第7話 目撃者のいない事件

 午前零時一分


 歩行者用の信号を渡り切り、高架を越えて、また大通りの信号を渡った。


 その時、俺のプライベート用のスマートフォンが鳴った。電話だ。画面を見たが、嫌な予感がした。メッセージしか送って来ないはずの男からの着信――。

 須藤さんは俺の挙動に気づいた。


「誰だ?」

「望月です」


 そう言った俺はすぐに電話に出た。

 電話の向こうの望月は焦っている。なにを言っているのか要領を得ない。


「おい、どうした。なんだよ、落ち着け」


 須藤さんと藤川さんも俺を見ている。だが、電話の向こうの望月は息を切らせ、なにかを言っている。途切れ途切れに聞こえる望月の言葉を聞きながら、須藤さんを見た。


 ――石川さん……?


 状況がなにもわからない状況に陥っている俺の心に一気に怒りが込み上げる。


「加藤と優衣香と石川さん! 誰か刺されたみたいです」

「石川さん!?」

「葉梨は現着してます!」


 その時、須藤さんのスマートフォンが鳴った。「葉梨だ」と言って応答した須藤さんの目は動く。

 やがて須藤さんは電話を切り、俺に視線を向けた。


「加藤が刺された」


 俺のスマートフォンも鳴った。

 スマートフォンの画面を見た俺は目を見開いた。だがすぐに応答した。玲緒奈さんだった。


「優衣香ちゃんもケガしてる! 近くにいるんでしょ!? 早く来て!」


 要件だけ言って、玲緒奈さんは電話を切った。


「優衣香もケガしてるそうです」


 信号が青信号へ変わり、俺たちは走り出した。



 ◇



 午前零時二分


 あと九十メートル。


 ――どうしてこんなことになったんだ。


 俺は優衣香が傷ついている姿が頭に浮かぶ。

 目尻に涙が伝ってこめかみを濡らす。

 俺のせいで優衣香が傷ついた。

 俺がいるから優衣香が傷ついた。

 俺は優衣香を幸せに出来ない。


 ――また俺は、優衣香を守ることが出来なかった。


 あと六十メートル。

 あの角を曲がればバーまですぐだ。


 走りながら胸ポケットからスマートフォンを取り出した。岡島と飯倉は望月のバーにいるはずだ。二人はなにをしているのか。なぜ二人から連絡が来ないのか。飯倉は優衣香を知っているのに。俺は岡島に電話をかけた。


 あと三十メートル――。


 ――優衣ちゃん、優衣ちゃん……。


 あと十メートル――。


 岡島が応答した。


「もしも――」

「お前どこにいる!?」

「現場です!」


 望月のバーに行く道に曲がると、望月のバーの手前に女が倒れていた。女が応急処置をしているのか、女の大腿を押さえている。


 ――加藤、だ。加藤が刺されてる……。


 ビニール手袋をした救護人の女が止血しているのだろう。ビニール手袋が赤く染まっている。手に持ったスマートフォンは切れていた。


 加藤の左側には小柄な女がいる。加藤の鼠径部を両手で押さえていたが離れた。

 女の顔は見えたが、優衣香ではなかった。ならば石川さんか。止血しているのが優衣香か。だが優衣香もケガをしていると玲緒奈さんは言っていた。


 ――優衣香は、優衣香はどこだ。

 ――葉梨は、玲緒奈さんはどこだ。


 俺は加藤の元へ走った。

 加藤の右下腿を止血していたのは優衣香だった。だが優衣香が着るカーディガンは切れ、右腕の肘の上から血が滲み出ている。


「優衣ちゃん! 優衣ちゃんも止血しなきゃ!」

「私は大丈夫だから! 加藤さんに声をかけて!」


 加藤の傷口は直接圧迫で止血されているが、苦痛に顔を歪めている。どうしてこんな目に遭うんだ。俺のせいだ。全て俺のせいだ。


「加藤! しっかりしろ!」



 ◇◇◇



 午前零時三分


 松永敬志に続いて大通りから角を曲がった須藤諒輔と藤川充は、周囲を見回している。


「二分以内にウチ・・は到着する」

「了解」


 須藤諒輔の視線の先には、路上に横たわる加藤奈緒と傍らにいる石川奈緒美、加藤の右下腿を止血する笹倉優衣香の姿、そして加藤奈緒の顔を覗き込む松永敬志の姿があった。


「山野はどこだ」

「あー、飯倉が……」


 望月奏人のバー手前にある交差点の左方に飯倉和亮がいた。飯倉和亮はハンドサインを須藤諒輔に送っている。

 藤川充は速度を緩め、交差点右方を見た。


 須藤諒輔が飯倉和亮の元に行くと、右方に目配せした。


「山野、牛刀を右手にガムテでグルグル巻きにしてましたよ」


 須藤諒輔の視線の先には松永玲緒奈と岡島直矢、奥に葉梨将由がいるが、山野花緒里の姿が無い。


「葉梨、お前は加藤のとこに行け」

「はい!」


 走り去る葉梨将由を横目で見ていた須藤諒輔は、松永玲緒奈に視線を合わせると口を開いた。


「どこです? そろそろ迎え・・が来ますけど」


 松永玲緒奈は顎を須藤諒輔の後ろに動かした。

 山野花緒里はビルの隙間に放り込まれていて、口を塞がれ苦悶の表情を浮かべている。


「望月は救急車呼んだだけ。通報はしてない」

「目撃者は?」

「いないみたい。もう四分経ってるけど臨場しない」


 そこに藤川充が現れ、ビルの隙間を覗き込んだ。


「えっと、これが山野?」

「そう」

「お疲れさまです。左肩を外してあります」

「牛刀は俺が持ってます」


 藤川充の背後に黒いワンボックスカーが路側帯に寄っている。車の運転手が後ろを振り向くと、運転席の後ろのスライドドアが開いた。

 二人の体格の良い男が出て来て、山野花緒里を抱えて車に乗り込んだ。


「とりあえず、持って行く。連絡して」

「了解」


 藤川充は運転席の後ろに乗り込んで、車は去って行った。



 ◇



 午前零時五分


 岡島直矢と飯倉和亮は路上とビルの隙間をくまなく確認している。そこから三メートル離れた場所で須藤諒輔と松永玲緒奈は話をしていた。


「優衣香ちゃんと石川さん……どうする?」

「……とりあえず、事件の目撃者はいなかった、ということで」


 二人は顔を見合わせて、そして目を伏せた。


「了解」

「はい」


 須藤諒輔は岡島直矢と飯倉和亮に声をかけて、松永玲緒奈と二人で加藤奈緒の元へと行った。


 

 ◇



 加藤奈緒の止血は笹倉優衣香から葉梨将由に変わっていた。松永敬志は加藤に声をかけ続けている。

 石川奈緒美は笹倉優衣香の応急処置をしていて、傍らには望月奏人がいた。


「こんばんは」


 須藤諒輔は二人に声をかけ、松永玲緒奈は望月奏人の腕を引っ張り、なにか小声で話をしていて、話し終えた望月奏人は店内に戻った。

 松永玲緒奈は応急処置を終えた笹倉優衣香に近寄り、須藤諒輔と目を合わせた。


「石川さんには、私からお話がありますので、こちらに」


 そう言った須藤諒輔は石川奈緒美の手を取った。



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