第4章

第1話 手紙(前編)

 六月十二日 午前十一時五十八分


 どんよりとした空模様の今にも降りだしそうな空の下、中山陸は住宅街を歩いていた。

 黒い半袖Tシャツにベージュのストレートパンツを履き、黒いキャップを被った彼は空を見上げた。


 彼の腕にぽつんと小さな雫が落ちたかと思うと、あっという間に雨脚が強くなった。

 突然降り出した大雨に傘を差さずに彼は走り出し、マンションのエントランス前に駆け込んだ。

 彼の服はずぶ濡れになってしまっている。


 リュックからタオルを取り出し、顔と腕を拭いた彼は、オートロックで部屋番号を入力し、家人の応答を待った。


 ドアが開き、エントランスを進みエレベーターへ乗り込むと、三階のボタンを押した。

 扉が閉まり、動き出すと同時に彼は小さく息を吐くと、スマートフォンを取り出した。

 誰かにメッセージを送っている。



 ◇◇◇



 玄関扉を開けた笹倉さんは、ずぶ濡れの俺に驚いていた。


 水色のボウタイブラウスに黒いストレートパンツを履いた笹倉さんは髪の毛を後ろで束ねている。

 あまり寝ていないのだろう。化粧はしているが、疲れた表情で俺を見た。


「こんにちは」

「こん……え、雨ですか?」

「ええ、けっこう降ってます」

「まあ、本当に申し訳ありません。ご足労頂いて申し訳ありません」

「いいんですよ、お話をお聞かせ下さい」


 笹倉さんから届いた真夜中のショートメッセージには、『ご相談があります。須藤さんにはお話出来ない事です。ご連絡をお待ちしております』と書かれていた。


 メッセージは望月のバーで敬志が会計をしている間に届き、マンションまでの帰り道に敬志と別れて電話をしたが、真夜中の折返しに迷惑そうな雰囲気もなく、焦った様子だった。


『石川さんに手紙が届いたんです』


 手紙の内容は須藤さんの女性関係だと笹倉さんは言い、どうすれば良いのか、石川さんに何と言えば良いのかと指示を求めた。


 リビングに通された俺は、笹倉さんがお茶の準備をしている間に部屋を見回した。

 隣の加藤の部屋とは間取りが違う。

 加藤の部屋は横長のリビングダイニングだが、笹倉さんの部屋は十畳のリビングダイニングだ。引き戸の向こうは和室で、反対側にも部屋がある。

 リビングダイニングには四人掛けのダイニングテーブルとテレビだけだ。片付いた部屋で二脚の丸椅子に観葉植物が三つ置いてある。


 俺の手元には石川さんから預かった封筒があるが、開封したくない。見たくない。

 須藤さんは石川さんと出会って、すごく幸せそうにしているのに……終わっちゃうのかと思うと気が重い。

 こちらをちらりと見る笹倉さんに気取られぬよう息を吐いてから、封筒から手紙を取り出して、読んだ。


 ――あーあ……これを二人は見ちゃったんだ。


 お茶をテーブルに置いた笹倉さんは正面に座り、俺は氷を入れたグラスに注がれた緑茶を頂いた。


 笹倉さんは経緯いきさつを話し始めた。


 昨夜十時頃、石川さんが帰宅して手紙に気づき、内容を見て笹倉さんに連絡をしたという。笹倉さんはすぐに車で石川さんのマンションへ行き、手紙を預かった。


 石川さんもさっさと須藤さんに連絡すれば良いのにとは思うが、内容が内容だから言えなかったのだろう。だって須藤さんの過去の女関係を暴露してあるレポートだから。


 須藤さんが二十代半ばから後半の頃に手を付けた複数の女に対しての詳細なレポートは、書かれた文字を目で追うだけでも女性には辛かったと思う。

 仕事上必要だったとはいえ、理解は得られないだろう。


「笹倉さん。これを見た石川さんは、何と言ってましたか?」


 目を彷徨わせている笹倉さんは、秘密を守ろうとしている。この状況でも話さないつもりかな。でも今は話してもらわないと困る。

 笹倉さんは握り締めた手に手のひらを被せ、親指に触れた。


「質問を変えます。須藤さんと石川さんの関係って、笹倉さんは石川さんから聞いていますか? 例えばデートしたとか、どこに行ったとかです」

「ああ、えっと……そう言った話はしちゃダメだと、私は石川さんに伝えてありますから、言わないし、私も聞かないです」

「そうですか」


 敬志の母親からの忠告を笹倉さんは石川さんにも伝えているのか。

 余計な話はするな、人を信用してはいけない、交友関係は適宜見直せ――。

 笹倉さんは、本当にそんな人生で良いのかな。


「笹倉さんは、須藤さんと石川さんのお付き合いが続いている事を、なぜ知っているんですか?」

「ああ、あの、町内会の防犯講話で須藤さんが会社にいらして、その記事がある社内報を、私は毎回見せてもらいます」

「それで?」

「その時に……少し、須藤さんの事を聞きます」

「そうですか。では、笹倉さんの主観で結構です。昨夜の石川さんは、須藤さんを嫌いになったような素振りはありましたか?」

「えっ……」


 俺は笑顔で笹倉さんに問いかけているが、笹倉さんは俺の目を探っている。


「……嫌いにはなっていないと思います」

「理由は?」

「書かれている内容は嘘だと、須藤さんはこんな人じゃないと、言っていました」


 ――事実なんだけどな。


「笹倉さん、この件については、俺は玲緒奈さんに話を通してあります。須藤さんと敬志には、現時点では言いません。玲緒奈さんが判断します。それだけ了承して下さい」

「はい。わかりました」

「石川さんにも、同じように伝えて下さい」


 笹倉さんはしっかりと頷きながら返事をした。

 手紙の件はこれで終わりだ。


 ――敬志はどう出るかな。


 俺が笹倉さんの部屋で二人きりだったと知ったら、敬志は絶対にキレる。

 笹倉さんは俺が警察官だから、面識があるから俺を信用している。でも敬志の母親は言ったはずだ。警察官だからって無条件に信用しちゃいけない、と。


 ――どうしようかな。


 俺に話した事で安心したのか、いくらか表情も和らいだ笹倉さんは冷茶を手に取った。

 俺も同じように冷茶を手にして、頂いた。




 後編へ続く

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