第4話 時間
玲緒奈さんは優衣香が話すその男について嫌な予感がして、母を介して身元調査をするように優衣香の母親へ伝えた。
調査会社も玲緒奈さんが紹介して、調査結果を見た優衣香の母親は優衣香に別れるように言った。優衣香はそれに従い別れ話をしたが、その際に調査会社を入れた事を正直に話してしまい、その結果が放火殺人だった。
調査会社を入れずに優衣香がそのまま結婚していたら、優衣香と優衣香の母親は財産を全て奪われていただろうと思う。
その男は金銭問題があり、養子縁組を繰り返していた。
当時、俺は母から調査会社を入れて調べたら良くない結果だったと連絡を受けたが、優衣香に会う時間が取れず、そのまま仕事が忙しくなり、心配だったがどうにも出来なかった。
八ヶ月ぶりに個人のスマートフォンを見て、母からのメッセージで事件を知った後の記憶は曖昧だ。
俺は所轄署で暴れた後、二ヶ月の傷病休暇は実家で療養した。
その際に母、兄、玲緒奈さんとで話し合い、母が調査会社を入れるよう優衣香の母親へ言った事は優衣香には秘密にしようと決めた。
優衣香の担当は相澤裕典だった事もあり、優衣香の母親がなぜ調査会社を入れたのかを優衣香は知らなかったと裏は取れていた。
事件後、俺の家族は優衣香へ連絡を取る事が多くなった。母は年二回の命日前後には必ず優衣香のマンションへ行くし、それ以外でも会っていた。一人暮らしの母を気にかけて、優衣香が俺の実家を訪ねる事もあった。
玲緒奈さんも友達として接触回数を増やしたし、須藤さんは兄と高校時代からの友達で、優衣香とも面識があるから兄と三人で年に数回は会って食事をしていたという。
俺も何とかして会う回数を増やそうとはしたが、頻度は変わらずだった。だが優衣香に会うと、優衣香は俺に甘えるようになった。身体接触があるわけではない。ただ以前より距離が近いなと思う事があり、優衣香が俺の想いを受け入れてくれるのかなと思った。
だがなんとなく弱みに付け込んでいるような気がして、俺は何もしなかった。優衣香が自分の意思で俺を求めてくれるまで待った。
「敬志、優衣香ちゃんを幸せにしてあげなよ」
「……はい」
駅前の繁華街に差しかかる横断歩道で玲緒奈さんはそう言うが、俺に出来るのだろうかと不安になった。
「優衣香ちゃんね、昔、お義母さんから『警察官と結婚しちゃだめだよ』って言われたんだって」
「えっ……」
「お義母さんにどんな意図があったのかは知らない。でも、お義父さんが殉職した後にね、お義母さんは『警察官の妻で幸せだった』って言ったんだって」
そんな話は優衣香から一度もされた事がない。
優衣香はなぜ話してくれなかったのだろうか。
◇
「ところであんたさ、いつまで付いて来るの?」
「えっ……あの改札口まで、ですけど」
「ふふっ……あんたって本当に優しいね。ふふっ」
玲緒奈さんは、女を食い散らかす碌でもない男の時といい男の時の振り幅が酷過ぎると言う。加藤にも言われたな、と思いながら聞いていると、九年前の遊びの女が署で暴れた時の事を話し始めた。
「その件は本当に申し訳ございませんでした」
「んふっ……でももう、優衣香ちゃんいるから、安心しても良いよね?」
「はい。もちろんです」
俺はその女に兄の名前を騙っていた。
所属は兄も玲緒奈さんも俺も無関係の署だと言っていたが、女が来署した時にたまたま玲緒奈さんがいて、大惨事だったと聞いた。地獄の方がまだマシだったろうと、居合わせた同期が言っていた。
俺は玲緒奈さんと兄からガチギレされ、反省して兄の名は騙らないようにした。
「そういうのも、優衣香に話してあるんですか?」
「私は話してないよ。
――チンパンジーめ。余計な事を言いやがって。
「子猿も早く再婚すれば良いのにね」
「ん?」
「優衣香ちゃんの紹介で付き合い始めた人。もう二年くらい経つよね?」
――ぼくの知らないところで交友関係が広がってる。
「……知らないです」
「えっ……」
玲緒奈さんは、俺の良い所しか話していないと言う。それが俺にとって都合の良い話なのかは別問題だが、少なくとも優衣香が俺を嫌いにならないようにはして来たと言う。
――問題はチンパンジーだ。
チンパンジーに優衣香の事を知られたのは事件後だった。
須藤さんにとって優衣香は、高校時代にうちへ遊びに来た時に弟の理志と遊んでいた中学生の女の子だ。
事件後に来署した優衣香と再会した際、事件担当では無かったが、親身になって対応したという。
「ねえ、私はあんたより優衣香ちゃんに会ってる。だからあんたの知らない優衣香ちゃんを知ってる」
「……はい」
「優衣香ちゃん、加藤並に手強いよ」
「えっ……」
優衣香は職業故に秘密を漏らさない。玲緒奈さんがある事を聞き出そうとしたが、優衣香は頑として口を割らず、ずっとにこにこ笑っていたそうだ。
警察官ですら尋問されたら即答する狂犬の親玉相手に口を割らない優衣香は凄いなと、思った。
「子猿から何を聞いているのか聞き出そうとしても、あんた絶対に失敗するからやめときなよ」
「……はい、そうします」
ぼくの知らない間に優衣ちゃんは怖い女の人になっていたみたいだ。
◇
午後七時五十三分
改札口の向こう側、階段を降りようとしている玲緒奈さんが振り向いて手を振っている。
俺はそれに応えて、姿が見えなくなるまで見ていた。
明日は休みだ。
優衣香のマンションを出るのは明後日の早朝。
在宅ワークに切り替えて家にいてくれると優衣香は言った。こんなに長く優衣香と一緒にいられるのは初めての事で、俺は嬉しくてたまらない。
――残り、あと三十二時間。
優衣香に戻ると連絡しようとスマートフォンを取り出すと、葉梨からメッセージが届いていた。六分前に届いていたメッセージには、駅付近で外食するからマンションを出るとあった。
マンションから駅までは六分だ。
――あれっ、もう近くにいるって事?
優衣香が加藤と同じマンションに引っ越さなきゃこんな事で焦る必要も無かったのだが、仕方のない事だ。
葉梨へ加藤とどこへ行ったのか、メッセージアプリの位置情報を送れとメッセージを送ると、すぐに返った来た。
――ラーメン屋、か。
俺はそのラーメン屋を避けて優衣香のマンションへ急いで帰った。
◇
「ただいま、優衣ちゃん」
「おかえりなさい」
玄関ドアを開けた優衣香が笑顔で俺を見上げている。
夕飯の支度をしていたのだろう。美味しそうな匂いがする。
俺は優衣香に微笑みかけると、唇を重ねた。
靴を脱いで優衣香の腰に腕を回して、そのまま玄関正面の壁に優衣香を押し付けた。
優衣香は俺の肩に手を置いて、背伸びしてキスをした。
最初は軽く触れるだけの優しいもので、二度目は角度を変えて、長く重ねていた。
そして三度目は深く重なった。
優衣香の首すじを指先でなぞると、くすぐったいのか優衣香は唇を離した。優衣香の潤んだ瞳を見て、俺の中の何かが弾けた。
――したい。
そう思った時には既に、優衣香を強く抱き寄せて再び唇を貪っていた。
優衣香もそれに応えるように舌を絡めてくる。何度も繰り返し唇を重ねていくうちに、俺の中で理性が崩れていった。
優衣香は俺の首に腕を回して強く抱きしめ返してきた。
俺と優衣香の三十二時間が始まった。
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