第2話 手紙(後編)
笹倉さんは冷茶を飲み、コースターに置くと俺をちらりと見て微笑んだ。
笹倉さんは敬志が所属を明らかに出来ない警察官だと理解していて、仕事内容については何も聞かない、探らないを徹底していると聞いている。なら……。
「笹倉さん。もしこの手紙が敬志の事で事実だとしたら、笹倉さんは敬志と別れますか?」
「えっ……」
無理かな。でも敬志も似たようなことを過去にやっていた。真実を知ったら耐えられないだろう。
俺の問いに目を伏せた笹倉さんだったが、俺の目を見て口を開いた笹倉さんの答えに驚いた。
「公務員には職務命令服従義務がありますから、上司の命令なら、職務遂行は当然だと思います」
――仕事だとひと言も言ってないけど。
「……プライベートなら?」
「松永さんはここまでの事は出来ない人だと思っています」
目は彷徨うが、本当に信じているのだろう。確かに敬志はプライベートではやらない。これもお互いに幼い時から知ってるから成せる事なのか。
「ふふふっ、笹倉さんに信用されている事、敬志は喜ぶと思うんで、敬志に伝えても良いですか?」
「あの、中山さん。いつ、どういう状況で私から聞いたのか、中山さんは松永さんに
――秒でその切り返しかよ。強え女だな。
「さすがですね、笹倉さん。心に留めておきます」
俺の目を見て笑う笹倉さんを頼もしいなと思うが、実際に自分の身に起きたらどうなるだろうか。
「ああ、あとですね……」
――何と言えば良いのかな。
俺に連絡を寄越した件は内容が内容だから須藤さんに相談出来ないのは理解出来るが、それではダメだと、俺ではダメだと理解してもらわないとならない。
「あの、笹倉さん。俺の個人的な話なんですが、聞いてもらえませんか?」
「え……はい、伺います」
「恋人の話です」
「えっ、ああっ……はい」
思ってもいなかった話題の変更に驚いた笹倉さんだったが、緊張も緩んで口元に笑みを浮かべた。
笹倉さんは賢い女性だから話せばわかってくれるはずだ。
「出会ったのは十五年前で、合コンでした」
「十五年も? 長いですね」
「ふふっ、笹倉さんは敬志と出会ったのは何年前ですか?」
「ああっ……そうですね、ふふっ」
優しく微笑む笹倉さんに話を続けた。
「付き合い始めて、当時は機動隊にいて休みもあったからデートは出来ましたけど、半年ほど経ってから転属して、休みが無くて会えなくなったんです。連絡もあまり出来ませんでした」
俺の目を見ていた笹倉さんは目を伏せた。
機動隊の頃は月に二、三回は会って、飲みに行って、ホテルに行くか彼女の部屋に泊まるかの二択だった。デートで遠出は出来ない、旅行に行けないのは警察官だから仕方ない。
でも、仕事が忙しくなって休日出勤も増えて、会いたくても会えないから、俺は彼女に会いたいと言えなかった。
そんな俺に対して彼女は不満を言わなかった。会いたいとも、寂しいとも言わなかった。
いつも明るくて、たまに電話して声を聞いているだけで元気をもらえた。警察官の仕事に理解のある彼女だと思っていた。その日までは。
「仕事に余裕が出来て、毎週会えるようになった時に、彼女が『他の女はどうしたの? 相手してくれないの?』って言ったんです」
「えっ……」
「彼女は俺の事を恋人ではなくて、あの……体の関係の相手だと思っていたんですよ、最初から」
呆然とした表情で俺を見る笹倉さんに思わず笑ってしまった。つられて笹倉さんも笑う。
「俺も驚きましたけど、彼女も驚いていました」
思い返せば、最初に付き合おうとすら俺は言っていなかった。次にいつ会えるか、それしか聞いていなかった。
それに俺は会いたいと言わないし、彼女も言わなかった。寂しいとか、浮気を疑うとか、恋人同士ならよくある事をお互いにしなかった。
俺は彼女が好きだから、改めて告白をした。好きだから一緒にいて欲しい。恋人になって欲しいと。
彼女は承諾してくれたが、彼女の態度は何も変わらなかった。俺が彼女に会えるか聞いて、都合が合えば会う。俺だけが会いたいと、会えなくて寂しいと漏らす関係になっただけだった。
「俺は毎日彼女に『大好き』ってメッセージを送っているんですよ」
「えっ……んふふっ……そうなんですか」
「彼女からは、おはようからおやすみまでの間、何かしらメッセージが届きます」
彼女からのメッセージは傍から見ればどうでもいい内容だけど、俺にとっては嬉しい。だって、メッセージを入力している間は、俺と向き合ってくれているから。俺の為に、彼女は時間を割いてくれているから。
「敬志から、お願いされましたよね?」
「えっ、ああ、はい……あれは中山さんからの……という事だったんですか?」
「ええ、そうです。何でも良いんです。敬志に送ってあげて下さい」
「はい」
「会えないから不安なんです。彼女の心が今でも自分のものなのか、いつも不安なんです。敬志もそうです」
――伝わったかな。
「笹倉さん、どんな些細な事でも、敬志に連絡して下さい」
「はい」
「笹倉さんからメッセージが届くと、敬志は幸せそうな顔をするんですよ。だから、お願いします。敬志に迷惑をかけたくないとか、心配させたくないと思うなら、なおさら、ね」
笹倉さんは気づいた。
石川さんの手紙の件を、俺ではなくて敬志に連絡すべきだったのだと気づいた。だからこれ以上の事はしなくていい。
「では、帰ります。玲緒奈さんに連絡しますので、玲緒奈さんからの折返しを待っていて下さい」
「はい。あの、いろいろと申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけしました」
そう言って頭を下げる笹倉さんは目の下にクマがある。長い付き合いの友人の火急にすぐに駆けつけ、深夜に帰宅して、悩んで、俺に連絡した。疲れただろう。
「ああ、笹倉さん。最後にひとつ、伺います」
「はい」
「敬志から『大好き』って、メッセージは毎日届きますよね?」
「えっ……」
「ふふっ、お答えにならなくて結構です。では帰ります」
俺は恥ずかしそうに目を伏せた笹倉さんに微笑み、閉じられた玄関ドアの施錠とチェーンのかかる音を聞いていた。
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