第5話 絶望

 午後八時五分


 俺は電子レンジを許さない。


 優衣香のおっぱいの上で繰り広げられた再試合は電子レンジの終了音でまた試合が中断された。

 俺はおっぱいを全て覆うパットを許さないし、電子レンジも許さない。


 それに別の試合もあった。

 どうしてもこのままベッドへ行きたい俺と夕飯が先だとして一歩も引かない優衣香の戦いだ。

 まあ俺が強気に出れるわけもなく、夕飯の支度をすることになって少しだけしょんぼりしたが、俺にはあと三十二時間あるから我慢した。


 優衣香は明日の八時半から夕方五時半までは仕事だ。だから三十二引く九で、二十三時間。えっと、うん、二十三時間は優衣香とイチャイチャ出来る。ヤバいな、二十三時間もあったら俺、何回出来るかな。今夜は二回で、起きて一回か二回、昼に一回ってヤバいな、やり過ぎかな。でもな、半年ぶりだしそれくら――


「――ちゃん、敬ちゃん、すあまがあるよ」

「えっ、すあま?」

「うん。ペタペタするのと粉付きの、どっちが好きなの?」

「ペタペタする方」


 美味しいかと問われると少し悩むすあまだが、子供の頃から好きなペタペタする方のすあまを優衣香が買っておいてくれて嬉しかった。すごく幸せだから、おっぱいを全て覆うパットも電子レンジも許してあげようと思った。


 ◇


 部屋着に着替えて風呂を洗い、リビングに戻った俺はダイニングテーブルの席に座ってカウンター越しに優衣香を見ていた。


 一昨日の夜に優衣香へ電話した時、また優衣香は焦った声で電話に出た。

 あの時は長く会えないだろうと思ってそれを知らせる意味で葉書と言ったのだが、優衣香は葉書を待っていたという。

 日付と時間を伝えると、優衣香は嬉しそうな声で「早く会いたい」と言ってくれた。


 優衣香は半年も俺を待っていてくれた。

 二ヶ月でも長いのに半年も待つなんて、本当に優衣香はそれで良いのだろうか。前にこの話をした時は良いと言っていた。でも、今は変わったかも知れない。

 そうやって、俺は不安な気持ちを抱いたままでいなくてはならないのか。

 結婚すればそんな事は考えなくても良いのだろうか。


 向けられた視線に気づいた優衣香と目が合った。

 微笑む優衣香は「どうしたの?」と聞くが、言えるわけもない。

 俺は立ち上がり、夕飯の支度を手伝おうとキッチンへ行った。優衣香はちょうど、小皿や箸、醤油をトレーに乗せたところだった。


「手伝うよ」

「えっ? ああ、ありがとう」


 そのトレーを受け取り、ダイニングテーブルに並べてまたトレーをキッチンに持って行くと、座っていて良いと言う。

 俺は席に座り、小鉢のほうれん草の胡麻和えを見ていた。


「敬ちゃん、食べてても良いんだよ?」

「えっ、でも揃ってからじゃないと……」


 俺の実家はキッチンにあるダイニングテーブルで食べるが、母が料理して出来上がったおかずから順に食べていた。母は子供達の食の進み具合を見ながら料理を作り、自分の食事は片手間だった。


 九年くらい前、今日のように優衣香が夕飯を作ってくれた時に、俺はテレビを見ながら先に出されていたおかずを食べたら優衣香がそれを咎めた。

 そう言えば優衣香の実家は全員揃ってから食事を始める家だったなと思い出して、俺は謝罪した。


「食べていいよ。お腹すいてるでしょ?」

「ううん、待ってる」

「いいから。ふふっ、気にしないよ?」


 ――なんで、気にしないのかな。


 前の男が先に食べる奴だったからか。手伝いもしない男だったからか。だから優衣香は慣れたのか。

 風呂洗いもそうだ。優衣香が風邪をひいた時は看病のひとつだと言って納得させたが、前回風呂洗いすると言ったら驚いていた。食器洗いもそうだった。


 胸の奥がツキンと痛む。歯痒い。


 ――優衣ちゃん、俺はその男よりもいい男かな。


 ◇


 食事を済ませ、食洗機に入らなかったフライパンや鍋を洗っていると、後ろに立った優衣香が抱きついて来た。

 背中に押し当てられる柔らかな感触に、心臓がトクンと跳ねた。

 スポンジを持つ手が止まる。


 ――これ妄想カタログにないシチュエーションだ!


 俺は嬉しかった。

 ずっとこうしていたいが、泡だらけの手では抱き締め返す事が出来ない。

 優衣香はTシャツの中に手を入れて、指先で腹をなぞり、ゆっくりと上へ移動させていった。

 指先が胸に触れた時、優衣香は手のひらで胸を全力で揉みしだいた。


「優衣ちゃん! やめっ……くすぐったい!」

「んふふふっ……」


 優衣香の手は下へ伸びていく。

 短パンのウエストに触れて手が中へと滑り込んだ。


 ――優衣ちゃん、どうしたの?


 俺の頭にはエロい事しかなかった。優衣香だって半年ぶりだ。したいのだろう。そう思っていると体は反応した。そのままそこに触れられたら、俺は絶対にゴーゴーヘブンする。だから触って欲しくない。でも、触れて欲しい。

 優衣香は短パンに腕を入れて太腿に触れた。指先でなぞりながら、上に移動させて、そこには触れずに両手を短パンから引き抜くと、パンツのウエストに指をかけた。ああっ、優衣ちゃんだめだよゴーゴーヘブンしちゃう――。


 と思ったが甘かった。

 優衣香は短パンとパンツを下ろして俺を半ケツにして、手拭きタオルと布巾を掴んで逃げた。


「ちょっ! 優衣ちゃん!」

「んふふふっ」


 流し台の向こうのカウンター越しに、優衣香はほくそ笑んでいた。


「この前されたことの仕返しだよ?」

「もー」


 俺は頬を膨らませながら半ケツで洗い物を続けた。


 ◇


 午後九時四十三分


 俺は今、和室で優衣香とイチャイチャしているが、優衣香を腕に抱いたまま何も出来ないでいる。おっぱいを触るどころかキスも出来ない。


 ――おっぱい触りたいし揉みたい。


 洗い物を済ませ、パンツと短パンを引き上げて優衣香にイチャイチャしたいと言うと、和室に行こうと言われて付いてきた。

 優衣香は座布団に座る俺に甘えて来たが、俺は優衣香にソファを買おうと言った。もちろん購入費は俺が出すと言った。だが優衣香はリビングダイニングはソファを置けるほど広くないから嫌だと言う。ゴロゴロするなら和室で良いと言う。


 ――優衣ちゃん、お仏壇があるから気になるんだよ。


 仏壇の扉を閉めてもダメだ。手前の経机におじさんとおばさんの写真がある。

 俺にはここで優衣香のおっぱいを揉む度胸は無い。


 俺のそんな思いを知らず、仏壇に背を向ける優衣香は唇を求めて来る。指先が首すじをなぞり、潤んだ瞳で俺を見つめるが、俺は出来ない。


「優衣ちゃん、ベッドへ行こう」

「んー、お風呂は?」

「ああ、一緒に入る?」

「だめー」

「どうして?」


 優衣香は少し考えてから言った。「恥ずかしいから」と。

 そう言った優衣香が可愛くて、額にキスをした。


 ◇


 午後十時四十分


 風呂から上がってリビングに戻ると、優衣香は和室とは反対側にある寝室から出てきた所だった。

 ダイニングテーブルの席に座る俺と行き違いにキッチンへ行った優衣香だが、手に何かを隠すように持っていた。


「敬ちゃん、良いのがあるんだよ」


 そう言った優衣香は冷蔵庫から缶チューハイを取り出して、ガラス皿に乗せたレモンのシャーベットと一緒に持ってきた。「シャーベットにかけて食べると良いんだって」と言うとキッチンへ戻った。


 缶チューハイをレモンのシャーベットにかけて混ぜ、スプーンで掬って食べると冷たくて美味しかった。こういう酒の呑み方もあるんだなと思いながら優衣香を見ると、何かを口に入れて水を飲んでいた。


 ――薬、か?


 俺は立ち上がってキッチンへ行くと、優衣香は驚いた表情で俺を見た。


「何を、飲んだ?」


 声音が変わってしまった。

 優衣香はさらに目を見開いて俺を見つめる。


「あの、鎮痛剤……」

「どうして? 痛いの? 頭痛?」


 シンクに置いた薬は確かに解熱鎮痛剤だった。第一類医薬品、ロキソプロフェンナトリウム錠だ。


「……優衣ちゃん、どうしたの?」


 唇を噛んで下を向いた優衣香の腰に腕を回して引き寄せて、顎に手を添えて、上を向かせた。


「優衣ちゃん、話して」


 上を向いても目を伏せる優衣香の答えを待った。


 だが口を開いた優衣香の答えは、考えてもいなかった事だった。


「あの……生理痛、なの」


 ――半年ぶりなのに、まさかの、おあずけ!


 膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、俺は優衣香を強く抱き締めた。




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