幕間 恋する乙女と白馬に乗った熊

 私は今、パンツを見ている。


 また言葉足らずだ。だが厳密には違う。

 私は自宅リビングのソファに座ってネットニュースを見ているが、広告がパンツなせいで碌でもないニュースがさらに碌でもないニュースになっている。


 ――また警察官の不祥事か。


 どのニュースサイトでもそうだが、警察官の不祥事ニュースをうっかりタップしてしまうと、関連ニュースが全て警察官ないしは警察の不祥事ニュースで埋め尽くされてしまうという、国民の信頼を全力で裏切るニュースサイトの仕様に私はモノ申したいが、立場上、何も言えない。


 今、私が見ている警察官の不祥事ニュースはたまによくあるニュースで、『こんな碌でもない内容を全世界に発信するな』と思うのだが、私は警察官であるから、このニュースが公表されるに至った経緯に思いを馳せてしまう。


 私にはわかるのだ。これは血の滲むような努力を重ねて出世したおじさんたちが、『僕はこんなことするために警察官になったんじゃないもんっ!』と泣きそうな顔をしながら編み出した苦肉の策なのだ、と。


 偉いおじさんたちは、さらに上の偉いおじさんたちからガチギレされても、こんな碌でもない不祥事を公表して国民から批判を受けても、守らなくてはならないものがあるのだ。

 それは決して、勤務中に公用車の中でコトに及んでいる姿を別の不適切な関係の女に目撃されて監察にタレ込まれ、嫁に二件の不適切な関係がバレた上にキレた嫁が離婚上等で週刊誌にタレ込んだせいで週刊誌から砲撃を食らったこの四十代の既婚警察官二人を守るのではない。ただただ、警察組織を守るために偉いおじさんたちは涙目になりながら頑張っているのだ。


 ――偉いおじさんたちは絶対に、この碌でもない警察官二人をボッコボコにしたいだろうな。


 私は画面上下と中央にあるパンツのバナー広告を視界に入れながら、この碌でもない不祥事ニュースを読んでいた。だが――。


 ――パンツの陰から三人目の女が登場したぞ。


 私はワクワクしながら、続きを読むために週刊誌のサイトをタップした。



 ◇



 私は今、葉梨を見ている。


 言葉足らずだ。だが葉梨を見ていることには違いはない。だいたい合っているから良いだろう。


 葉梨はリビングにあるトレーニングマシンやサンドバッグのレイアウトの変更をしている。

 大腿の切創は経過も良く問題無いが、葉梨は私に何もするなと言い、私はソファに座ってトレーニングマシンを一人で動かしている葉梨を眺めていた。


 私の家は来客を想定しておらず、一人掛けソファと三十センチ角のテーブルしか無い。自分でもちょっと不便だなとは思っていたが、葉梨はもっと不便だったそうだ。無理もない。

 だから葉梨と相談してダイニングテーブルを買うことになり、スペースを空けるために葉梨はトレーニングマシンを動かしている。


 葉梨が軽々とトレーニングマシンを移動させている姿に私の頬は緩む。


 ――幸せだな。


 葉梨のパンツを買っておこうと思い、ネットショッピングサイトでメンズのパンツを見過ぎたせいで広告がパンツのみになっているが、私は幸せだ。

 さっき見ていた碌でもない警察官は三人目の女が登場したせいで女性警察官の夫である男性警察官の不適切な関係もついでにバレて泥沼離婚劇になっているようだが、同じ警察官でも私と葉梨は幸せだ。


 幸せを噛みしめながら、私はまたスマートフォンの画面に目線を落とした。

 パンツのバナー広告は数秒で商品が切り替わるタイプだ。広告業界の人も手を替え品を替え、タップさせないことには商売にならないのだろう。お疲れさまで――。


 ――なんだこのパンツは。


 私は葉梨のボクサーパンツを見たあとに興味本位でブリーフを見た。見たのは事実だ。だがこんなパンツは見ていない。天地神明に誓って、こんなパンツは見ていない。


 ――玉と竿の分離型って、何。


 玉と竿の分離型とは、玉と竿が分離されているということです――。


 いけない。私は神奈川県内選出の代議士構文を心の中で呟いてしまった。昨年から神奈川県に拠点を置いて活動しているせいだろうか。


 だが玉と竿の分離型のパンツとはどういうものなのだろうか。複数の種類があるようだが、こういったパンツがあるということは需要があるから供給があるのだろう。玉と竿を分離させないとならない理由とは――。


 私には玉も竿も無い。

 ならば聞いてみれば良い。そうだ、目の前にいる葉梨に聞いてみれば良い。

 何でも聞くな自分で調べろなのは百も承知だが、私が『玉と竿の分離型パンツ』とスマートフォンで検索したら、広告が玉と竿の分離型パンツだけになってしまう。それは嫌だ。

 ボクサーパンツだけならまだ良いのだ。ブリーフも……まあ、良い。だが、この玉と竿の分離型パンツはちょっと、よろしくないだろう。

 そんなことを考えていると、玉と竿の分離型パンツが別の種類に切り替わった。


 ――通気性抜群のシースルーぞうさんパンツはダメだろう。


 これは完全にアウトだ。状況次第では署の偉いおじさんが『警察官にあるまじき行為でウンタラカンタラ』などと笑ってはいけない記者会見をするハメになる。押収品展示だったらどうするんだ。未来永劫、ネットミームとして残ってしまう。


 ――よろしくない。絶対に、よろしくない。


 事件事故を防ぐのも警察の仕事だ。着用画像が既に大事故を起こしているシースルーぞうさんパンツをタップしてはいけない。これは葉梨に、葉梨に聞くしかない。

 首にかけたタオルで汗を拭っている葉梨へ、私は声をかけた。


「ちゅむちゃーん」

「んー? なにー?」


 ――あ、返事した。


 葉梨とケンカしていた頃、私は玲緒奈さんからアドバイスを受けた。


『奈緒ちゃん、二人でいる時は必ず名前で呼びなさい。名前を呼ばなくても良い状況でも必ずよ。ねえとかじゃなくて、名前を呼ぶの。ケンカしている時は、あんたとかお前とか絶対に言わないとルールを決めなさい』


 そうアドバイスしてくれた玲緒奈さんは、私が葉梨を名字で読んでいることを咎めた。だから私は葉梨と相談をした。葉梨の名を呼びたいが、何と呼べば良いのか、と。


 葉梨の名は将由まさよしだから、まさくん、まさちゃん、まーくん、まーちゃんだ。どれが良いか聞いた。だが葉梨は、自分は私の希望で『奈緒』と呼び捨てにしているのだから、『将由まさよし』と呼び捨てで良いのではと言った。


 だが私は名前を呼び捨てにしてはならないと思っている。

 私が子どもの頃、友達の名を呼び捨てにしていることを母に叱られた経験がある。『敬意を払いなさい』と。だから葉梨を『将由まさよし』と呼び捨てにするのは嫌で、どう呼ぶか悩んでしまった。


 そこで頭に浮かんだのが『ちゅむちゃん』だった。

 はなしまさよし、だから、ちゅむちゃんだ。


 葉梨は、葉梨はなし将由まさよしのどこをどうしたら『ちゅむちゃん』なんだと言いたそうだったが、私が『おぼろげながら浮かんできた』と言うと、少し眉根を寄せて真っすぐ見つめられた。


 玲緒奈さんは夫の敦志あつしさんのことを『むーちゃん』と呼んでいる。松永まつなが敦志あつしで『むーちゃん』だ。

 ならば葉梨はなし将由まさよしで『ちゅむちゃん』でも良いだろうと思った。思ったが、葉梨は不満そうだった。


 結局、二人きりで絶対に人がいない状況でなら『ちゅむちゃん』で良いと決まった。

 事件があった日、事務所で私が『ちゅむちゃん』と言いかけた時は『ダメ、絶対!』と葉梨は抵抗していた。だが今は良いようだ。


「ちゅむちゃん、あのね……」

「んー?」


 汗を拭きながら葉梨はソファの背後に回った。

 後ろから私の首に唇を寄せて、私が振り向くと唇を重ねる、いつものだ。

 私は嬉しくて、葉梨にもう一度キスをねだった。唇を重ねて、離すと葉梨は笑う。その顔が愛しくて、私はいつも幸せな気持ちになる。


「玉と竿の分離型パンツって、どんな利点があるの?」


 葉梨は少し眉根を寄せて、真っすぐ私を見つめている。私はこの顔も好きだ。


「えっと……分離してると蒸れない」

「蒸れない」

「うん。ペタペタするからね」

「ペタペタ」

「あと、チ……ポジションが安定する」

「……ポジション」


 私には玉も竿も無いからよくわからないが、男性はいろいろと大変なんだなと思った。

 ならばぞうさんパンツはどうなのかと聞いてみようか。平常時はその長さじゃないだろうとは思うのだが、このぞうさんパンツの需要がある理由を葉梨に聞いてみようと思った。

 葉梨にスマートフォンの画面を見せ、バナー広告がぞうさんパンツに切り替わるのを待った。


 ――あ、ぞうさんパンツ来た。


「ちゅむちゃん、このぞう――」


 言い終わらないうちに葉梨は私の顎を掴み、指で頬を押して口を開かせた。葉梨の唇が舌が、私を求めている。

 便宜上、『給餌』と呼んでいるこのキスは何なのか、まだ正式名称が見つからない。だが、葉梨は好きなのだろう。きっと。


 葉梨の首に指先を添わせると、葉梨は私の背中に腕を回し、引き寄せた。

 葉梨の汗ばむ肌の匂いに私は我慢が出来なくなる。葉梨の息づかいは徐々に荒くなってきた。


 長く重ねた唇が離れると、葉梨は私の耳元で囁いた。


「今、履いてるから見せてあげる」


 ――ぞうさんパンツを?


 ソファに座る私を持ち上げてお姫様抱っこする葉梨は、口元に笑みを浮かべている。


「奈緒……ベッドに行こう……ね」


 私の頬は緩んでいる。

 葉梨のっぱいに顔を埋め、幸せを感じていた。


 リビングのドアを開けて廊下を進み、寝室のドアを開けた葉梨は私の顔を見た。そして優しい声音が落ちて来た。男の声だ。二人きりの時にしか聴けない葉梨の声――。


「奈緒は、どんなパンツ履いてるの?」


 ――ついに、ついに葉梨が碌でもないことを言うようになった!


 だが私は嬉しい。

 だって、関係が変化しているのだから。


 一人の女だけを夢中にさせる男は、いい男――。


 私はもう、葉梨ちゅむちゃんに夢中だ。




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