第6話 慟哭

 七月七日 午後三時二十分


 冷房の効いた病院の中は涼しい。


 談話室で涼みながら、自販機で買った冷たいお茶を飲む。今日は気温が三十度を超える真夏日だ。さすがに自転車では体に堪えるからバスで来た。


 中山はまだ来ていないのかと考えながら廊下に目をやると、談話室に加藤が入って来るのが見えた。病衣の上にジャージを羽織って首にタオルを巻いている。今日も元気な笑顔だ。


「お疲れさまです」

「お疲れ。大きい羊羹を買って来たよ」

「ありがとうございます」


 約九十センチ角のテーブルは四人掛けで、加藤は俺の左に座った。

 加藤のケガ自体は本来なら自宅療養で問題無い程度だったが、牛刀に薬剤が塗られていたことから入院することになった。


「経過は?」

「明日退院でもよいとのことです」

「よかったね」

「ええ、そうですね。でも残念ですけど。ふふっ」


 入院して三日目、見舞いに行った際に加藤は、『三食昼寝付きで寝てる時に電話で叩き起こされなくて幸せです』と言っていた。


 警察官は家で寝ていても、ふと目が醒めてスマートフォンを見て着信が無いか確認してしまう。熟睡した時ほど、焦ってスマートフォンを確認する。心休まる瞬間など無いに等しい。


「昨日、相澤が見舞いに来てくれましたよ」

「そうみたいね」

「頬を膨らませて怒ってました。ふふっ」


 加藤の背中には切創痕があり、十五センチほど瘢痕が残っている。相澤は傷跡が綺麗に治ったと思っていたそうだ。今回の大腿の傷は背中より浅いが、傷跡はまた残るだろう。

 女性が体に傷を負うなんて辛いだろうとは思うが、加藤は気にしていない。ケガをせずに山野を拘束出来なかったことを悔やんでいるだけだった。

 警察官としては確かにケガを負ったことは問題だ。だが加藤はあの時、優衣香と石川さんを守ろうとして前に出た。背後に迫る葉梨との距離を考えても、自分が行かなくてはならないと思ったのだろう。


『松永さんは、奈緒ちゃんも誰かを守ってよと、言いましたよね? 私は守りましたよ』


 小さい羊羹を食べながら、俺に視線を向けた加藤は笑っていた。だが俺は加藤がケガをしたことが悲しくて辛くて、申し訳無い気持ちで何も言えずにいると、加藤はこう言った。


『戦場で女が前線にいると男は女を守ろうとするから男の死亡率が高いんですよ。警察も、女なんてに出さなきゃいいのに、と思っています』


 半分は本音だろうと思った。

 だが国民の半分は女性だ。対応する警察官が女性でなければならない事案もあるし、女性警察官が少ないがゆえに起きる問題も多い。


「松永さん」

「ん?」

「葉梨はちゃんと仕事してます?」

「ああ、問題無いよ」


 葉梨は自分のせいで加藤がケガをしたと落ち込んではいるが、時折スマートフォンを見て嬉しそうにしている姿を見る。おそらく入院中にやることが無くてヒマな加藤が何かしらメッセージなりを送っているのだろう。


「あの……笹倉さんのケガは、もう大丈夫なんですか?」


 俺をちらりと横目で見る加藤は、俺が連絡をあまりしていないなど思いもしないだろう。自分が情けない。何も出来ないでいる自分が不甲斐なくて、気分が沈む。


「ケガは問題無いようだよ。昨日……一昨日かな、初めて電話したんだよね、俺。ふふっ……」


 加藤は目を見開いて口を開けるが、言葉が出て来ない。何かを言いたそうな目は伏せられた。


 ――話しちゃおうかな。


 加藤に優衣香の実家の事件は話していない。俺は加藤に全て知って欲しいと思って加藤に体を向けた時、談話室に中山が入って来た。


「ごめんね遅くなって!」

「お疲れさまです」

「高級なカステラ買って来たよー!」

「んふふ……ありがとうございます」


 俺の正面に座った中山はカステラの包装紙に付いたシールやテープを丁寧に剥がし、中の箱を加藤に持たせ、中山が包装紙を持って箱だけを加藤に引っ張らせている。

 楽しそうな二人に頬が緩む。


 ――りっくんにも聞いて欲しいな。


 須藤さんは中山に優衣香の実家の件は話していないから、二人は知らないままだ。話してしまおう。

 入院している加藤の見舞いで病院で話すことじゃないのはわかってる。だが俺は、もう心が限界を迎えているのだろう。話さないとダメだと思った。自分を止められない。


「あのさ、二人に話したいことがあるんだけど、聞いてもらえないかな」


 テーブルを挟んで正面にいる中山と左にいる加藤は、目線を合わせた。仕事の話かと思っているのかな。


「彼女のこと。俺の個人的な話だよ」

「ああっ……ふふっ、そうですか」

「え、なに? 惚気話?」

「……違う。五年前の俺の実家の隣で起きた放火殺人事件……覚えてる? その容疑者の恋人で、被害者の一人娘が、俺の彼女なんだよ」


 二人とも、驚きのあまり口を開けたまま何も言えないでいる。俺は続けた。


「相澤が事件担当で、須藤さんは別の所轄だけど彼女と面識があったし、兄ちゃんも玲緒奈さんも、母もね、事件後は彼女のサポートをしたんだよ」


 中山と加藤は黙ったままだが、俺は話を続けた。話したところで現状は何も変わらない。だが話さないと、俺の心がもたない。


「彼女は高三の時に父親を病気で亡くして、事件で母親を、家族の思い出がつまった家を、全てを失ってね、彼女は一人で生きて行くつもりだったみたいだけど、俺と家族になりたいって、言ってくれたんだよ」


 二人とも頬が緩んでいる。その顔を見ていたら、俺も同じように頬が緩む。だが、話を続けなくてはならない。


「俺が署で暴れた理由は彼女。あの時、俺はずっと潜って・・・いたでしょ? 母からのメールを見てね、その後の記憶はあんまり無いんだよ。いつの間にか署にいて、相澤に縋って、泣いてた」


 優衣香は、俺に連絡することは無かった。メッセージも着信も無かった。なのに……。


「母のメールにはね、『優衣香ちゃんが取り乱してるから今から来れないか』って、書いてあった。俺さ、そのメールを見たのは、受信日の三ヶ月後だったんだよね」


 二人は顔を見合わせた。二人とも、放火殺人事件の被害者は俺と面識のある女性だったから署で暴れたと、今まで思っていた。もちろんそれもあるが、一番の理由は優衣香だった。


「彼女が全てを失ったことを、俺は八ヶ月も知らなかった。彼女が俺に会いたいと泣き喚いていたことを、三ヶ月後に知った。そんな俺が、彼女を幸せに出来ると思う? 自信が無いんだよ」


 二人とも目を伏せてしまった。

 俺も二人を見ることが出来ない。


「この前の件だって、口止めして、ホテルに泊まらせて、でも見送りも連絡も出来ず、俺は彼女を一人で帰らせたんだよ」


 視界に入る中山の手元は、カステラの包装紙を丁寧に折っていた。加藤は黙ったままだ。

 俺は顔を上げて二人を見たが、唇は少し震えている。


「俺がこの仕事してたらさ、彼女はまた家族を失くしてしまうかも知れないんだよ。俺、俺……そんなの……やだよ」


 視界が歪む。

 涙は目尻から頬、顎を伝って膝に落ちる。


「俺……俺、警察辞めたい……でも、出来ないじゃん……俺……彼女を幸せにしてやりたいだけなのに……」


 手の甲で目を擦ると更に涙が出てきた。涙腺は言うことを聞かない。

 一度流れ出した涙を止める方法を知らない俺は、二人の顔を見ずに俺は、目の前にいない優衣香に言った。


「優衣ちゃんが誰かと結婚しちゃえばよかったんだよ」


 俺の中の何かが決壊したのを感じたが、もうどうでもいいと鼻をすする俺に、加藤は首に巻いたタオルを差し出す。中山は立ち上がり、嗚咽を漏らす俺の横に来て、俺の背中を撫でている。まるで子供だ。


 俺は涙が止まらずに泣き続けた。




 ―― 第8章・了 ――


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