第8話 不都合な目撃者

 午前零時六分


 救急車が臨場した。


 玲緒奈さんの横で、ストレッチャーに乗せられた加藤を優衣香は心配そうに見つめている。


「優衣ちゃん加藤を止血してくれてありがとう」


 優衣香は涙を目に浮かべている。

 怖かっただろう。目の前で加藤が刺されたんだ。そして自分も切っ先が掠めて怪我をした。こんな思いは、俺と関わっていなければ経験せずに済んだはずだ。


「優衣ちゃん、怖かったね」

「うん……でも、止血出来た。静脈だったから私たちでも出来た」

「何があったの?」


 優衣香は石川さんと望月のバーで食事をして帰る際、店外に見送りに出た望月と話していると、加藤が現れたという。

 そのまま四人で話していると、葉梨が大声で叫びながら走って来て、別の方向から来た女に石川さんが気づき、女の名を呼んだ。そして後を追うように玲緒奈さんと男二人が走って来た。

 加藤は優衣香を両手鍋で押しのけて刃物を持つ女に立ち向かって行ったという。


 ――両手鍋。


「両手鍋?」

「うん、両手鍋。アルミの。金色の」


 ――チキンスープ、また作ってもらったのかな。


 加藤は優衣香と石川さんに逃げろと言いながら両手鍋で応戦していると、玲緒奈さんと男三人が女を捕まえたが、その際に加藤は前太ももを切りつけられていたという。


 優衣香の着衣は加藤の止血の際に付着した血液が付いていたが、今は玲緒奈さんのジャージの上衣を着ている。


 優衣香は上級救命技能認定証を持っている。石川さんももちろん持っているだろう。優衣香は退職しても上級救命の再講習は受けていて、常にビニール手袋などの応急キットを持ち歩いている。


「優衣ちゃん。加藤を助けてくれてありがとう」

「加藤さんは敬ちゃんの後輩なんだってね」

「うん。黙っててごめん」


 優衣香は少しだけ、笑った。

 隣にいる玲緒奈さんは、優衣香に話をしてある。


 『笹倉優衣香は足から血を流す女性を見つけ、石川奈緒美とともに応急処置と消防に通報するよう望月に依頼した人』だと。救急隊員にそう申告しろと言ってある。

 加藤は搬送先の病院で刺されたと言い、病院から警察へ通報が行く。そして捜査が始まるが、は話をつけるだろう。

 目の前で事件が起きたのに、優衣香と石川さんは『なにも見ていない』事になる。


 気丈に振る舞っているが、優衣香は今にも泣きそうな顔をして俺を見上げた。


 ――優衣ちゃん……。


「優衣ちゃん、怖い思いをさせてごめんね」

「……どうして? 敬ちゃんのせいなの?」

「それは、否定も肯定もしない」


 目を見開いた優衣香は、口を開くが何も言えないようだ。玲緒奈さんは俺を見ている。視線を感じるが、すぐに優衣香を見た。


 ――俺は、優衣香を幸せに出来ない。


 玲緒奈さんに視線を向けた優衣香は俯いてしまった。そんな優衣香に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。だが、優衣香は何かに気づき腕時計を見た。そして――。


「敬ちゃん、ちょっと行って来る」

「えっ、どこに?」

「信号サイクル。玲緒奈さん、すみません」


 優衣香は涙目で俺を見ていたのに、「奈緒美ちゃん、ちょっと行って来るね! 待ってて!」と言い残して走り出した。


 目の前で傷害事件が起きて自分もケガをしているのに、仕事を忘れない優衣ちゃんは逞しいなと、走り去る優衣香の後ろ姿を俺は呆然と眺めていた。

 玲緒奈さんは、優衣香の後ろ姿を見ながらクスクスと笑い出した。


「あのさ、私はあんたより優衣香ちゃんに会ってるから、あんたの知らない優衣香ちゃんを知ってるって、言ったよね? 覚えてる?」

「はい、もちろん、覚えています」

「優衣香ちゃんって、ああいう子なのよ。ふふっ」


 俺の肩を叩き、優しく微笑む玲緒奈さんに、俺は何も言えなかった。



 ◇



 午前零時二十二分


 加藤は約二キロ先の大学病院へ搬送された。付き添いは葉梨に任せ、須藤さんと俺は救急車の見送りを済ませた。


 隣で須藤さんは電話をしていたが、電話を終えてから俺の肩を叩き、ゆっくりと話し出した。


「山野は加藤が目的だったって」

「……そうですか」


 山野花緒里は吉崎さんの会社所有のマンションに住んでいるが、吉崎さんは監視をつけていた。山野はその監視の男を刺し、男の所持品のスマートフォンから葉梨へ電話したという。

 葉梨は玲緒奈さんに連絡して電話番号も伝え、玲緒奈さんは吉崎さんにその電話番号を伝えると、山野を監視させている駒の電話番号だと気づいてマンションへ行き、刺されていた男を現認。

 すぐに吉崎さんは須藤さんに連絡したが、既に横浜にいた山野は加藤を見つけて、後を追ったようだ。そして加藤に背後から近づいた。


「敬志、俺はどうしたらいい? 元警察官の風俗嬢が現職を刺したんだよ。理由は痴情のもつれ。会社・・は依願退職だけど、ホス狂でデリヘルやってたことも会社のカネ・・・・・に手を付けたのも、いずれ掘り返される」


 須藤さんは大きな溜め息を吐いている。

 だが、加藤の一件は事件化しなければ良いだけだ。須藤さんの懸念はなんだろうか。


「そうですけど、消しますよね?」

はやるけどさ……」

「……なんですか?」

「あのさ、人命救助した通行人・・・のうち一人は、山野の従姉妹だよ」

「あっ……」


 そうだ。石川さんの従姉妹は山野花緒里だった。


「敬志、優衣香ちゃんは大丈夫だけど、石川さんは、ちょっと……どうかな」

「……そうですか」

「山野が警察辞めたことを、石川さんは知らないんだよ」


 俺の目を見る須藤さんは、少し唇を噛んでいる。須藤さんの視線の先には、玲緒奈さんと話している石川さんがいた。



 ◇



 午前零時二十六分


 石川さんは須藤さんと話している。

 俺は玲緒奈さんと岡島と飯倉がいる交差点に行き、四人で話していると優衣香が戻って来た。


 優衣香は俺に近寄っていいのか考えているようで、交差点の角でこちらを見ていた。だが飯倉を見た優衣香は明らかに動揺している。


「ヤバい、バレた。飯倉、バレたよ」

「……完全に、バレちゃいましたね」

「あー、飯倉は優衣香ちゃんに身バレしちゃダメなんだったもんねー」


 岡島は飯倉を隠そうとしているが、飯倉の方が背が高いから隠せていないし、今さらやっても遅い。


「敬志、優衣香ちゃんのとこに行きな」

「はい」


 俺は優衣香の元へと行ったが、俺を見上げる優衣香はなにも言わない。無理もないだろう。


「優衣ちゃん。えっと、あの男は……」

「……うん」

「あの男も、見なかったことに、してくれないかな」


 目を見開いて俺を見た優衣香は顔に手をやって笑い始めた。



 ◇



 午前零時三十分


 石川さんと話し終えた須藤さんは、石川さんを伴い俺と優衣香の元へと来た。


「笹倉さん、近隣のビジネスホテルにお二人で泊まっていただきたいのですが……」


 須藤の横にいる石川さんは涙を流した後の目をしている。一人にさせない方が良いのだろう。須藤さんは俺の目を見ている。


「優衣ちゃん、泊まってくれないかな。今日は、車の運転は控えた方がいいと思う」

「えっ……」

「笹倉さん、お願い出来ませんか?」


 優衣香は俺と須藤さん、そして石川さんを見て、頷いた。須藤さんは後ろを振り向き、岡島と飯倉にサインを送っている。近隣のビジネスホテルを手配させるのだろう。


「笹倉さんも石川さんも、今日はゆっくりと休んで下さい。ご迷惑をおかけしました」


 そう言った須藤さんは石川さんの肘にそっと触れ、玲緒奈さんがいる方向へと石川さんをいざなう。俺も優衣香も、二人の後ろをついて行った。




 ―― 第7章・了 ――


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