第8章

第1話 羊羹とバナナ

 七月三日 午後二時五十九分


 太陽が照らしつけるアスファルトの道路は熱で歪んで見えた。


 セミの鳴き声が耳の奥まで響く。街路樹の隙間を通り抜ける風が時折その暑さを和らげてくれるが、立ち並ぶビルの隙間から見える空は白く濁って見えた。


 俺は事件が起きた六月二十五日からまともな睡眠が取れていない。ここ三日間はぶっ通しだ。疲れた――。


 寝不足と疲労でボーッとした頭を冷まそうと交差点の手前にある木陰で信号待ちをしているが、さっきから頭が上手く回らない。

 腕時計で時刻を確認すると、時刻は午後三時ちょうどだった。


 ――あと七分で帰れる。


 捜査員用のマンションに帰って、とりあえず寝たい。そしてまた明日も慌ただしいのだろう。もう疲れた。逃げ出したい。

 でも逃げ出せるなら、もうとっくに逃げている。

 優衣香はこんな俺でも本当にいいのかな。事件の翌朝、見送りどころか電話すらして来なかった俺でも。

 あの日以来、優衣香から届くメッセージを見ても、スタンプすら返せない俺でもいいのかな。

 睡眠不足と疲労と、優衣香のそばにいてやれない不甲斐なさに心が折れそうだ。


 ――なんで俺、警察官になっちゃったんだろうな。



 ◇



 午後三時八分


 捜査員用のマンションのリビングにいたのは玲緒奈さんだった。

 帰って来た俺の顔を見て眉根を寄せた玲緒奈さんは、俺の耳の穴に小指を突っ込んだ。


 ――なにやってんだ、この人は。


「……なんで、です?」

「体温高いと耳の穴が熱いんだって」

「そうなんですか……」

「あんまり、よくわかんないんだけどね」


 ――だったらやるなよ。


 思わず吹き出してしまった。

 玲緒奈さんも釣られて笑うが、玲緒奈さんの顔には疲れが出ている。家に帰れない日が続いているのは玲緒奈さんも同じだ。子供が気がかりだろう。そして加藤の件もある。


 玲緒奈さんは俺を見上げて笑顔を消した。どうしたのか。そう思っていると玲緒奈さんは少し小さな声で言った。


「敬志、ごめん……」

「えっ……なんですか?」

「今日は帰らせてもらう」

「ああ、そうですか。良かったですね、帰れる目処が立って」

「うーん、本当にごめんね」


 加藤が不在の今、山野花緒里の件も重なり捜査員全員がギリギリの状態になっている。そもそも玲緒奈さんは本業をしなくてはならないのに、ピーポくんやこっち・・・の仕事までやっている。

 いくら体力のある女性とはいえ、今年四十二歳になる年齢を考えるとキツいと思う。それでもきっちり仕事をこなす玲緒奈さんには頭が上がらない。


「玲緒奈さん、兄ちゃんも今日はいるんですか?」

「ああ、うん、そうみたい」

「じゃ、久しぶりにたくさん甘えたらいかがですか?」

「……ふふっ、そうだね」


 ――ヤベえよ。グーパンされると思ったのに照れてる。


 だが玲緒奈さんも限界なのだろう。正常な判断がつかなくなっている。恥ずかしそうに俯く玲緒奈さんを見て、俺の眠気は吹っ飛んだ。



 ◇



 午後七時三十分


 目覚ましが鳴った。


 仮眠室で目覚めた俺は目覚ましを消して天井を見た。カーテンで締め切ってはいるが、街の灯りがカーテンから漏れている。


 三時間程は寝られたようだ。でもまだ寝ていたい。

 そう思いながらスマートフォンを見るとメッセージの通知があった。優衣香だろうか。優衣香なら嬉しいなとメッセージアプリをタップすると、母からのメッセージだった。

 それは二通のメッセージだったが、トーク画面を見た俺は飛び起きた。


『優衣香ちゃんに連絡してるの?』

『連絡しなさいよ』


 ――優衣香に何があったんだ。


 優衣香は毎日メッセージをくれる。事件前と変わらないペースだ。朝起きる時間も寝る時間も。日中のメッセージの時間はまちまちだが、回数は同じペースだ。


 俺は母に電話をした。

 心臓の鼓動が早まる。

 俺はまた優衣香の変化に気づかなかったのか。

 また俺は人から優衣香の変化を聞いている。俺は何をやっているんだ。


 呼出音は二回鳴って、母は応答した。


「もしもし! お母さん!」

「はいはい、なによ、そんなに焦って」

「優衣ちゃんの件!」

「あー、うん、そうね」


 母は今日の昼過ぎに優衣香のマンションへ行ったという。事件後は在宅ワークに切り替えて仕事をしているが、優衣香は眠りの浅い日々が続いていると。


「優衣香ちゃんね、加藤さんが警察官だと知ってね、刃物を振り回す人に丸腰で立ち向かって行った姿に、敬志が重なって怖くなったんだって」


 加藤は逃げれば良かったんだ。

 今の仕事・・・・は警察手帳を持たずに偽名の身分証で活動しているのだから、市民として逃げれば良かったのに。普段なら加藤はそうする。絶対にそうするはずなのに、しなかったのは背後に葉梨がいたからだろう。


「敬志、お母さんがこの前言ったこと覚えてる?」

「んっ?」

「優衣香ちゃんの夫は絶対に生きて帰って来るって言ったの」

「うん、覚えてる」


 母は言う。

 優衣香に恋人がいる期間の俺は自暴自棄になって仕事もプライベートも危険を顧みないところがあったと。だが優衣香に恋人がいない時と今は、そうではない、という。


「……そうなの?」

「ふふっ……そうなのよ、んふふ」


 母は優衣香に伝えたという。

 俺は必ず優衣香の元に帰って来るから、敬志を待っていて欲しいと。


「優衣ちゃんはなんて、言ってた?」

「笑顔で頷いてくれたわよ」

「そっか……ありがとう」


 優しい母の声に励まされて俺は感謝の気持ちでいっぱいになったが、甘かった。声音が変わって説教タイムになっている。いつも通りだ。だから母に電話したくないのだが、今日は仕方ない。


「加藤さんは大きい羊羹を食べたいって言ったんでしょ? なのにあんたは……もう!」


 ――なんで、知ってるの。


 加藤は病院食だけだと体重がどんどん減っていくから羊羹を買って来て欲しいとお願いされた。

 俺はコンビニにある小さい羊羹を箱買いして見舞いに持って行ったが、加藤曰く箱買いしても一日も持たないから大きい羊羹を買って来て欲しいと再度言われた。だが俺はどこに大きい羊羹が売っているのかわからなくて、コンビニにあった中くらいの羊羹を買って持って行った。


「なんで知ってるの?」

「玲緒奈ちゃんから聞いたの」


 ――狂犬の親玉め。余計なことを言いやがって。


「それなら玲緒奈さんが大きい羊羹を持って行けばいいのに」

「だって玲緒奈ちゃんはバナナ係よ?」

「バナナ」

「須藤くんにはバナナを頼めないじゃない」


 ――どういう意味でだ。


 もういい。別の話にしよう。話をそらさないと。


「あの、お母さん。優衣ちゃんがケガをしたのは、優衣ちゃんは気にしてないの?」

「ああ、それはね、気づいたら血が出てて、記憶に無いから気にしてないみたい」


 ――優衣ちゃんは本当に逞しいな。


「そっか」

「とにかくね、優衣香ちゃんに連絡しなさいよ、わかった?」

「はい」

「それとね、大きい羊羹は駅の地下街に売ってるから、探しなさい」

「はい、そうします」


 電話を切った俺は、ふて寝したかったがそうもいかず、立ち上がってシャワーを浴びに仮眠室を出た。



 ◇



 午後七時五十二分


 シャワーを浴びた俺は、体を拭きながら洗面台の鏡に映る自分を見ていた。

 少し痩せたようだ。鏡に映る顔は血色が悪く、目の下にはクマが出来ている。


 朝行って夜帰って来る普通の人なら、今は自宅の風呂上がりで、洗面所のドアを開けてリビングに行けば優衣香がいて、ビールを飲んで、夕飯を優衣香と一緒に食べるのだろう。


 ――なんで俺、警察官になっちゃったんだろうな。

 ――警察、辞めたいな。


 優衣香は目の前で起きた事件の口止めをされて、加害者は知らぬ間に消え・・、事件そのものが無かったことになった現実を受け止められるのだろうか。

 腕に負った傷はいつか治るが、優衣香の心は大丈夫なのだろうか。


 やりたくないなら警察辞めろ。でも組織はお前を生かしておかないけどね――。


 俺を組織に縛りつける言葉が頭に浮かぶ。俺に選択肢は無いなと心の中で呟いて、洗面所を出た。



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