変わらずに、髪の下半分を刈り上げた髪型になって帰って来た。
その頃に野川からヘアゴムをもらったのだろう。野川らしい、女の子らしいヘアゴムだ。ピンクの細いゴムの両端にイチゴがついている。野川のトートバッグについていた記憶がある。
「優衣香ちゃんにはちゃんと連絡してるのか?」
俺の言葉に敬志は少し、動揺した。
中山から聞いている。加藤の見舞いに行った際に敬志が泣いたと。
敬志は加藤から手渡されたタオルで涙を拭っていたが、いつまでも嗚咽を漏らしていたという。
加藤は敬志のそんな姿を見て何を思ったのか、切れ目の入っていないカステラを適当にもいで敬志の口に押しつけたと。加藤の斜め上の行動に敬志の涙は止まったと。
敬志は警察を辞めたいと言ったそうだ。
優衣香ちゃんを幸せにしてあげたいと。
このままではまた優衣香ちゃんは家族を失くしてしまうから、と。
松永家の情報網を引き継ぐのは加藤だけだと思っていた。だが玲子さんは岡島直矢もだと言った。敬志を外すのかと聞いたが、そのつもりは無いという。
「連絡してますよ。電話はしませんけど、メッセージは送ってます」
「そっか」
「須藤さんは?」
「この前、電話したよ」
「そうですか……えっと、問題なく?」
「どうだかな、ふふっ」
俺をちらりと見る敬志は目を見て探っている。
――自分のことだけ考えとけよ。
口元が緩む。
敬志をこの仕事から外すことなど出来ない。それは敬志だって理解はしている。もちろんやり方次第では敬志を外すことも出来るが、敬志が抜けた穴を塞ぐのは難しい。
だが敬志が望むのなら、俺はやらなくてはならない。敬志と優衣香ちゃんのために俺は最善を尽くすが、それは敬志がきちんと俺に相談してきたらの話だ。
「時間見つけてさ、短時間でも会いに行けよ」
「うーん……でも岡島や飯倉を休ませないと……」
「それはそれ。今はお前の話をしてるの。加藤も復帰したし問題ないから」
岡島は葉梨の妹と付き合い始めて一ヶ月が経った。真夜中三時に霞が関に迎えに行くと聞いた時は驚いたが、国会会期中だったからその時間だったという。
岡島はその後、『休みは要らないから時間を下さい』と俺に相談してきた。岡島は彼女の自宅最寄り駅で待ち合わせて、近くにある大きな運動公園を散歩してから自宅に送っているという。
中学生のデートかと思ったが、ほんのわずかな時間でも彼女に捧げる岡島を、敬志は見習わなければならない。
敬志は後輩思いだ。
だからこれまでも優衣香ちゃんに会いに行きたくても後輩を優先させていたから、会いに行けなかった。
二ヶ月おき、長い時は半年以上も会っていなかったと聞いた時は呆れた。本来なら敬志は少なくとも月に一回は会いに行けたのに。
「おじさんは、可愛い息子のために時間作ってたんだろ?」
俺の言葉に、敬志は目を彷徨わせた。唇を噛み、一点を見つめたまま動かなくなった。
俺は敦志から聞いたことがある。
敬志たちが子供の頃、おじさんはどうにかして時間を作り、走って帰って来たという。おばさんが躾に厳しかったから、三兄弟は優しい父親が大好きだったと。毎回二十分にも満たない時間だったが、敦志は自分が刑事になってから父親がどれだけ無理をしていたかを身を持って知ったと言っていた。
「……はい、そうです」
「その頃のおじさんって、今のお前とあんまり
敬志は無言になったが、敬志の気持ちが揺れたのがわかる。
俺も無言のまま、椅子を引いて席に戻った。
敬志も事務処理を再開する。
俺は敬志の横顔を見ながら、胸ポケットに入れたスマートフォンを取り出してカメラアプリを起動し、敬志を撮った。
シャッター音は何度もしている。その音に驚く敬志はこちらを向いた。
「ちょっ、なんで撮ってるんですか」
「優衣香ちゃんに送ろうと思って」
「やめて」
「連写で撮ったから。一番のアホ面を送る」
「やめて」
「なら自分で撮ったキメ顔を送れ。今すぐだ」
「もー!」
不貞腐れた敬志はスマートフォンを手にして背景が映らない壁際に移動した。
素直な敬志に頬が緩む。
「ゴムはそのままな」
「やですよ!」
「ならアホ面を送るぞ?」
「もー!」
スマートフォンのインカメに自分を映し、イチゴのゴムで前髪を結わえている敬志はキメ顔を作っている。
――男はバカなくらいがちょうど良い。
俺はスマートフォンに視線を戻し、笑いながら一番まともな敬志のアホ面を加工する。背景を消してサイズの変更をした画像を優衣香ちゃんに送り、続けてメッセージも送った。
『お会いしてお話したいことがあります。直近のご都合のよろしい日と時間をお知らせ下さい』
送信ボタンをタップして、スマートフォンを胸ポケットにしまった。
◇
午後十一時六分
事務所のソファで仰向けになっているが、眠気はない。
飯倉が事務所に戻るのと入れ違いに敬志が外出して一時間。飯倉が叩くキーボードの音だけがしている。
天井を見上げながら敬志と優衣香ちゃんのことを考えた。
二人が幸せになれば良い。そう思うが、敬志は俺に何も言わなかった。せっかく敬志と二人だけの時間を作ったのに、敬志は言ってくれなかった。
――俺じゃ、頼りにならないのかな。
天井を見上げながらそんなことを思っていると、事務所のドアが開く音が聞こえた。
岡島と葉梨が帰って来たようだ。
ソファで寝ている俺の目の前にやって来た岡島はショルダーバッグから大きな茶封筒取り出した。その中身はわからないが、二人の喜色を隠し切れない顔つきを見るだけで、
岡島は茶封筒から書類を取り出し、俺に渡した。
俺は寝たまま無言で受け取った書類をめくりながら目を通すが、やはり捜査の終わりを告げるものだった。
書類から目線をずらし岡島を見上げた。
久しぶりに見た顔は少しやつれているように思える。疲れが出ているだけかと思ったが、目元に深いシワが出来ていた。
ソファから起き上がり、二人を労うと岡島は口元を緩めたまま、俺を真っすぐ見た。
「コーヒー、淹れますね。飯倉も手伝ってよ」
そう言って葉梨は飯倉と連れ立ってドアを開け、給湯室へ行った。
岡島は葉梨へ事前に指示していたのだろう。俺と二人だけにしろ、と。
「どうした? 何があった?」
岡島は笑みを消して、俺の隣に寄ってスマートフォンを差し出した。
その画面は個室となっている飲食店で食事をする男四人女三人の画像だった。
――この内装は確か……吉崎さんのスペインバルか?
岡島は無言のまま、男四人のうち、横に並ぶ二人を親指と人差し指で拡大した。
――飯倉和亮と本城昇太だ。合コン、か?
そして拡大画像を元のサイズに戻し、スワイプさせて次の画像を見せた。そこに写っていた若い女を岡島はまた拡大した。
「この女、吉原絵里の昔の男の手付きです」
――次から次へとメンドクセーな。
「どっちかこの女をお持ち帰りしたの?」
「……本城が」
――アイツはどうしていつもいつも……。
「本城の好きな笑顔の可愛い女の子だもんな、無理もねえな」
「そうですね……」
「飯倉はまだ知らないの?」
「はい」
岡島にとっては飯倉も本城も可愛い後輩だ。
今回の合コンは刑事課の間宮とは違うルートで来た話で、本城が飯倉を誘ったという。二人は同期で仲が良い。
間宮が集める女は、事前にある程度の身元を洗っている。
未成年でないことを証明させるために運転免許証所持者が条件で、信頼のおける女を介して女を集めているから、
「すぐ、対応するよ」
「お願いします!」
笑顔の戻った岡島の向こうに、コーヒーをトレーに乗せた飯倉と葉梨が見えた。
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