第9話 接触
須藤さんの昔の女とは
兄の息が掛かったクラブのママが引退して、チーママだった吉原絵里がその店のママとなった。
それ以後兄はそのクラブを使わなくなったが、須藤さんは偵察目的でクラブへ行っていて、二人は恋仲になった。
「絵里の目的は、まだはっきりしない。
「……そうですか」
「敬志」
「はい。何でしょうか」
「念の為聞くけど、優衣香ちゃんも対象なの、分かってるよね?」
「……もちろんです」
――須藤さんの今の女は優衣香の知り合いだ。
玲緒奈さんは俺が知っていると思っていた。だが俺は知らなかった。優衣香が俺に話さなかった理由は何だろうか。同席していた兄からも何も聞いていない。
須藤さんのプライベートに関わる事だから優衣香は秘密にしていたのだろう。でも玲緒奈さんは知っていた。玲緒奈さんは兄から聞いたのか。どうして俺には話してくれなかったのか。
「あの、須藤さん。須藤さんが今お付き合いしている女性についてお聞きしたいです」
「ふっ、やっとお前は知ったのか」
「はい」
「優衣香ちゃんから聞いたのか?」
「いえ、姐さんからです」
「そっちか。ふふっ……俺もさ、絵里の事は、正直、引きずった。けど彼女と出会って忘れてた。ふふっ……それなのにさ……酷くね? また、俺の恋は終わっちゃうの?」
須藤さんの声が微かに上擦った。
今は優衣香の知人であるその恋人の事を大切にしているのだろう。
優衣香の実家の事件後、須藤さんは兄と定期的に優衣香と会っていた。
二年前、兄が予約しようとした店のメニューが四人から予約可能で優衣香が一人連れて行く事になり、そこで二人は初めて会った。
その女性は優衣香が新卒で入った会社の同期で、優衣香も兄も須藤さんと彼女をくっつけようという魂胆があったわけではないのだが、その後二人は会うようになったという。
「署の隣のブロックにある会社ってさ、優衣香ちゃんが勤めてた会社の支社だろ?」
「ああ、そうですね」
署は町内会の要請で防犯講話を開催しているが、会場はその会社の講堂を借りている。彼女は総務課勤務で、社内報に防犯講話の記事を載せる為に担当者として出席していたという。
「お互いにすぐ気づいてさ、話してる間に趣味が同じだと知って、それから会うようになったんだよ」
「えっと、手芸?」
「レース編みね」
彼女には婚姻歴はあるが、ご主人を亡くされている。子供はおらず、新しい人生を選択する事も出来るが、彼女は婚家の名字のままで婚族関係終了届も出していないという。
「体の関係は無いよ」
「えっ……」
「指一本触れた事が無い」
「そうなんですか。ではただの友人、という事ですか?」
「うーん、去年までのお前と優衣香ちゃんみたいなもんだよ」
「じゃあ、須藤さんは……」
「ふふっ、そりゃね……彼女の名前は
「漢字は加藤の奈緒に美しい、ですか?」
「うん」
優衣香の前の会社の同期で奈緒美と言えば彼女だ。
俺は彼女の話を聞いていたし、結婚式の写真を見せてもらった事もある。
「旧姓は山野さん、ですか?」
「ふふっ、そうなんだよ」
「まさか……それはないですよね?」
「ふふっ、そのまさかなんだよ。優衣香ちゃんは奈緒美さんの従姉妹が警察官だと知ってて、身元に問題ないだろうと思って奈緒美さんを連れて来たんだよ」
須藤さんの恋人の従姉妹が山野なのか。
そうなると須藤さんの情報は恋人経由で漏れている事も有り得る。
須藤さんは彼女から山野が従姉妹である事を早い段階で知らされていた。だが彼女と山野は親戚付き合いはもちろんあるが、親しくしているわけではないという。
「敬志、優衣香ちゃんは口が固いだろ?」
「はい」
「何で口が固いか、考えた事はあるか?」
「えっ……あの、仕事で守秘義務があるから、それで慣れてるのかと思いますけど……」
「違うよ。元々姐さんが注意してたみたいだけど、俺も敦志もかなり脅したんだよ」
「えっ……」
「ごめんな、でも大事な事だからさ」
須藤さんは、優衣香が俺の事を誰かに話すと俺が危険だと言っていたそうだ。話が漏れると、そこから兄や玲緒奈さん、理志も危険だとして注意していたという。
「おかげでさ、優衣香ちゃんはお前と会った事すらも漏らさないようになっちゃったんだよ、ふふっ」
「そうなんですか」
「良いんだけどね、それくらい警戒してくれるの」
◇
午後六時十五分
須藤さんとの電話を終えた俺は寝室を出たが、優衣香はいなかった。キッチンを覗こうとした時、ダイニングテーブルの上にメモがある事に気づいた。書斎で仕事しているから声を掛けて欲しいと書いてある。
廊下に出て、玄関の向かいにある部屋をノックすると、声がして優衣香がドアを開けた。
俺は優衣香の顔を見た途端に心臓が締め付けられるような感覚に襲われ、思わず優衣香を抱き寄せてしまった。
――こんな気持ちになったのはいつ以来だろうか。
事件後に優衣香に初めて会った時だ。
玄関のドアを開けた優衣香の顔を見た瞬間に俺は、優衣香を守りたいと思った。この先何があっても守ってみせると。だが今は恐怖も感じている。
優衣香は突然の出来事に最初は驚いていたが、すぐに背中へ腕を回してきた。
俺はそのまま優衣香を強く抱きしめた。優衣香は俺を好きでいてくれている。その事が嬉しくて、抱き合う事を止められない。このまま優衣香とひとつになりたい。そう思ったが、優衣香の柔らかさを感じるだけで精一杯だった。
優衣香が好きだ。その想いを伝えたかった。しかし言葉が出てこない。好きという言葉だけでは足りない気がしていた。
優衣香が顔を上げて、潤んだ瞳で見つめてきた。何かを言いたそうだが、それを遮るように優衣香の顎に手を添えて、顔を上に向かせた。
そしてゆっくりと優衣香に近づきながら目を閉じた。
その時、スマートフォンが鳴った。
俺は目を開けると、鳴り続けるスマートフォンを手に取り、画面に表示されている名前を見て、慌てて通話ボタンを押したが電話は切れた。
「優衣ちゃんごめん、邪魔されちゃった」
「ふふっ、電話をしておいで」
優衣香と軽く唇を重ねて、俺は電話を折り返す為に寝室に戻った。
◇
寝室へ行き、スマートフォンの画面を見ると、中山陸からメッセージアプリにメッセージが届いていた。
『もしかしてヤッてる最中?』
『折り返しは終わったらで良いからねー』
――バーカバーカ!!
中山陸とは同期で仲良くしているが、俺は中山の恋人の話を一度も聞いた事が無い。お互いに女を食い散らす男と認識しているが、俺に『特別な女』がいる事を察しているようだとは思っている。俺も中山には俺と同じような女がいるような気がしている。
呼び出し音は三回目が鳴る事無く、中山の声が聞こえた。
「終わった? いっぱい出た?」
「ヤッてない」
「ふふっ……」
「で? 用件は?」
続けた中山の話に俺は息が詰まった。中山は須藤さんの指示で既に優衣香に接触済だと言う。
「お前の女、俺に連絡先教えてくれたよ」
俺は一瞬目眩を覚えた。
中山は優衣香に手を出したのか。俺の怒りを感じ取ったように、電話口の向こうの中山は満足そうに笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます