第9章
第1話 秘匿
須藤諒輔は吉原絵里のマンションにいた。
黒い長袖Tシャツに黒のカーゴパンツを履いた須藤は、キッチンとダイニングを隔てるカウンターの前にしゃがみ込み、廊下を歩く吉原絵里の足音を聞いている。
ドアが開き、ネイビーのバスローブ姿の吉原絵里はキッチンへ入って浄水器からグラスに水を注ぎ始めた。カウンター越しに水温を聞きながら次の動作を待つ須藤は、まだ身を
吉原絵里はグラスに注いだ水を少し飲み、グラスを置いた。そのタイミングに合わせて須藤は動いた。
吉原絵里の両手首を後ろで拘束し、右手で口を塞ぎ、足も絡ませて身動きが出来ないようにしている須藤は、冷めた目で吉原絵里を見ている。
目を見開き、なんとか後ろを見ようとする吉原絵里の塞がれた口からは、くぐもった声がしていた。
「絵里、久しぶりだな」
そう言って須藤は口を塞いでいた右手を離し、絡ませた足もほどき、最後に手首を拘束していた左手を離した。
振り向いた吉原絵里は呆然とした表情で須藤を見ている。唇を震わせ、そのままへたり込む吉原絵里を、須藤は無表情で見下ろしていた。
◇◇◇
七月十三日 午前一時十二分
「俺に用があるんだろ?」
俺は屈んで絵里と目を合わせて言ったが、起き上がれないようだ。なら、ここで話すか。
「目的は何? カネ?」
目を伏せていた絵里はゆっくりと顔を上げ、俺を睨めつけた。
――カネじゃねえのはわかってるよ。
絵里は男から
奈緒美さんと俺の関係を知った絵里は、ただの暇つぶしで俺を呼び出したのだろう。
山野花緒里に接触したのも暇つぶし。目立ったことをすれば、すぐに俺が現れると思っていたのだろう。
――弁当持ちなんだから大人しくしとけよ。
「目的は? クスリ欲しいの?」
元々、絵里は山野花緒里から情報を引っ張っていた男に囲われていた。その後、何があったのかは不明だがこのマンションの持ち主である長身痩躯の男と関係を持つようになった。
以前の男は薬物とは無関係だったが、新しい男は薬物関連で
「用件、言ってよ」
絵里は大きく息を吸い、少し間をおいて吐き出した。そしてゆっくりと立ち上がり、俺を見た。
立ち上がった際に後退った俺に絵里は近づこうとしたが、軽く手を上げて絵里を牽制すると、絵里は俺の背後を指差した。
俺は指差した先に顔を向けたが、何を指差しているのかわからず絵里に視線を戻すと、絵里は左手に持っていたグラスの中身を俺に向けてぶちまけた。
冷たい水を顔に浴びて俺はしばし呆然としたが、軽く首を振って絵里に顔を向けると、懐かしい声がした。
「ふふっ……普通に玄関から入って来たらいいのに」
濡れた顔を手で拭う俺を見て、絵里は口元を緩ませた。笑いを堪えているような顔で俺を見ている。
絵里は俺の脇をすり抜けてダイニングへ歩いて行った。
◇
ダイニングテーブルの椅子に座った絵里はキッチンにいる俺を見ている。俺はTシャツを引き出して顔を拭っていると絵里の声が聞こえた。
相変わらずいい体してるね――。
絵里は微笑んでいた。
細い体、切れ長の目、厚い唇、ダークブラウンのロングヘア、透き通るような白い肌。五年前と変わらない絵里がそこにいた。
「用件、言ってよ」
俺はそう言いながら絵里の元へ行く。
絵里の左側に立ち、絵里の少し細くなった顎を右手で掴むと、絵里は目を細めた。
右手に力を入れて上を向かせ、顔を寄せると絵里は目を閉じ、また開き、俺と視線を合わせる。そして絵里は微笑みながら俺の顔に手を伸ばし、俺の頬に触れた。
親指で絵里の唇をなぞり、顔を近づけると、絵里は目を閉じる。顔を近づけた俺は絵里の顎を押して、離れた。
絵里は目を見開き、俺を睨んだが、やがて口元を緩めた。
そんな絵里を見て俺は笑った。
「用件、言ってよ」
「それしか言わないのね」
「そりゃね」
「……ねぇ、ひとつ、聞かせて」
俺を見上げる絵里はTシャツに視線を落とした。濡れた跡を見ているのか、目線は動いている。
「石川奈緒美さんと、結婚するの?」
ゆっくりと目線を上げる絵里の長い睫毛が揺れる。無表情の絵里は何を考えているのかわからない。
だがすぐに俺から視線を外すと俯き、俺の左手を見て動かなくなった。
しばらく沈黙が続いたが、絵里は目を伏せたまま話し始めた。
絵里は頭に浮かんだことをそのまま話す。要領を得ない話を頭で整理するが、まとまりのつかない話を途切れ途切れに話している。
それでも、絵里は時々言葉を詰まらせながら俺に何かを伝えようとしていた。
奈緒美さんの部屋の上に住んでからの計画、山野花緒里のこと、いなくなった男のこと、そして絵里自身のこと。
しばらく話を聞いていたが、要領を得ない話が続き、いつまでも聞いていられないと俺は口を開いた。
「で? 何が言いたいの?」
俺がそう言うと絵里は目を大きく見開いた。俺の態度に驚いているのだろう。
絵里は目線を俺の方に戻し、俺と目を合わせた。
俺は無表情で絵里を見ていたが、俺の目を見たままの状態から動かない絵里の口からは言葉が出て来ない。
聞きたいことは山ほどあるが、これ以上聞いていると時間が無くなる。俺は溜め息を吐いて腕時計を見た。
絵里をまた見ると、絵里は俺を見ていた。そのまま俺は何秒か待ったが、また俯いてしまった。
ずっと動かずにいる絵里を見ていることしか出来ない俺は時間の無駄を感じていた。動かない絵里を見ながら、何が目的なのか考えていると、絵里の膝に涙がこぼれ落ちた。
――何で泣くんだよ……。
そう思う俺に向けて絵里は顔を上げ、言った。
「石川さんとお幸せに」
――何言ってんだ?
そう思う俺の目には涙が溜まっていく絵里が映っている。俺の方に顔を上げた絵里は涙を流しながらも微笑んでいた。だがその口元は歪んでいる。
「言いたいことは他にあるんだろ? 言えよ」
俺の言葉を聞いた絵里の目が据わる。俺を睨む絵里から嗚咽混じりの言葉が聞こえた。
「何で……何で連絡くれなかったの? 私……私、諒輔が迎えに来てくれるって思ってたのに」
絵里の言葉が頭に響く。
俺は目をそらした。
――お前そんなこと言える立場かよ。
そう思いながら絵里を見ると、涙に濡れた痛々しい顔で俺を見ていた。
こいつは急に何を言い出したんだ。そう思っていた俺の口をついて出た言葉、それが絵里の癪に障ったのか、絵里は立ち上がり俺に手を出した。
俺は素早く押さえつけ、ダイニングテーブルに絵里を押し付けて後頭部を押さえつけた。
それでも絵里はじたばたしている。足をばたつかせる。
絵里の動きを封じていく俺に抵抗しきれなくなったのか、次第に大人しくなっていったが、絵里の言葉に俺の頭は真っ白になった。
「産めばよかった……諒輔の子供……堕ろしたくなかった。産みたかったのに。産んでたら私は一人じゃなかった」
その言葉に俺は思考の一切を失い、絵里を見ることも忘れて動くことすら忘れていた。
◇
俺は、絵里が何を言っているのか理解が出来なかった。いや、理解は出来る。だが頭が追いつかない。
絵里を押さえつけながら真っ白になった頭で考えた。俺に子供がいたのか。
そんな俺を睨みつける絵里と目が合うと俺はまた固まってしまったが、身体は勝手に動く。俺は絵里を開放し、そのまま椅子に座らせた。
思考の戻らない俺は絵里から目をそらした。
絵里は俯いたまま動かずにいるが、そのうち静かに話し出した。
「私が産んで――」
その時だった。
いつの間にか絵里の背後に中山陸がいた。左手で絵里の口を塞ぎ、右手の指先で頸動脈を絞めている。
中山の左手を掴んでいた絵里の両手は力を失い下がっていく。中山は絵里の口を押さえながら右手の人差し指と中指を揃え、そっと首に触れた。力を入れず、触れるだけしか触れていないように見える。
「だから藤川さんに任せときゃよかったんですよ」
吐き捨てるように言う中山の唇は、引き結んでいるが震えている。中山は知っていたのか。他に誰が知っていたんだ。
中山は絵里を抱き起こして床に寝かせ、そして右腰のポケットからポーチを取り出し、注射器とアンプルを手にした。
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