第5話 すれ違う心
午前三時二十六分
車に乗り、優衣香のボイスメッセージを再生すると、優衣香の可愛い声が耳に流れ込んだ。
思わず頬が緩んでしまう。
優衣香にはメッセージを送ってくれとお願いしているが、何を送ればいいのか悩んだのだろう。最近はトーク画面が『やることリスト』と『買い物リスト』と化している。
優衣香の暮らしが見えて満足だが、俺の好きなすあまは頻繁に買っているようだ。『すあま食べたよ』とメッセージが来るが、本当は俺に食べさせたいのだと思う。
優衣香の優しさと思いやりは嬉しいが、叶えてあげられなくて心が締めつけられる。
それに優衣香は寂しいのだろう。俺が喜ぶからボイスメッセージを送って来たのもあるだろうが、寂しいからだと思う。
警察を辞めずに優衣香を幸せにするには、どうすればいいんだろう。でも、この仕事からは逃げられない。
――警察官になりたかったけど、警察官になるんじゃなかった。
目を閉じると溜め息が出た。
朝行って夜帰って来る普通の人なら今は寝てる時間だ。夜勤の人なら朝、退勤する。帰宅出来る。
だが俺はどうだ。
官舎に戻れず捜査員用に借りたマンションで生活をしている。
今の拠点は神奈川県横浜市だから官舎へ戻ることも出来るが、過去には関東から離れたことだってあった。
――なんで俺、警察官になっちゃったんだろうな。
刑事課ならどうだ。強行、知能、盗犯、組対。今より帰宅は出来る。生安なら、交通なら……。
俺には仕事よりも大事なものが他にある。
俺は優衣香を幸せにしたい。
ただそれだけなんだ。
なのに出来ないなんて、俺は何のために生きてるんだ。
◇
午前三時三十二分
いつまでもここにはいられない。マンションに戻らないと。
優衣香にボイスメッセージを送ろうとボタンをタップして、メッセージを録音した。
「優衣ちゃんラブー」
口元が緩む。
朝、俺のボイスメッセージを聴いた優衣香は笑顔になるだろうか。優衣香がいつも笑顔でいてくれるなら俺は嬉しい。
そんなことを思いながらトーク画面を眺めていると既読がついた。
――何で起きてるんだ。三時半だぞ。
俺は急いでメッセージを送った。『起きてるの?』と送ると、すぐに既読がつく。
優衣香の返事は『目が覚めたんだよ』だった。
違うだろう。事件後から眠りが浅いからだろう。
俺は優衣香に電話をかけると、すぐに応答した優衣香は「どうしたの?」と問う。
「優衣ちゃん、寝れないってお母さんに……」
「あー、うん……でももう大丈夫だよ、ちゃんと寝てるよ」
――嘘だ。絶対に嘘だ。
「優衣ちゃん、ごめんね、俺のせいだよね」
「えっ、何で? どうして?」
俺は優衣香に嘘を吐かせている。
嘘なんか吐かないで欲しいのに。
優衣香に笑っていて欲しいのに。
俺はスマートフォンを強く握りしめた。
俺が警察官じゃなければ、優衣香は怯えることなかったのではないか。事件前のように笑顔で過ごせたのではないか。俺はそんなことばかりを考えてしまう。
心配させたくないのに、どうしてこうも上手くいかないのだろう。
「敬ちゃん、加藤さんは退院したの?」
「えっ……ああ……」
――言えない、かな。でも言っても大丈夫かな。
ただ優衣香はケガを負った加藤を心配しているだけだろう。なら言っても大丈夫か。
加藤の近況を話そうと口を開いた時、優衣香の焦った声が耳に流れ込んだ。
「敬ちゃん! ごめんね、聞いちゃダメだよね、ごめんなさい」
心臓がドクンと大きく跳ねる。
俺は慌てて言った。
「違う。優衣ちゃん、謝らないで」
「でも……加藤さんのことは聞いちゃダメだから……」
「……ダメじゃないよ」
優衣香は深呼吸して言葉を発した。
「敬ちゃん、本当にごめん。ごめんなさい……」
涙混じりの声に胸が締めつけられた。なぜ優衣香は謝るのだろう。また母や玲緒奈さんに何かを言われたのか。
「迷惑かけてごめんなさい……」
ずっと耳に聞こえるのは電話口からの鼻をすする音だけ。
泣いているであろう優衣香に、どう言っていいのか言葉が出て来ない。かける言葉がないのかと言われればそうなのかもしれないが、なぜか声にならなかった。
慰めればいいのだろうと思っているが、気の利いた言葉を言えばいいのに言えない自分に腹が立つ。
俺は優衣香を笑顔にさせてあげたいのに、悲しませることしか出来ない。
かける言葉が見つからないままどれくらい経ったのか。実際には数秒なのだろうが、とても長い時間が流れたように思える。
小さなすすり声が止んだ優衣香はか細い声を絞り出した。
「敬ちゃん、あの……」
また涙声に聞こえた。俺は急いで返事をした。
「どうしたの?」
「私はもう大丈夫だから心配しないで。大丈夫だから。ケガも大丈夫だから」
――もう大丈夫って……無理しているんだろうな。
優衣香はいつも『大丈夫』だと言う。何が大丈夫なのかと聞けば、答えになっていない返答をする。
でも、本当は大丈夫じゃないってことが俺にはわかる。優衣香を笑顔にさせたいのに、それが出来ない自分が歯痒い。
「大丈夫だから心配しないでね」
「うん……」
「敬ちゃん、私のことは心配しないで、仕事を頑張ってね」
優衣香は俺の返事を待っているのか無言になった。電話口で物音もしない。
俺が朝行って夜帰って来る普通の人なら、優衣香は幸せだろう。優衣香だってそう思っているはずだ。だが組織から逃げられない。俺はどうすればいいんだ。
俺は何と優衣香に言えばいいのかわからずに無言のままだったが、優衣香の優しい声が耳に流れ込んだ。
「敬ちゃんラブー」
俺の頬は緩む。だが優衣香は俺を心配させまいとして無理をしている。さっきよりも明るい声を出そうとしているのが電話口からわかる。
「優衣ちゃん……俺は何も出来ないのに……大丈夫なんて、無理しなくていいよ」
俺の言葉を受けた優衣香は、何も言わない。
どうして、優衣香は俺の心配ばかりするのだろう。どうして何も出来ない俺を大事にしてくれるのかがわからない。
こんな俺じゃなくて……優衣香のことを大事にしてくれる、いつもそばにいてくれる他の男の方が優衣香は幸せになれる。
俺は優衣香に何でも出来るような気がするのに、実際は何も出来ない。情けない。
そんな自分への憤りをぶつけるように強く握ったスマートフォンからミシッと音が鳴った。
「優衣ちゃん、ごめん。もう戻る。おやすみなさい」
俺は優衣香の返事を聞かずに電話を切った。
――俺はもうダメだ。
目を閉じて唇を噛んだ。血の味が口の中に広がっていく。
俺は何をしているんだ。優衣香を悲しませることしか出来ない自分に腹が立った。いつもそうだ。上手くいかないことばかりで優衣香に何もしてやれない。何をすればいいのかわからない。こんな自分が嫌いになる。
手が震えていることに気づいた俺は、歯を食い縛りながらスマートフォンを助手席に叩きつけた。
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