第2話 それぞれの問題

 午後七時五十四分


 洗面所を出てリビングのドアを開けると、須藤さんが俺の顔を見て、視線を下に向けてから、もう一度顔を見て眉根を寄せた。


 ――これは算数の問題だな。


『たかし君の七メートル先にりょうすけ君がいました。全裸禁止の捜査員用のマンションでパンツを履いていないたかし君は、りょうすけ君から右フックとアッパーを食らってしまいます。りょうすけ君が秒速四メートルで走る時、たかし君は何秒後に右フックとアッパーを食らいますか』


 ――秒速五メートルで逃げればセーフ。


「お前さ、全裸はやめろって言ったよな?」

「加藤がいないならいいじゃないですか」

「そういう問題じゃないと思うよ?」


 須藤さんから右フックもアッパーも食らわずに済んだが、そろそろ三十八歳になる全裸のたかし君は四十一歳のりょうすけ君から説教を食らっている。


 ――三十過ぎたらオッサンだって言った奴、出て来い。中身は小学生のままだぞ。


「とりあえず、パンツ履いてきますね」

「うん、そうして」


 全裸のぼくはりょうすけ君の溜め息を聞きながら、リビングのドアを閉めて仮眠室へ向かった。



 ◇



 パンツを履いてリビングのドアを開けると、ダイニングの座卓コーナーに座っていた須藤さんはカウンターの陰から顔だけ出した。

 須藤さんは俺の顔を見て、視線を下に向け、もう一度顔を見て、また眉根を寄せた。


 ――今度は国語の問題だな。


『パンツを履いてリビングに戻って来た松永敬志が派手な蛍光ピンクのブリーフ一丁だった時の須藤諒輔の気持ちを述べよ』


 ――パンツはパンツだから問題ないはずだ。


「よりによって、それ?」

「定期的に履かないといつまでも残っちゃうんで」


 中山と飲みに行く時に使う魑魅魍魎ゲイバー親玉ママからプレゼントされる派手なパンツを俺は気に入っているが、ブリーフだけは苦手だ。かといって捨てられないし、ならば履き潰せばいいと考えてかなりハイペースで履いてはいるが、すごく質が良くて全くくたびれない。魑魅魍魎の親玉め。


「AV男優みたいだよね」

「前にも言ってましたね」


 昨年五月末、特別任務前に加藤が体重を測っていた時、俺と中山はお揃いの蛍光ピンクのブリーフ一丁だった。

 俺が加藤に「どんなパンツ履いてるの?」と言った時、知らぬ間に背後にいた須藤さんに聞かれてしまい、説教を食らった上に俺は須藤さんからリバーブローをお見舞いされた。


「お前が熱中症で入院した時、加藤が『松永さんの最後の記憶が派手なパンツを履いたAV男優の姿になるところでした』って言ってたよ」

「最悪ですね」

「お前がな」


 ――だいたい須藤さんも加藤も普段どんなAVを見てるんだよ。蛍光ピンクのブリーフ履いてたらAV男優って俺にその発想は無いぞ。


 俺はキッチンに入り、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出そうとしていると、須藤さんから声がかかった。


「敬志、優衣香ちゃんに連絡してるのか?」


 キッチンを出て、カウンターにもたれかかってミネラルウォーターを開けながら答えた。


「連絡は出来てません」

「……そっか。ごめんな」


 俺を見上げた須藤さんは視線を戻して溜め息を吐いた。

 加藤が欠けた穴埋めのために、捜査員全員が睡眠時間をどうにか取るだけの状態が続いている。細切れの睡眠では疲れは取れない。その上、まだ梅雨時なのに雨も降らず盛夏のような蒸し暑い日が続いていて、体に堪える。


「須藤さんは? 石川さんに連絡してます?」

「いや、あれから一度もしてない」

「えっ……」

「そんな時間、俺には無えよ」


 須藤さんは刑事課の課長だ。表向き・・・は。その表の仕事もしなくてはならない。署と横浜の事務所の行き来をしなければならず、少しでも睡眠を取れるよう飯倉和亮に運転をさせているが、須藤さんは起きているという。


「石川さんからの連絡は?」

「……無い」


 ――マジかよ。


「石川さんがどんな様子か優衣香に聞きましょうか?」

「……いや、いい。なにもしないで」


 俺に目を合わせるわけでもなく、正面を向いたままの須藤さんはやつれていた。


 須藤さんは恋人が出来たばかりの岡島のことも気遣っている。それに今日は家庭のある玲緒奈さんを帰らせるために、須藤さんは玲緒奈さんに頭を下げたそうだ。玲緒奈さんは須藤さんを石川さんの元へ行かせたかったようだが、須藤さんに頭を下げられた玲緒奈さんは帰らざるを得なくなった。


 ――そうやって自分を後回しにしていたら、石川さんはいなくなっちゃうよ。


 そんなことを心の中で呟いたが、俺だってそうだ。優衣香がいつまでも待っていてくれる保証なんて無い。だが、仕事はしなければならない。仕事が辛いのは俺だけじゃない。


『お前さ、仕事と女、どっち選ぶ? 警察辞める?』

『お前が優衣香ちゃんを選んでも、俺は賛成するよ』


 俺が優衣香を選んだら、きっと須藤さんは俺を守る盾になる。


 敬志、お前は幸せになれ。お前は、幸せになって欲しいんだよ――。

 やりたくないなら警察辞めろ。でも組織はお前を生かしておかないけどね――。


 相反する二つの言葉を須藤さんは言う。警察を辞めずに優衣香と幸せになれということか。だがどうすればいいのか、俺にはわからない。



 ◇



 午後八時七分


 俺は今、須藤さんから説教を食らっている。


 隣にはグレーのTシャツにネイビーのデニムを履いた中山がいて、仁王立ちする須藤さんを俺たちは正座しながら見上げている。

 真ん中に加藤がいれば昨年の説教と同じシチュエーションだ。


「お前らさ、パンツ見せ合うの、いつまでやるの?」


 見た目は大人、頭脳は子供の警察官二人は刑事課の課長から至極真っ当な説教を食らっている。


 コトの発端は、捜査員用のマンションに戻って来た中山陸がリビングに入って来たことから始まる。

 蛍光ピンクのブリーフ一丁でカウンターにもたれかかっている俺の姿を見た中山は、「あっ! たっくん、俺も今日ね、ピンクのブリーフ履いてるよ!」と楽しげに言い、振り向いた俺が見たものは、ベルトを外してデニムを脱ぎ、Tシャツをたくし上げて蛍光ピンクのブリーフを見せつける中山の姿だった。

 俺は、中山を止められなかった。


 中山は俺が一人でリビングにいると思ったのだろう。須藤さんが俺の足元から顔を出した瞬間、膝までデニムを脱いで蛍光ピンクのブリーフを見せつける中山の顔から血の気が引いていった。


「だって親玉ママから俺ら同じパンツもらうんですもん、いいじゃないですか」

「なにがいいんだよ?」

「パンツ見せ合ってるだけですよ? 同じパンツ履いてたら嬉しいじゃないですか。それにパンツ脱ぐわけじゃないし」


 ――あ、クソデカ溜め息を吐かれた。 

 ――本当に、三十過ぎたらオッサンだって言った奴、出て来いよ。中身が小学生のままで自分でも驚いてるぞ。


「もういい。シャワー浴びて、寝る」

「その方がいいですよっ!」

「敬志さ、お前ってヤツは本当に……」


 これ以上、頭脳が子供の後輩の相手をしているより寝た方がいいだろうと良かれと思って言ってみたが、須藤さんはちょっとキレている。


「陸、先にシャワー浴びるね、ごめんね」


 そう言ってまた溜め息を吐いて、須藤さんはリビングを出て行った。


 俺たちはリビングのドアが閉じられたことを確認し、小声で話し始めた。


「もー、りっくんが脱ぐから怒られたじゃん」

「だって須藤さんがいると思わなかったんだよ? しょうがないよ」

「だよねー」


 中山は立ち上がり、デニムを履き直した。


「加藤は俺らのこと、AV男優みたいだと思ってたんだって」

「んっふ……俺の彼女も言ってる」


 ――りっくんの彼女まで。どいつもこいつも。


 今日、中山は加藤の見舞いに行っていた。加藤は近日中に退院するが、仕事への復帰はまだ先になる。

 優衣香に会うどころか連絡すら出来ない日々が続くのか。だが加藤がケガを負ったのは俺の責任だ。仕方ない。


 キッチンに行き、冷えたお茶を持って戻って来た中山はドアをちらりと見て、俺のそばに座った中山はまた小声で話し始めた。


「石川さんね、あれからずっと毎晩プールバーに行ってる」

「えっ……土曜日だけだったよね?」

「うん。須藤さんにも報告が上がってるはず」


 石川さんの中では警察に対する不信感しかないだろう。従姉妹の山野花緒里が警察を辞めたことを知らない石川さんにとっては、警察官同士の傷害事件の揉み消しが目の前で行われたのだ。無理もない。だがこの先、山野が警察を辞めた理由やその後のことを知ったらどうなるか。


 須藤さんは山野の問題が出た時点で身を引けばよかったんだ。だが須藤さんは石川さんに本気で惚れている。


 ――哀しいな。みんなが幸せになる方法ってないのかな。


 須藤さんを慕い、須藤さんを想う中山は肩を落としている。リビングでは掛時計の秒針の音だけがしていた。



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